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虫食う家

作者: 遠藤ほうり
掲載日:2026/06/16

 リズミカルな包丁の音と、上機嫌そうないつもの鼻唄が聴こえてくる。


 漂ってくる美味しそうな匂いは雛咲ひなさきが作る夕飯の匂いだ。恐らくは味噌汁と焼き鮭だろう。

 私が目覚めたのは無駄な熱量のない、涼しいリビング。だけど今の私は毛布にくるまっていてむしむしする、不快だ。合皮の張られたソファも私から出た湿気の受け取りを拒否していて、肌に突っ掛かってくる。


 気温と湿度が高いほど、不快指数も高くなるのだったか。


 私にとって体温に馴染むくらいの温度感は、言うなれば知らない誰かにベタベタと抱き着かれているような気持ちがしてしまう。それで汗をかけば、菌の繁殖環境の出来上がりだ。


 寝ている身体を冷やさないのには丁度良いかもしれないけれど、そんな想像をしてしまうくらいには苦手だった。


 薄い毛布を放り捨てれば、室温は22℃。涼しくて程よく乾いた空気が、微かに汗ばんでいた肌を拭いさる。その心地好さに大きく伸びをしながら深呼吸をすれば、まるで身体の中を干したよう。一言で言えば、清潔だ。


 なんてことを考えながら食欲をそそる匂いに想いを馳せたところで、「あっ」と私は飛び起きた。


雛咲(ひなさき)、あいつ皮捨ててないよな?」


 キッチンへと駆け込んでみれば案の定、彼女は焼きたての鮭から器用に箸で皮を剥がしている最中だった。悪戯が見付かった子どもみたいな顔をするその姿に、思わず大きな溜め息が漏れる。


「だぁから、私皮食べるって言ってるじゃんか」


 箸を持つ彼女の手を掴んで皮を皿の上に。あからさま不貞腐れた表情。


「えー、勿体ないの」


 ぶつくさと文句を言いながら、雛咲はキッチン近くの壁に開けられた穴を未練がましく見つめている。その穴の見てくれは言わば投函口といった形で、今この瞬間にもうま味調味料的な匂いを醸し出している。


「勿体ないって、いやどっちが」


 キッチンを見れば、皿の上にはポテトサラダと皮をひっぺがされた可哀想な焼き鮭が。どうやら盛り付け自体は終わっていたようで、私はふたり分のそれをテーブルまで運んでいった。


 雛咲はまだ納得いかない様子で、ふたつの茶碗としゃもじを手に炊飯器へと。そうして炊き上がっていた米を混ぜながら、ようやっと文句が固まったらしい。私の方を見ないようにしながら「あのね各務(かがみ)、あれはゴミじゃないの。バイオ燃料なんだよ。生ゴミを捨てれば捨てるほど電気代とかガス代が節約出来るの。だったら捨てられそうなものは捨てた方がお得なんだよ」などと述べ出した。こうなると雛咲は面倒くさい。


 そりゃあそうでしょうよ。だなんて聞こえないようにぼやきながら、手渡されたしゃもじで茶碗に米を盛る。普段よりも多めによそうのは、焼き鮭が私の好物だからだ。


 そう、好物なのだ。だから勝手に皮を捨てようとした雛咲のことは許しがたい。私が言い返したくなるのも仕方ないことで、もう後々が面倒とかそういう考えは、もはや羽虫くらいの大きさしかなかった。


「あのさぁ、だから鮭の皮はゴミじゃないから捨てるなって言ってんの。節約は食えないもんでやってよ、人が食えるもんをわざわざ進んでハエとかゴキブリのエサにするのは逆にもったいないから」


 だなんて反論しながら食卓につくと、米をよそっていた雛咲はとても嫌そうに顔をしかめて私を見ていた。なんだよ、なんか文句でもあんのか。みたいな感じで睨み付けると、雛咲は渋々と口を開いた。


「ご飯なんだから、そういう話やめてよ」




「ごちそうさまでした」


 もともと小食な雛咲は、いつも私よりも先に食べ終わる。そしてやはりと言うべきか、私が捨てないよう言った鮭の皮ごと自分の食器を下げようとしている。


「皮、食べる」

()(ざと)


 私の皿に皮を移しながら、彼女はボソッとこぼした。このまま捨てられるならいざ知らず、ふたつの皮を見事守り抜いた今となってはなんとでも言えという気にもなろう。


 最後に白米と今しがた手に入れた皮とを口に放り込んで、しっかりと噛んで味わう。この塩味と炙られパリッとした歯ごたえ、少しぬるっとした舌触りに頬が弛んだ。充分に咀嚼してからそれをごくんと飲み込んで、私もご馳走さまだ。両手を合わせた。


