第五話 ヴァイオレットムーン3
リロウが連れて行ってくれたのは、館の裏手にあるこぢんまりとしたブナの森だった。
「素敵な場所って、ここのこと?」
館の裏手に森があることは知っていた。しかし、緑の風景に溶けこんでいたためか、森の中で鬱蒼と木々が生い茂り、薄暗い小道が続いていることに驚きと違和感を覚えていた。突然、違う場所へと舞いこんでしまったかのようだった。
リロウは笑顔を見せるばかりで、レリアの質問をはぐらかし、どんどんと先へ進んでいった。
――この森、こんなにも広かったの?
レリアが不安を覚えても、リロウの足取りはためらうことなく進んでいく。よそ見をしていると置いて行かれそうだった。
幹が奇妙にゆがんだ木々が作るトンネルに入ると、ますます空は遠くなる一方だった。地面の土も湿っている。いったい、いつから?
「ねえ、リロウ」
耐えきれずリロウの袖をひっぱると、ようやく彼は振り返り、
「ここだよ」
と言った。
リロウの背後から奥をのぞきこむと、一面に紫色の花が咲き乱れていた。その中に隠れるように小さな湖があった。
レリアは花に誘われた蝶のようにふらふらと近づいた。
紫の花はヴァイオレットムーンと呼ばれる野花で、三日月形の白いつぼみから紫色の円形の花を咲かせる。水辺でよく見られる花だが、これほど群生しているのは珍しい。湖は大きな水たまりと言ったほうがいいほどの大きさしかなかったが、水は透き通った空色をしていた。
「どう? 珍しい場所だろう?」
リロウは背後にいた。
ヴァイオレットムーンはとれたてのミルクにラム酒を混ぜたような甘く酔うような香りがする。これほど群生しているとその香りも一段と濃厚で、息をするたびに意識がふわりと飛んでしまいそうだった。
「レリ、ヴァイオレットムーンの別名を知ってる?」
リロウの声は遠くから聞こえてくるようだった。
「妖精の住む花、でしょ?」
レリアは振り返ってはっとした。
リロウの背後では太陽がかたむき、黄金のリンゴのように輝いていた。
「リロウ」
レリアは青ざめて立ち上がった。足元がおぼつかなくてふらついてしまう。
「もしかして、今日って、金の黄昏日じゃないの?」
リロウは答えない。
「他にも妖精を呼ぶ花と呼ばれることもあるんだ。それと、これは知ってる?」
リロウはレイラの言葉を無視して近づいてくると、水辺にしゃがみ、そっと指の先を水に入れた。
「澄んだ湖では精霊の国との繋がりが強くなるそうだよ」
「だから?」
しだいに空が黄金色に染まっていく。
「どうして古魔法が失敗してあんな場所に飛ばされたのか、あの場所はどこなのか、そして、どうして帰ってこれたのか、ずっと考えていたんだ。いや、はじめから、こうじゃないかって思ってたことがあって。僕はそれを確かめたいんだ」
リロウは立ち上がるとレリアの前に立った。
「まだそんなこと……」
「あれは失敗なんかじゃなかった。むしろ、成功だったんだ」
リロウはレリアの胸元に手を伸ばすと、手のひらを開いた。そこにはビスケットがあり、ポケットからシーが飛び出してきた。
止めようとしたが遅かった。リロウはシーがビスケットにかじりつく前にそれをヴァイオレットムーンの花畑に投げた。シーがそれを追って花の中に消える。
「やっぱり、シーはあっちの世界の精霊なんだ。だから、シーを媒体にしたせいで、僕たちはあっちの世界に飛ばされた。そして、シーが僕たちをこっちの世界に戻してくれたんだ」
「あっちとか、こっちとか、そんなことどうだっていいでしょ?」
「どうして? レリアは気にならないの? シーが一体何者なのか」
「関係ない!」
強く言い切ったレリアにリロウは驚かされたようだった。
「どうして?」
眉間にしわを寄せて、柄にもなくまごついていた。
「それならどうしてたくさんの遺品の中からシーを選んだんだ? 君はその価値を分かっていたんだろう? 君は妖精に敏感だから」
「そんなんじゃない!」
レリアは必死で頭をふった。
「シーがたまたま私に懐いただけ。伯父様や伯母様たちが妖精に興味がなかったから、体よく押しつけられただけ。私みたいな小娘におじい様の貴重な遺品を渡したくなかったから」
「嘘だ。おじい様はドラゴンの遺跡で卵を持ち帰ったという噂があったのに、シーがドラゴンの都に関係する精霊だと気がつかなかったはずがないじゃないか」
「そんなこと信じてるのはあなただけだからよ、リロウ!」
リロウははっと後ずさった。
そのアイボリーの髪に黄金の影が落ちる。
「君も見ただろう?」
「ドラゴンを見た人なんて一人もいない。きっと、私たちは妖精にいたずらされただけ。古魔法なんて使おうとするから」
「違う!」
そう言って、リロウは懐からあの書庫の本を取り出した。その黒い表紙に黄昏の影が落ちると、それは磨かれた金のように輝きだした。
レリアは思わず息をのみ、逃げるように振り返った。そして、またはっとした。
透き通った水面が満月のように輝いている。周囲のヴァイオレットムーンは夜空に浮かぶ夢の入り口のように幻想的な光を放っていた。
そして、その中に、金色の光があった。
それは、シーだった。
レリアは乾いたのどでシーの名前を呼んだ。甘い花のにおいにむせるようだった。
シーは顔をあげる。やはり、その青い瞳は海のように澄んでいた。
「ドラゴンはいるんだ。ドラゴンの都は存在したと書いてあるんだ」
「それがおとぎ話ではないとどうして言えるの?」
レリアは訴えるように言った。
「だからそれを今から確かめるんだよ」
リロウの優しいオリーブ色の瞳が、これほど遠くに感じたことははじめてだった。




