47、商人はその者を令嬢とは知らず
アイバンが公爵家を訪れる、およそひと月前のこと。
深夜の静寂に包まれたナイトシード公爵邸で、二人の侍女が呼び出されていた。
「ヴィオレッタを領地へ送り、療養させることとした。本日をもってお前たちはヴィオレッタではなく、カルミア付きとする」
公爵の書斎にはビンセンティア公爵夫人もおり、二人はサーラとベラに対して、無感情で告げた。
あまりに突然の言葉に、二人は顔を見合わせて震える声で反論した。
「旦那様、それは……! ヴィオレッタお嬢様はまだ、療養が必要でございます! 私たちが傍にいなければ……」
「あら、あなたたちが回復に向かっている、もう体も動かせると言っていたわよね?」
夫人が睨みつけるようにサーラとベラを見据えた。
その言葉と視線に、二人はビクリと体を揺らす。
「今のことは聞かなかったことにしてやる。この家の主が誰であるか、忘れたわけではあるまいな?」
「……はい」
「では、カルミアのためによく働きなさい。そうすれば……ヴィオレッタのこと、今私たちに歯向かおうとしたことは許してあげるわ」
公爵と夫人の鋭い眼光が二人を射抜く。
かつて慈しんだはずのヴィオレッタへの情など少しも残っていない。
「承知……いたしました」
二人は溢れそうになる涙を堪え、拳を握りしめて項垂れるしかなかった。
雇い主である公爵に逆らえば、ヴィオレッタを守るどころか、自分たちの命すら危ういことを二人は痛いほど理解していた。
公爵家を辞めてヴィオレッタを追いかけたとしても、出会う前に二人は消されるだろう。
その頃、別館にあるヴィオレッタの部屋を、一人の年老いた女性が訪れていた。
公爵夫人の実家から付いてきていた、夫人への忠誠心のみで動く侍女長である。
「ヴィオレッタお嬢様、お久しゅうございます」
「ええ、久しぶりね。元気にしていましたか?」
「私はこの通り、元気でございますよ。お嬢様、この後すぐに領地に戻るようにと旦那様からのお達しでございます」
「今日、すぐ……。そう、分かったわ。サーラとベラは、どうしたの?」
静かに本を閉じてヴィオレッタが尋ねる。
侍女長は表情一つ変えず、淡々と用意してきた質素なワンピースを机に置いた。
「サーラとベラは、お嬢様が領地へ移られるための準備に追われております。今宵の身支度は、この私めがお手伝いさせていただきます」
「……そう。そうなのね」
ヴィオレッタは、その言葉の裏にある真実を悟った。
―――サーラとベラとも、もう会えないのね。裏切り者と判断した者を、お父様とお母様が領地へ送るだけで済ますはずがないわ。
この別館に移されても、最低限の公爵令嬢としての生活は送れていた。
もしかすると、それは両親からの最後の愛情かもしれないと考えていたが、実際は違った。
単純に興味がなく、毎月の衣装代として割り振られていたものから出ていただけだった。元々ヴィオレッタは無駄な浪費を好まなかったことで、誰も気にしていなかったのだ。
質の良い、柔らかな生地で作られた部屋着のドレスが脱がされていく。
代わりに身に纏わされたのは、平民の娘が普段着としているような飾り気のないワンピースだった。
―――私を本当に消すつもりね……。お父様もお母様も、私をもう娘とは思っていない。家の裏切り者として、その存在ごとなかったことにしたいのですね……。
ベールを外されている顔が、鏡に映る。
鏡に映るヴィオレッタの顔は、美しさは痣のせいで損なわれている。ヴィオレッタを知っている者も、知らない者も、この顔を見たら、ただの哀れな娘としか見ないだろう。
―――アイバン殿下……。お兄様……。最後にご挨拶さえできないことだけが、悔しいわ。けれど、私がこうして消えることが、きっとこの家にとって『罰』となるはずよ。
ヴィオレッタは込み上げる感情を飲み込み、向かう先を知りながら送り出す準備をする侍女長に対して穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。とても楽で、動きやすそうな服だわ」
