48、森の中の小屋
月明かりさえ届かぬ森の奥、ヴィオレッタは一枚の紙を頼りに歩き続けた。
背後には公爵家が付けた影たちが、ヴィオレッタが逃げ出さぬよう付き従っている。
―――何人いるかまでは分からないけれど、確実にいるわね……。この紙に書かれた場所についたら消すつもりね。
後ろを振り返ることなく足を進めると、どのくらい歩いたか分からない場所に小さな廃屋があった。
かつては森で作業する者たちや、魔物駆除をする者たちのための休憩所だったのか、壁や屋根には隙間があり、冷たい空気が吹き込んでいる。
「……よくこんな場所を知っていたわね」
ヴィオレッタは震える指先で扉を押し開けた。
きっと中には公爵家の者が隠れており、消されるのだろうと覚悟を決めていたが、やはり恐怖心というものはある。
ギィと開かれた扉から中を見ると、月明かりと魔石灯の光に照らされて舞い上がる埃だけが見えた。一歩中へ入るが、人の気配もなく静寂だけがその場にあった。
室内には誰もいなかった。
―――誰もいない……?
部屋の中を見渡すが、部屋の隅にまとめられた藁の山の上に、薄汚れた布が乱雑に敷かれていた。
ヴィオレッタは戸惑いながらも、扉を閉める。先ほどまであった影の気配を感じなくなっていた。
「抵抗する気はないのに……なぜ、誰も来ないの?」
いつ影が現れてもいいように、扉とひび割れた窓が見える場所へと腰を下ろした。緊張と興奮が混じっているため、寒さは感じない。
ヴィオレッタは大人しく死にたいわけではなかったが、今は助かる未来が見えないのだ。
「いつでも来なさい。私は逃げも隠れもしない。実の娘を殺そうとするあなたたちにはいつか罰が下されるわ」
しかし、一夜が明けても、二夜が過ぎても、影が現れることはなかった。
そして三日目の朝には、入り口の扉のそばに、見慣れぬ包みが置かれていた。
恐る恐る包みを開くと、中には柔らかなパンと、乾燥した果物、清潔な水が詰められていた。
―――お父様とお母様が、私を生かしておくはずがないわ。どういうこと……? 毒でも食べて、自分で死ねってこと……?
周囲を見渡すが、誰もいない。
ヴィオレッタは疑念を抱きながらも、包みを持って小屋に戻る。捨ててしまおうかと思ったが、食べ物を見た瞬間にヴィオレッタの薄い腹が音を立てた。
「あっ」
顔を赤くしながら、腹へと手をやる。
自分が空腹だったことに、ヴィオレッタはやっと気付いた。良い匂いには抗えず、死んでもいいという覚悟でその食事を口にした。
手に痺れも、意識障害も、毒の味もしない。
一口ちぎって口に入れたパンは、温かく優しい味であった。
口に入れた瞬間、自然と涙がこぼれた。
「ああ、私は何も分かっていなかったんだわ……。感謝していたつもりになっていただけ……今更気付いても遅いことばかりを気付いてしまうのね」
感謝しながら、パンと干した果物を食べる。次があるかも分からないため、少量を一日に二度と決めた。いつ消されるかも分からない状況ではあったが、ヴィオレッタは暇つぶしに小屋の中の掃除をした。
―――こんな不衛生な状態は良くないわ。
小屋の周りに茂っている草を束にして、床を掃く。
初めての掃除も卒なくこなす、わけでもなく、斑に掃かれた跡が見え、窓も汚れが伸びて逆に目立った。それを見て、ヴィオレッタは使用人たちの苦労を知ることになった。
「ふふふ……おかしいわ、不衛生は良くないって……。私は死ぬはずだったのよね……。でも、まだ生きていられる……、違う、生きたいのね」
七日経っても、公爵家からの影は訪れることはなかった。
それどころか、人の気配も何も感じない静かな森である。周囲を散策し、インクとして使えそうな草や木を見つけ持ち帰る。
すると、また食料が届けられた。
「誰なのかしら……アイバン殿下? なんてね、夢を見すぎね……」
恐らくアイバンでも、心配しているであろう侍女でもないことは分かっている。
だが、少しでも人の情を感じたかったのだ。
殺されるはずだった場所が、奇妙な場所へと変わっていく。
だが、ヴィオレッタがここを抜け出し、王都へ戻ることはしなかった。小屋の割れた窓から、見えるはずのない王宮を思い出しながら眺める。
―――私が生きていると知れば、両親は間違いなくサーラやベラを口封じとして消すでしょう。それにアイバン殿下と連絡を取れば、私を救おうとしてくれるはず……。でも、それは今、私が望んでいることではない。
ナイトシード公爵家の権力は、今や王家を凌ぐほどである。
「今、アイバン殿下と公爵家が衝突してしまうのは……望ましくないわ」
国と民の安寧のため、今は我慢をするべき時である。
自分と愛するアイバンのことを優先することなどできない。それに、まだ証拠が足りないのだ。
ヴィオレッタは鏡もない部屋で、顔の痣に触れた。
美しい顔に醜い痣。
これは呪いではなく、両親の悪事の証拠でもあるのだ。ヴィオレッタ自身が証拠であり、この小屋は神からの褒美のようにさえ思えた。
「ヴィオレッタ・ナイトシードは、あの日……森の中で息絶えた。お父様たちが望んだ通りに……」
商人がくれた魔石灯を点した。
淡く細い光が埃の舞う室内を照らす。
「誰かの施しで私は生かされている。この恩を返すためにも、私は必ず生き延びるわ」
公爵令嬢としての誇りは、すでにない。
公爵家から追われたあの日、王太子の婚約者である公爵令嬢ヴィオレッタは死んだ。