 そうして私は、捨てるものが見当たらないくらいに綺麗な皿をキッチンへと運んでいく。今しがた置いたのでふたり分になった食器を前に一息、すぐに洗い物を済ませないと「虫がばらけちゃうでしょ」だなんて言われてしまうだろう。少しくらい食器を放っておいたところで、そんなすぐに虫が集るとは到底思えないけど。この穴の匂いはなんの為だと思っているのやら。


 それは、それとしてだ。


 食事中はあんなに喜ばしかった後味も、食べ終わってしまえば不思議と不快に感じてしまう。私はコップに注いだ冷水をごくごくと飲み干して、口の中と喉とを洗い流す。そうしないとなんか、ばっちい。


 私が寝ていたソファに腰を降ろして、別段興味なさげにテレビを見ている雛咲に言った。


「たかだか鮭の皮一枚でそんな変わんないって。どうせジャガイモとかニンジンの皮とかは入れたんでしょ? そんだけやりゃあ充分だって」


 それでも雛咲は唇を尖らせたままで、段々と面倒にもなってしまう。皿を湯にさらして、スポンジをぐしゃぐしゃと泡立てる。手付きが乱暴なのはそう、私も少し不機嫌だからだ。


 そもそも虫が嫌だからとこの家を選んだのは彼女だ。それが壁の中で害虫を養殖している現状は、なんというか。


「つーか、そんなに効率気になるんなら改良用のエサでも買えば良いのに」


 なんて捨て台詞で一旦話は終わり。腰は重いが洗い物に本腰を入れようかというところで、雛咲が「なにそれ!」とはしゃぐみたいな声を上げるのが聞こえた。聞こえたけど、カチャカチャという食器の音と水音で聞こえなかったことにした。


 壁の穴からは、変に美味しそうな匂いが漏れ出している。





 ねぇねぇ各務、と妙に弾んだ様子で雛咲が私を呼んだ。


 彼女の手からふたつの買い物袋を受け取りながら、あ、ともん、とも聞こえそうな返事をしたけれど、両手の空いた彼女は既に靴を脱ぐことに意識が向いているらしい。ふたつの袋の内、食料品が入っている方、彼女が買った肉やら豆腐やら冷凍食品やら、あとは野菜だったりなんかを足が早そうな順に冷蔵庫に詰めていると、靴を脱ぎ終えた彼女が作業中の私の真横へと来てにやにやとし始めた。


 うっわ。ものすごく、訊いて欲しそうな表情。私は内心面倒だったけど、ひとつ大きく溜め息をついてから言った。


「……なに?」

「買っちゃった」


 何が、と訊ねるのが早いか、雛咲はがさごそと食料品じゃない方の袋からなにやらを取り出した。パリッともザクッともとれる音を鳴らしたそれは小振りなプラ袋で、傍目には何か風邪薬の一袋みたいに見える。


「これはね、新開発の発酵用微生物を配合したエサで、バイオガス生産量が従来の1.7倍になるんだよ、当社比」


 雛咲は自慢げに袋をずいと私に見せ付けた。人畜無害そうにデフォルメされたハエやゴキブリがニコニコとエサを食べているイラストの描かれたパッケージは、なんともまぁありがちだ。ああ、昨日食器洗うときに言ったやつねと適当に返事だけして、私は持っていたぶなしめじを冷蔵庫へとしまい込む。食材いじってる時に虫の話するなっての。


「しかもね。一度これを入れれば繁殖槽の中でコロニーを形成して、新しく生まれるやつにも、これから入ってくるやつにも定着するんだよ。すごいでしょ?」


 だなんて、言いたいことを言ってスッキリ気分の彼女はもう私にはお構い無しで、半ばスキップでキッチンの方へ。そうして鼻唄混じりに袋を開けると、雛咲は件の穴の方へと袋を傾けた。中身がさらさらと落ちていくのを聞く限りそれは顆粒らしい。


 それにしても、コバエ取りなんかもそうだし仕方がないのわかっているけれど、こういったものがやたら美味しそうな匂いをしているのにはなんだか不服を覚えてしまう。


「ほら、お腹いっぱい食べるんだぞ~」


 まるでペットだ。


 いくらそうならないように出来ているとはいえ楽しそうに壁の中へとエサを流し込む雛咲だって、もしそこから虫が上がってきたら大騒ぎするだろうに。仮にそうでなくても、中は生ゴミと家庭の害虫がうぞうぞと、ガスを発生させてるのは確定だ。


 食べ物をしまい終えた私がそそくさとリビングへと退散すると、いつも通り雛咲はハンドソープで手を綺麗に洗って、夕飯の支度を始める。


 彼女はとても料理好きで、包丁を握るといつも鼻唄を歌うほど上機嫌になる。その鼻唄と同じものをついさっきも聞いた気がするけれど、よっぽどご機嫌だったんだろうか。


 その扱いになんだか納得いかなくて、私はひとりごちた。


「なんか、虫のいい話だよな」



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