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その日の夜、アイバンは王宮の一室で、唯一心を許す側近であるケイレブと向き合っていた。ケイレブはアイバンが公爵家の監視から逃れ、政治的な真意を語れる数少ない人間だった。
「今年もあの『薬湯』が届けられたぞ、ケイレブ」
アイバンは重々しく切り出した。その顔に疲労の色が濃い。
「今年も公爵閣下、自らお持ちいただけるとは……有難いことですねぇ」
「有難迷惑の間違いだろう? しかし、毎月欠かさずよく来るもんだ。娘のカルミアは病気療養と称して、この一年、南部の観光地にいることを承知で持ってくるんだからな」
「相変わらず、図太い神経をしてますよ。はは、見習いたいくらいです」
「一年もあちらさんが望んでいる子作りはしていない。それなのに一体何を俺に飲ませているんだろうな?」
アイバンは冷めた目で窓の外を見た。
「ここのところ、公爵は世継ぎに異常なほど執着しているな。病の治療を口実にカルミアの不在中も、毎月子作りのための『薬湯』を自らの手で届けにくる……この上ない皮肉だな」
アイバンの脳裏に、薬湯を受け取った際の公爵の薄汚い笑顔が焼き付いていた。
『陛下。王妃様が南部よりお戻りになられた暁には、この薬湯の効能が遺憾なく発揮されますよう。王妃……いえ、我が娘に、最高の喜びを与えてやってくださいませ」
『ああ、もちろんだ。公爵家の薬師が作った薬湯を公爵自らが持ってきてくれるんだ。期待を裏切るわけにはいかないからな』
その品のない言葉は王であるアイバンを、公爵家の血筋の娘を孕ませるためだけの道具として見ていることを示していた。
「薬湯の成分は害のないものと分かっておりますが、ここまでしつこいと怪しいものですね」
「薬師の知恵と力、か。無論、毒の耐性がある俺に毒物は効かない。あれは毒ではない。精力のつく薬物なのだろうが……そもそもする相手がいないのだ、あとどのくらい王妃の帰りを待てばいいのだ?」
「陛下……」
「カルミアとの間に子ができたら、公爵は安堵するだろうな。そして数年後、俺は殺されるかもしれないな。だが、俺は公爵に言われる通り、子作りには励むとしよう。公爵家の監視の目を逃れるために、な。結婚に愛など一欠片も必要ない。あるのは、義務だけだ」
アイバンの言葉は、氷のように冷たかった。
「陛下がそこまでご自身を貶めていらっしゃるのに、それでも公爵家はあの治療薬の開発という一点の功績を、無限の盾として利用し続けている……」
ケイレブは拳を握りしめた。彼はアイバンが王としてどれほど傑出しているかを知っているだけに、この状況が許せなかった。
「あの男の目的は王国の枢要を完全に掌握することだ。そして最終的には王位継承権を持つ血筋を、自らの息のかかった女から誕生させること。それが成し遂げられれば、俺は殺され、今までの努力も水の泡、だろうな」
アイバンは静かに続けた。いつだってアイバンはナイトシード公爵家と戦っていた。
徐々に権力を取り戻しつつあるが、精神をすり減らす戦いはずっと続ている。
ケイレブは深く息を吐いた。
「陛下。では、やはり方法は一つしかありません。そこまで分かっているのなら、もっと早く愛人を持つなどすればいい。世継ぎの問題は、公爵家との軋轢よりも優先されるべき課題ですよ」
アイバンは静かに首を横に振った。
「簡単なことではない、ケイレブ。ナイトシード公爵家に対抗できるほどの、娘がいないからな。公爵家は恐らく愛人にしようと娘を差し出す家を、徹底的に排除しようとするだろう?」
「それはそうでしょうが……」
「それに考えてみろ。若ければいいというわけではない。俺としては子を産んだことのある未亡人などが理想ではあるが、なかなかになあ。妙齢の娘がいたとしても、問題はその娘の出自と後ろ盾だ」
公爵家との均衡を崩さずに世継ぎを作るには、王妃と同等かそれ以上の権威を持つ娘が必要だった。しかし、そんな血筋の娘は、公爵家の圧力によって全て潰されるか、既に公爵家に抱き込まれているだろう。
アイバンはため息と共に、一枚の羊皮紙を机の引き出しから取り出した。
それは王国に存在している貴族の子息令嬢の名と、年齢が一部の載っているものだった。トントンと指で紙を叩き、ケイレブに見せる。
「これを見てみろ。この国に俺の愛人になりそうな娘はいるか?」
「……年齢の合いそうな未亡人は既に別の家に……あとは、婚約者のいる令嬢ばかりですね」
「だろう? 公爵家も見事なものだな。相手を探すところからだが、それすらも断たれている」
アイバンは立ち上がり、ケイレブの肩に手を置いた。
「今はその時ではないということだ」




