第一話 静かな出発
貴族の離婚は難しい。
家と家、力関係から結ばれる事がほとんどであるが故に、嫌いになったからといってすぐ離婚という訳にはいかない。
故に仮面夫婦や別居婚等お互いが可能な限り関わらずに婚姻関係を続ける者たちは多い。
しかしそれすら難しい場合、条件はとても厳しいが、今までの足跡を消し、新たな人生を歩む事が出来る方法がある。
これは、いないものとして冷遇された伯爵夫人が、新たな人生を生き直すために旅に出たお話。
◇ ◇ ◇
『もう、いいんじゃないかな』
そう思いついてあっという間に2年が経った。
◇ ◇ ◇
夜明け前の空気は、まだ夜露の匂いを残していた。
簡素な作りのコテージの小さな台所で、メイド服を着た女が鍋を火にかけていた。
女はアルル・ペインズ伯爵夫人。
空色の髪と目を保つ凛とした雰囲気を持つ、落ち着いた女性である。
ペインズ伯爵家には病弱であり、一度も表舞台に立ったことはなく、子を2人産んだ後も表に出ない伯爵夫人がおり、その伯爵夫人に代わり、いつの頃か伯爵家遠縁の女性が夫人の代わりをこなすようになったと社交界ではそう認識されている。
そのうち伯爵夫人の存在に触れられる事すら無くなったが、確かに生きている、それがアルルだ。
そんな忘れ去られた伯爵夫人アルルは、いつの時からかこの簡素なコテージに1人住むようになっていた。
メイド服を着て、身の回りの世話を自分でやっている不思議な存在。
今のアルルの状況を正確に言える人間は果たして何人いるだろうか。
釜に焚べている薪は弱く、とろとろとした弱い炎が静かに揺れている。鍋の中に入っているのは琥珀色の液体、水飴だった。
水飴はよくかき混ぜ、じっくりと煮詰めて煮詰めてやっと完成する。まるでアルルの今までの人生のようだった。
ぐつり、と小さな音がして、鍋の縁に甘い匂いが立つ。 アルルは何やら確かめるようにぐるぐる混ぜ、釜戸から鍋を外した。
少し冷ました後に瓶を並べ、出来上がった水飴を流し込んでいく。
とろりとした滑らかな液体が瓶に飲み込まれて行った。
「……こんなものかな」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
狭いコテージの壁際には、使い込まれた剣が立てかけてある。
飾り気のないバスタードソード。貴族の持つ宝飾された剣とは程遠い、ただの実用品。
アルルは剣を手に取るとスラリと抜き、油を染み込ませた布で刃を丁寧に拭う。
柄の緩みを確かめ、剣を鞘に戻す。
剣を元あった場所に置くと、アルルは自分の髪に手を伸ばした。
腰まである空色の髪は、作業の邪魔にならないよう、いつもひとまとめにされている。
良い香油や石鹸など使ってはいないが、よく手入れされ、空色の髪は艶やかに光っている。
アルルは右手に鋏を、左手に髪の結び目を持ち、果実を収穫するかのような軽い手つきで持ち手を動かした。
しゃりりっ、と音を立てて切り落とされた髪の束が、ぼとっ、と少し重い音を立てて床に落ちた。
「……軽くなった」
アルルは鏡を見る。
鏡に映る自分は、思った以上に不揃いなガタガタの毛先で、思わず笑ってしまった。
首元が寒い。
でも、とても軽くなり、呼吸が楽になったような気がする。
アルルは足取り軽く机に向かい、引き出しから一通の封書を取り出す。
宛名は一応夫であるレイフ・ペインズ伯爵。
中身は、離縁の意思と、申請に向かうため旅立つということだけを簡潔に記したものだ。
本当は、いつも生活費を渡してくれる老メイドに託すつもりだった。
だが彼女は風邪でどうやら今日は休むらしいと聞いた。
予定は変更できないから、仕方ないので他の誰かにお願いしよう。
アルルは考えを巡らせるも、まともに会話する人は老メイドと……何も知らない新人メイドくらい。
ドアを開けて最初に出会った使用人にお願いするのも面白い。
感謝の気持ちで用意した少しばかりのお金を入れた小袋を確認し、作成していた水飴4本と手紙を入れた。
ふと気がつくと、外では屋敷が目を覚まし始めている。
使用人の足音、遠くで鳴る扉の音が聞こえてくる。 いつもの光景。
当たり前だった景色が、明日からは一変するのだ。
メイド服から軽装に着替え、小さな荷袋に先ほど作成した水飴の瓶を4本、最低限の衣類、そしてベルトに剣を差す。
水飴の鍋は、そのまま置いていく。
新しい鍋を買って、知らない道を歩いて、目指す場所へ辿り着く。
考えるだけで心が弾む。
戸を開けると、朝の空気が流れ込んだ。
湿り気を含んだ風が、頬を撫でる。
アルルは一度だけ、振り返った。 コテージは静かで、何の音もしない。
「お世話になりました」
長年の巣であった場所にそう告げて、扉を閉める。
私は今日、ここを出ていく。
新たな人生の始まりを求めて。
アルルの足取りは軽いまま、しっかりと前へ向かって歩いて行った。
この日、アルル・ペインズから、ただのアルルになる為への旅が始まった。




