第二話 はじまりの道
1ゴールド=100円くらいです。
屋敷の裏門を出ると、朝の光は思ったよりも眩しかった。
まだ眠りの残る空気の中で、鳥の声だけがやけに澄んで聞こえる。
アルルは門の前で一度だけ立ち止まり、胸の奥に残っていた重たいものを、そっと吐き出すように息をついた。
新人メイドに運良く出会えたので、老メイドへの言伝をお願いした。
元々忘れ去られているアルルだが、突然失踪するような事はしない。仮にも伯爵夫人が失踪となると、一応調べると思うので、騒ぎは起こしたく無い。
ちゃんと手紙で今後の意思は伝えた。
そう思うと、足取りはさらに軽くなった。
舗装の甘い小道を抜け、畑と小川の間を縫うように続く街道に出る。
水の国ミグラスらしい、湿り気を帯びた風が、短くなった髪をくすぐった。
「……軽い」
無意識にそう呟き、アルルは小さく笑った。
身体だけでなく、心まで少し削ぎ落とされたような感覚があった。
荷袋の中では、水飴の瓶がかすかに触れ合っている。
初めて他人に売る為に作った水飴。
大麦と穀物を煮詰め、山で採れた薬草を混ぜて作った少しだけ薬効のある水飴だ。
私のこれからの生活の糧になるように、ここ数年で色々試しながら形にしたもの。
作成に手間がかかるので、需要はあるけどあまり作り手がいない所にアルルは目をつけた。
たくさんは作れないけど、生きていく分はなんとかなるはず。
どうか売れますように、と心の中で祈る。
水飴の瓶がカチカチと触れ合う音が、なんだか賑やかしのように聞こえ、ちょっとだけ励まされた。
◇ ◇ ◇
しばらく歩くと、前方に人影が見えてきた。
朝の市へ向かう農夫と、その荷車だ。
すれ違いざま、視線が一瞬だけ交わる。
剣を帯びた女はこの辺りでは珍しいらしく、相手は少しだけ目を見張ったが、何も言わずに通り過ぎていった。
アルルは、それが妙に心地よかった。
ただの旅人として、すれ違っただけなのだ。
街道を歩きながら、これからのことを考える。
考えなしで14年住んだ場所を出てきたわけではないのだ。
まずは近くにある港町リュシアを目指す。そこで鍋を買い、大麦や雑穀を仕入れるのだ。薬草は旅の途中で採取すればなんとかなるだろう。
頭の中では、やるべきことが次々と浮かぶ。
不安が無いないわけではない。
でも、それよりも、楽しみの方が圧倒的に勝っていた。
「……まあ、きっと何とかなるわ」
独り言は、風に溶けて消える。
昼前、街道沿いの小さな井戸に辿り着いた。
水を汲むための簡素な屋根と、古い石組み。
旅人が一息つく場所だ。
アルルは荷袋を下ろし、水飴の瓶の一本を取り出した。
日にかざし揺らすと、琥珀色の水飴のがキラキラと光る。
不純物は無いようで一安心だ。
今後はこれをどう売っていくかを考えよう。
アルルは伯爵家から旅立とうと考える前から、お金を稼ぐ方法を考えていたのだ。
いつからか手渡される生活費がぐんと目減りした。このままでは生きていくのも大変になりそうだと危機を感じていた。
ペインズ伯爵領は麦の穀倉地帯でとても豊富だったのと、薬草は屋敷の裏手にある山で採取出来、殆どお金がかからないので、本で得た知識から水飴を作り始めた。
それが旅立つ力の一つになるとは思ってはいなかったけれど。
持ち出していた硬めのパンをちぎり、木の匙で水飴を掬いパンに少し乗せる。
乾燥したパンと水飴を同時に咀嚼する。口の中でパサついたパンと水飴の甘みが広がる。穀物同士の甘さは喧嘩せず、むしろパンそのものの美味しさを引き出していた。
パンを飲み込むと、水筒の水を飲む。
口の中に残っていた薬草のほのかな香りと共にスッと中に入っていき、後味も良かった。
「売り物としては……悪くないかな」
アルルは水飴の瓶を手に取った。
そこへ、近くで休んでいた旅商人らしき中年の男が声をかけてきた。
男の背後には荷馬車が停めてある。
「それ水飴かい?」
人の良さそうな中年の男が、好奇心を顔に浮かべて話しかけてきた。
アルルは頷き、自然と微笑んだ。
「薬草入りの水飴です。ちょっとした薬にもなりますし、甘味料にもなりますよ」
中年の男はまじまじと瓶を覗き込み、やがて「少しだけ試せるか」と言った。
アルルは頷き、小さな木匙で少量をすくい、差し出した。
「保存も効きますから、旅に持ち歩いて保存食代わりにしても良いですよ」
男の観察していたアルルは、興味を持ち始めた様子を見て、少し水飴について押してみる。
男は水飴ののった木匙を口に含み、水飴を舐めとるとしばらく考えるように黙り込み、それからゆっくりと目を細めた。
「……確かに甘いな。薬草入りの割に苦味もないし食べやすい」
その言葉だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「これは売り物か?一瓶売ってくれ。妻へ土産に持って帰りたい」
アルルは瓶にひび割れなど無いかと確認し、ふと手が止まった。
水飴を売りながら旅をしようと思っていたが、値段を決めていなかったのだ。
どうしようかとぐるぐる考えていると、中年の男が声をかけてきた。
「もしかして売り物じゃないのか?」
「いえ、売るつもりで作ったのですが、その、値段を決めていなくて…」
男は呆気に取られたように目を見開いたが、やがて大きく笑い始めた。
「姉ちゃん面白いな!どこかの箱入りかい?」
「いえ、そういうわけでは……今日から水飴の行商を始めたばかりで」
男は少しの間顔を押さえてくつくつと笑っていたが、笑い終わると商売人の顔で口を開いた。
「うーん、普通の水飴なら一瓶5ゴールドだが、こいつは薬草入りのだから…んー」
「えーと、疲労回復のキクイとイドリを入れて作りました」
「なるほど…なら倍の10ゴールドでどうだい?」
「いいんですか?」
「こっちが礼を言いたいくらいだ。ここまで丁寧な仕事をする水飴売りに出会う事が珍しいからなぁ…それに薬効のある水飴はあまり出回る事がないからありがたい」
男は懐から袋を出すと、まごつくアルルの手を取り、お金を渡す。
手のひらに乗る小さな重み。
思わぬ所で売れた自分の水飴の代金は、所持していたどの宝石よりも価値があるように思えた。
「あ、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる。
「また縁があったらその時はよろしくな」
男が去った後、アルルはしばらくその場に立ち尽くしていた。
初めて売れた私の水飴。
たった一本。
けれどそれは、ただのアルルが得た、最初の対価だった。
「……嬉しい」
そう呟いて、再び荷袋を背負う。
街道の先には、まだ見ぬ町があり、人々の営みや自然や見たことのない魔物、初めて行く国……
これからの事を考えながら、アルルはゆっくりと噛み締めるように歩き出した。足取りは更に軽く。
駆け出し水飴売りのアルル。
ゆっくりじっくりと、水飴のような旅まだ始まったばかりだ。




