第六話 キアラン1
キアラン・クラリウスは塩山の頂にいた。
むき出しの白い岩山が塩をもったようだという理由で名づけられたというが、こんなに真っ白な塩は旅商人が持ってくる貴重な海塩でしかお目にかかったことはない。その白い岩肌のきらめきのためか、「南の神の玉座」という別名があることを現地の住民から聞いたばかりだった。
キアランはライ麦パンにベーコンと羊のチーズをはさんだものを頬ばりながら、眼下に広がる樹海をながめていた。
遙か彼方の樹海の端は霧がかったように白くけぶっている。天気が良く空気が澄んでいるときには、町のようなものが見えることもある。昔、旅商人からあの町の名前を聞いたことがあったが、長く複雑な名前でうっかり忘れてしまった。
――いつか行ってみたいものだ。
とキアランは思った。
しかし、樹海は狼の領域であり、魔法を使うことができない。
神話の時代、白い星の魔法使いがあやまって狼の王の子供を殺してしまったことがあった。
狼の王は怒り、白い星の魔法使いを追い回し、ついに崖の端にある一本のドングリの木まで追いつめた。そこで、白い星の魔法使いは狼たちに夜の声を与え、また、狼の領域内では魔法を使わないという約束をして許してもらったのだという。
約束を破ると、たちまち狼の群に取り囲まれて食い殺される。そのため、子供が魔法でいたずらをすると、「ここは狼の領域だよ」と母親が言うのがおきまりだった。
もっとも、孤児院で育ったキアランにはそんなことを言ってくれる母親はいなかった。それどころか、いたずら好きのキアランに手を焼いた院長は、「狼に食い殺されなさい!」と彼を森の中に置き去りにした。
しかし、彼は泣くどころか、狼に挑んでやろうと森の中を意気揚々と歩き回ったのだった。
そのうちに疲れはてて眠ってしまい、本当に狼に囲まれてしまった。そのとき、どこかの魔法使いが助けてくれた。
彼は院長を叱りつけると、キアランを養子にすると言い出した。それがのちに偉大なる魔法使いと呼ばれる人だった。
キアランはふっと懐かしい記憶を思い出して微笑んだ。
偉大なる魔法使いの養子になったばかりのころ、「鳥になって樹海を渡れば翼のない狼には手が出せないでしょう?」とたずねたことがある。
「いいや、夜の声で森に引きずり落とされてしまうのだよ」
と教えられた。
ところが、納得のいかなかったキアランはミレスアロナでは教えていない変身魔法を独学で身に着け、実際に鳥になって試してみたのだった。
結果、彼は、背中から這い上がってくるようなぞっとする遠吠えを聞き、心に黒いインクをぶちまけられたように何もかもが見えなくなって、気絶した。そのとき助けてくれたのもやはり父だった。後にも先にも叱られたのはその一度きりだった。
キアランは懐から手帳と羽ペンを取り出した。彼は肩書きの上では王宮付きの詩人ということになっている。そのために年に一度は自作の詩を王宮に献上しなければならないのだ。
キアランははたとペンと止めた。
去年、王宮で執政官をしている兄から、
「もっと分かりやすい詩を書くように」
と言われたことを思い出し、首をかしげた。
「分かりやすい……?」
そうつぶやいて樹海をながめる。
樹海は広い
青くて黒い
まるで夜の布団のようだ
それでも端はある
王宮の影のように
キアランは苦笑して頁を破ると、それを丸めて捨てた。
半年前、突然父が亡くなった。
王都の郊外で隠居をはじめてから人が変わったように引きこもりがちになり、一族の者でさえもめったに会うことができなくなった。しかしまさか、死の病にとりつかれていようとは誰も想像できなかった。
キアランは今でもその死に疑問を持っていた。
彼が急いで帰ったとき、父は青黒く干からびたような姿で横たわっていた。
「これが本当に父ですか?」
と思わず尋ねたほどだった。
まわりの兄弟たちも青白い顔をして立ちすくんでいた。おそらく、みな父の死を受け入れられなかったのだろう。カラム兄さんが死に、リーラもいなくなり、父まで……。
――もしかしたら、いまでも……。
キアランは沈むような気持ちを感じ、それを吐き出すように深く深呼吸をした。
どこを旅していても、すきま風のように父の死が入りこんでくる。
父がいないのであれば王都に帰る理由もない。ただの詩人となって、樹海の外に出てみるのも悪くはないかもしれない。そうすれば、父の死の呪縛からも逃れられるだろうか。
とはいえ、馬も道に迷うと言われる樹海をどうやって抜ければいいのか見当もつかなかった。
樹海を越えて来る旅人たちのほとんどは、狼によく似た犬という動物を道案内に従えてくる。よく鼻が利き、人なつこく、主人の言うこともよく聞く利口で従順な生き物だ。
私も犬を飼ってみたいな、とキアランは思った。
しかし、ミレスアロナでは、犬ではなく、魔獣を飼い慣らす研究がされていると聞いたが、あれはどうなったのだろう。
魔獣とは、なんらかの原因で動物の魂に妖精が住みつくと生まれる生き物らしいが、ミレスアロナではそれを人工的に生み出し、人に従順な魔獣をつくろうとしているらしい。
キアランは背後を振り返った。
外へ出ようか、と考えたばかりだというのに、好奇心が王都へ引きよせる。
――やはり、そろそろ詩人はやめて、また学院に戻ろうか。
キアランはミレスアロナの研究生だった。ところが、博士号をとる寸前に、ふと詩人になりたくなって、学院を去ったのだった。
――しかし、またかび臭い部屋に閉じこめられるのは、やっぱり嫌だな。
そんなことを思いながら、視線を戻そうとしたとき、こちらに向かって一直線に飛んでくるハイタカの姿が見えた。
ルビーのような赤い瞳をしていることから誰の使いかはすぐに分かったが、念のために足輪を確認すると、やはりクラリウス家の紋章が刻まれていた。
そこに挟まれていた巻紙を開くと、何も書かれていない羊皮紙にたちまち文字があらわれた。あいかわらずの堅苦しい兄の文字で一言、「王都に戻れ」とのみ書かれている。
手紙は読み終わった瞬間に灰になり、風にさらわれていった。
樹海の空に消えていくのをいつまでもながめながら、キアランは息を吐くと重い腰をあげた。王都へ戻るのは父の葬儀以来だった。




