29、コニーと馬車【後】
馬車が広場を離れ、石畳の上をゆっくりと音を響かせ走っていく。
進みだしてすぐにもかかわらず、コニーの頭の中からはビルのことは消え去り、それよりもこれから会うであろうヴィオレッタのことばかりを考えてしまっていた。
コニーが物思いに耽っている中、両親は嬉々として話していた。
「コニーの七歳の祝いの時に乗った馬車よりも、良いものなんじゃないか?」
酒の臭いをさせ、赤くなった顔に充血した目で、コニーの父は馬車の内装を舐めるように眺めている。
「ええ、ええ。あの時の馬車も良かったけれど、これはもっと良い馬車ね。お尻が痛くならないわ」
コニーの母も落ち着きなく何度も座り直しては、高級と思われるシートの感触を確かめていた。かつてジギタス男爵家が、初めてナイトシード公爵家に呼ばれた日の記憶を引き合いに出しているようであった。
「そうだな! それに外装も凄かったな。くく、平民の奴ら、羨ましそうに見ていたぞ! しかし、見てみろ。内装もこんなにこだわって……お、これは宝石じゃないか?」
「平民なんてこんな馬車、一生に一度も乗れないでしょうねえ」
貴族の馬車のことなど、自分たちが所有しているわけでもないのに、知っているような口で父は話す。偽物の金の指輪をはめた指が、丁寧に織られているレースのカーテンを乱雑に触る。その仕草がコニーにはたまらなく卑しく見えた。
本物の貴族であれば、こんな風に浮き足立ったりはしないはずだ、と。
「……ヴィオレッタ様も、この馬車に乗っているのでしょうか」
ふと、コニーの口からそんな疑問が漏れた。
自分たちのような者に、似合うとは思えないほど豪華な馬車。ヴィオレッタであれば、どんな格好でも、この柔らかなシートに身を沈め、落ち着いて座っている姿が想像できた。
けれど、コニーの母はそれを鼻で笑った。
「まあ、コニー。これは客人用よ。ヴィオレッタお嬢様がこんな馬車に乗るもんですか。ヴィオレッタお嬢様には、お嬢様専用の馬車もあるんですからね。こんな馬車よりもっと、もっと……ずっと良いものに乗っているわよ」
「……そう、なんですか。凄いわ……」
母の言葉はコニーにとって、未知の言葉のように聞こえた。
公爵家に向かう馬車は、今まで乗ったどの乗り物よりも快適だった。ガタガタと酷い振動に耐えなければいけない辻馬車などとは、全く違うものであった。
しかし、母の言葉を聞いた瞬間、その快適だという気持ちすらも、コニーの中からどこかに消えた。
コニーは膝の上でドレスをぎゅと握りしめた。
指先が白くなるほど力を込めても、胸の中に広がるモヤモヤとしたものが消えることはなかった。悔しさで視界が少しだけ滲む。ヴィオレッタには敵わないと思い知らされることばかりだからだ。
―――これよりも良いものですって? ずるいわ……ビルみたいな平民も、ヴィオレッタ様も……皆、私より良いものを持っているのね……。私だけ、なんでこんなに惨めなのかしら? ずるいわ、許せないわ。きっと、あの時のドレスと同じ。私にこんな豪華な馬車を経験させて『あなたには一生、縁がないものだから楽しみなさい』ってこと? 酷いわ、ヴィオレッタ様……。
コニーの頭の中には、公爵家は男爵家を弄んでいるのではないかという疑念が浮かぶ。むしろ、公爵家ではなく、ヴィオレッタ個人がそんな非道な行いをしているのではないかと、頭の中を書き換えていた。
そう思えば、コニーの瞳は自然と潤みだしていく。
「ああ……なんて酷いの……」
そんな被害者意識に浸っている間にも、馬車は公爵家へと進んでいた。
馬車の前後には公爵家からの騎士が護衛として随行している。蹄が石畳を走る規則正しい音が響くと、近くから子供たちと一緒にいる親の声が聞こえる。
「おじょうさまかな?」
「ヴィオレッタお嬢様の馬車ではないみたいよ」
公爵家の紋章入りの馬車であっても、平民であっても馬車の違いが分かるようであった。窓の外では、通りすがりの平民たちが足を止め、驚きの表情でこの馬車を見送っている。
コニーの両親もすっかりその気になって、窓の外に知り合いを見つけては、嘲笑っていた。
「見ろ、あのパン屋の主人の顔を! 口をあんぐりと開けてやがる!」
「あら、本当ね。私たちは貴族なんですもの。平民なんかは一生かかってもこの馬車に触れることも、乗ることもできないものね」
「ふん、あんなまずいパンは割引がないと、買う気にもならんしな」
「そうそう、もっと美味しいパンを作ってほしいものねぇ」
コニーは双眸に涙を浮かべたまま、両親の顔を見やる。