一瞬だけ侍女長の指が止まったが、すぐにまた動きだす。
邸の裏口には、公爵家の紋が入っていない、商人の馬車が一台停まっている。
夜の闇が深くなるころまで、通常であれば商人が待っていることはない。
商人はいつも出入りしている者ではなかった。
ヴィオレッタは家に出入りする商人を覚えていたが、今回見たものは初めてだった。
―――公爵家の馬車を使わず、商人を利用する。恐らくこの初めて見る商人はこのために、何らかの品を卸して、私を誰とも知らずに運ばされるのね。もし、何か不都合があっても、この者が領地に戻る公爵令嬢を拐かしたと断罪される。
親切そうな好々爺に手を貸され、ヴィオレッタは礼を言いながら一人で乗り込む。
「お嬢さん、大丈夫かい?」
「ええ、ありがとうございます。ご迷惑をおかけしますね」
「とんでもない! わしのようなところから商品を買ってもらえたことが嬉しいよ」
軽い会話で、商人は何も聞かされていないことが分かる。
御者席から商人が、荷台に座っているヴィオレッタに声をかける。
「じゃあ、出発しますよ」
「……ええ、お願いします」
馬車が音を立てて走り出す。
見送りの者は当然なく、見慣れた公爵邸の景色が遠ざかっていくのを、ヴィオレッタはじっと見つめていた。
―――ここに戻ってくることももうないのね。サーラ、ベラ……今までありがとう。アイバン殿下……もう一度お会いしたかったわ。
クッションも何もない荷台から、街の灯りが完全に見えなくなり、薄暗い街道をゆっくりと進んでいく。王都を離れると次第に道が悪くなり、荒れている。
―――この道はこんなにも荒れていたのね。もっと早く気づけていれば、殿下と改善案のお話ができたのに……。家を追い出されてから初めて気付かされるなんて、皮肉なものね。
街道から外れると寂しい場所で馬車が停まる。
「お嬢さん、本当にこんなところでいいのかい?」
商人が戸惑いながら声をかける。
道の奥には、ぽつぽつと民家が見えているが、その場所までは少し歩く。
商人が聞かされていたのは『侍女の一人が親の急病で帰省するため、通り道なら近くまで送ってやってほしい』という侍女長からの嘘の言葉だった。
「ここはあの村からも離れているし、魔物はおらずとも道は暗く、女性一人でこんな夜中に一人で行くなんて物騒だよ」
「いいえ、大丈夫ですよ。迎えが来る手はずになっていますから」
ヴィオレッタは嘘を吐き、商人に礼を言って荷台から降りた。
「そうかい……? じゃあ、これを……少量で悪いが魔石灯だ。ないよりはマシだろうから、使っておくれ」
血縁には見捨てられたにもかかわらず、たった数時間前に会った商人は親身になってくれている。その優しさが冷え切っていたヴィオレッタの胸を打つ。
「まあ……ありがとうございます。よければこれをもらってください。ここまで送っていただいたお礼です」
ヴィオレッタはベールを止めているピンをとると、商人の手に握らせる。
宝石や公爵家の紋章も入っていない、銀色に輝くミスリルのピン。商人を果物を扱う卸商であったため、宝石などには疎かった。どれほど高価なものなのかも分からず、礼の気持ちとして受け取ることにした。
「ああ、ありがとう。達者でな。迎えが来るまで、歩くんじゃないよ」
「ええ、分かりました」
ヴィオレッタは心配そうに振り返る商人に、手を振った。
馬車が去っていく音が徐々に遠くなり消えると、辺りには不気味なほどの静寂が訪れた。
―――後ろに公爵家から付いてきている者がいる。指示通りにしなければ、あの商人もきっと……。
ヴィオレッタは一つの紙を鞄の中から取り出した。
そこにはどこに向かうのかの指示が書かれており、自分の終わりがすぐそこまで来ていることを感じながら、夜空に浮かぶ月を仰ぎ見ると歩き出した。