―――公爵様がどんな用で呼んだのか、私たちは何も知らないのによくそんなことが言えるわね。自分たちだって、さっきまでその貧乏人の側にいたくせに。それに、今だってそうじゃない。たまたま公爵様から呼ばれただけ……きっとまた、公爵家に着いたらヴィオレッタ様に私は馬鹿にされるのよ。前回、ドレスで喜ばせておいて、すぐに悲しい思いをさせられたもの。
使者はただナイトシード公爵からの呼び出しを伝えただけで、その内容を告げることはなかった。両親もコニーも、説明を聞くこともせずに頷いたのだ。
コニーは自分の服の裾を、何度も、何度も触った。
持っている服の中で一番、身綺麗に見える服を着てきたつもりだった。それでも、この馬車の絨毯や、装飾品の方が圧倒的に高価で綺麗であった。
「……っ」
ぐしゃりとつい、強く生地を握ってしまい、シワになっていることに気づき、慌てて手で伸ばす。その仕草が、自分でも酷く滑稽に思えた。
ふと窓の外を見ると馬車の横についている騎士の服が目に入る。
―――公爵家の使用人の服の方が、私の服なんかよりもはるかに上等なものだなんて……。ああ、酷い。これもヴィオレッタ様のせいね、私がこんな悲しい気分になるように、良い仕立てのものを着せたに違いないわ。
平民のビルにも負け、公爵家の使用人にも、自分たちは負けているのだと、コニーは悲しい気持ちになる。
公爵家の使用人ともなれば、公爵家からの支給の制服なのだ。粗悪品なわけがない。考えれば分かることでも、今のコニーにはそのようなことを考える余裕もなかった。
コニーは男爵家の『お嬢様』のはずだったが、この中で誰よりも惨めで憐れな格好であった。惨めさに双眸にたまっていた涙が溢れそうになった。
「あっ」
鎖骨に少しの重みを覚え、服の下に隠れているネックレスに、無意識に手が伸びた。その重さを確かめると、コニーの涙は収まっていく。
―――私にはこれがあったわ、このネックレス。これは私の存在価値を証明してくれてる。本物の宝石のついたネックレスだから、お父さんやお母さんの偽物とは一緒じゃない……。私は令嬢だもの……男を顎でだって使えるぐらいの若さと愛らしさがあるの。
カフェでは誰よりも愛らしく、純粋で、男性客はみんな自分を目当てで来店している。その自信がコニーにはあった。
コニーは奥歯を噛み締めた。
ネックレスに触れれば、何の根拠もない自信が湧き上がってくる。たとえ高価な服を着ていなくても、心が荒んでいても、コニーという存在は男爵家の令嬢だけではなく、その愛らしさで価値があるのだ、と。
次第に馬車は立派な建物が並ぶ貴族街に入っていく。
王都の中心部、選ばれた貴族しかここに邸を構えることはできない。自分たちとは住む世界が違うことをその街並みから、分からせられているようであった。
「ああ、やっと着いたか。屋敷が見えてきたぞ」
「私たちが住んでいるところと結構近くね」
「そうだな。いずれ私たちもこんなところに住んでみるのもいいな」
父の興奮した大きな声に、コニーは俯いていた顔を上げて視線を外へと向けた。
幼い頃に見た時よりも、大きく聳え立つように見える真っ白な公爵家の門。あの時はまだ七歳で体も小さかったので大きく見えていたと思ったが、実際はそうではなかった。
―――体の大きさなんかじゃない。このお屋敷はあの時見た絵本の城と同じぐらい大きいのね……。
「ヴィオレッタ様……」
コニーは震える手で最後にもう一度ワンピースのシワを伸ばした。浮かれる両親とは違い、コニーは呼吸を整え、唇を噛み、表情を作る。
―――気に入られて見せるわ。どんな用事で呼ばれたのかは知らないけど、絶対にこんなとこからは抜け出してやる。利用できるものは何でも使ってやるわ。ヴィオレッタ様が私を辱めることに喜びを感じているのなら、喜んで辱められてあげる。どんな相手にだって媚びて、この環境から抜け出してやる……!
自分のプライドを捨ててでも、コニーは男爵家や平民たちが大きな顔をしている場所から抜け出したいと思っていた。ルンギル伯爵という男に嫁ぐことが決まってもなお、それよりも良い条件を選びたいのだ。
馬車が静かに止まる。
車輪が石畳を噛む音が消え、御者の動く音がわずかに聞こえた。
窓の外を見ると、昼間の外は明るく、冬にもかかわらず手入れをされて青々とした木々が目に入る。ゆっくりと扉が開かれると、初めて見た景色よりもさらに美しい邸のポーチが見えた。
コニーたちを出迎えるために整列した使用人たちの姿が目に映る。
―――あの時よりも、お姫様になったみたい。
コニーは深く息を吸い込み、御者の手を取ると一歩を踏み出した。




