18、アイバンとカトレア
カルミアとケイレブが執務室から退室し、扉が閉ざされた後もアイバンはしばらく筆記具を動かすことを止めなかった。
深く長い息を吐き出し、机に寄りかかった。
失望、疲労、そして後悔がアイバンの胸の中に黒い影を落としていく。どんな理由であれ、アイバンの結婚というのは次期国王として、国のためになる相手との結婚でなければいけなかった。
その結果が、今、こうして一つの派閥に国の財がいいように吸い取られているのである。
「まさか、こんなことになるとはな」
アイバンは独り言のように呟く。両親である前国王夫妻が結婚後、すぐにアイバンに王位を譲ったのも、考えればおかしなことだった。いくらアイバンが国の運営に意欲的であったとしても、自身よりも政治経験のあるナイトシード公爵派を上手く扱えるはずはないのだ。
「よろしいでしょうか、陛下」
物思いに耽っていると、穏やかな声が耳に届いた。アイバンは顔を上げて静かに「ああ」と呟き頷くと、扉とは反対にある奥の扉が静かに開く。その扉の先は休息室として使用されている部屋である。
そこから現れた二つの人影。
一人はローブ・ヴォラント風のドレスをまとい、ゆったりとしているが品のある立ち姿のカトレアだった。もう一人はいつも影のように背後に控え、常にカトレアのために動くジェンティアである。
「カトレア、やはり君と話した通りだったな」
アイバンの声は先ほどカルミアに向けていた冷めた声ではなく、情が滲んだ声色で語りかけられた。
「ええ、陛下のご懸念の通りでした。カルミア様は私情に訴えるだろう、と。よくお分かりになられましたね」
「カルミアの考えそうなことは、私だけではなく……誰にだって分かるだろうな」
「確かにそうですわね」
カトレアの声は穏やかであった。ゆっくりとジェンティアを連れてアイバンの近くまで歩み寄る影は、明かりの中で伸びるには不思議なほど、腹部がふっくらとしていた。
「しかし、大丈夫か。カルミアが帰って来たとなれば、公爵も今以上に王宮内を探り始めるぞ。その腹で動き回るのは危ないのではないか」
「ふふ、お気遣いいただきありがとうございます」
「カトレア、ジェンティア、ソファに座りなさい。立っていては辛いだろう」
「いえ、私は侍女ですから」
「ジェンティア、座って頂戴。先ほどまでずっと私を支えてくれていたんだもの。私も心配だわ」
「……かしこまりました。陛下、カトレア様、失礼いたします」
カトレアが座り、それを見てジェンティアもソファに腰を下ろした。普段ならばジェンティアが国王であるアイバンの目の前で、主と共に座るなどということはしないが、カトレアの言葉は命令に近いものだった。
「国王である私よりも、カトレアの言うことを聞くか」
ふ、と口端を歪めてアイバンは笑う。その笑みは心底可笑しそうであった。
カトレアもそれにつられるように微笑み、僅かに膨らんでいる腹部に優しく触れた。
カトレア自身、普段からローブ・ヴォラント風のドレスを愛用しており、ジェンティアもまた主人であるカトレアと似たような衣装を身に着けていた。
このカトレアと似たような服装というのは、『カトレアの身の回りの世話をする者』と示すものであった。王宮内に上がれるだけの身分がある令嬢たちであり、その身分を証明するものでもある。
「君がこの服装を侍女たちにさせてくれているおかげで、分かりやすくて助かるな」
「そうでしょう? 私、この衣装気に入っておりますの」
愛人になることを公に宣言されると、カトレアはすぐに動いた。
実家であるローレル公爵家から信頼できる侍女たちをすぐに呼び寄せた。また、その機会にカトレアが連れて来た侍女たちは皆、同じようなローブ・ヴォラント風の衣装をカトレアから渡されて着用していた。
―――ナイトシード公爵の派閥の方がにとっては、この服装こそが……隠された秘密を見過ごす原因になってしまったのよね。上手くいって良かったわ。なかなか目立たなかったけど、臨月も近いとそうもいかないもの。
この服装は、カトレアの案である。
誰が見てもカトレアの侍女だと分かりやすくする目的、そして妊娠していることを隠す目的があったのだ。
「公爵家のやつらも、まさか若い君に出し抜かれるとは思っていなかっただろうな」
「そのようですね。それに使者とお手紙の件もあっさりできてしまい、驚きましたわ」
「優秀な侍女というのは凄いものだな。ジェンティアが秘かに用意させた使者と手紙……確かに受け取られ、返事もされていたが……それがこちらの手の者とも知らずに」
「きっと、長く甘い時間を過ごしすぎて、あちらは勘が鈍っていらっしゃるのでしょうね」
アイバンは立ち上がり、執務机から離れてソファに座る二人へと近づいた。
ソファの脇に来ると、ゆっくりと膝をつき、静かに手を握った。その手の感触は温かく、アイバンにとって限りなく幸せに思える温もりだった。
「そろそろ公爵家の領地に戻るのか?」
「はい、そうしようかと。ナイトシード公爵はきっとすぐに動きだしますわ。陛下は大変でしょうが……なんとか乗り切ってくださると信じております」
ふふ、と面白そうにカトレアが笑う。アイバンは何も面白くないとでも言いたげに、眉根を寄せた。
「やめてくれ、考えただけで頭が痛い」
「あら、ごめんあそばせ。ふふ……でも、それが私にとっては絶好の機ですもの。逃すわけにはいきませんわ。領地は幸い王都の近くですし、警備などに関してもかなり優秀ですのでご安心を。必ず陛下には立派な子を、その腕に抱かせますわ」
カトレアはかなりの自信をもって、言葉を紡いだ。優しく撫でる手と同じくらいに、腹を見る瞳も優しいものであった。
「……そうか。私の寵愛を受けていると分からせるためにも、ケイレブと護衛等についても確認させよう。ナイトシードが仕掛けてくる前に、安全を確保しなければ」
「ありがとうございます、陛下」
「無理はしないと約束してくれ」
「……アイバン様、必ず……お約束いたします」
二人はそっと腹を撫でた。
「ああ、何かあればすぐに連絡を」
「はい。カルミア様に代わる公務については、ひと月後には戻ってまいりますのでお任せください」
「無理はしないという約束だが?」
「あら、そうでした。でも心配なさらないで、私には優秀な侍女がたくさんおりますので」
カトレアは年相応な笑みを浮かべた。若く未来を見据えたその眼差しは、アイバンの心すら動かしていた。アイバンはカトレアの肩に手を置き、令嬢とは思えぬ逞しさに頭を下げた。
「全て、君に任せる。良い知らせを待っている」
「ええ、必ず。それでは、今日はこの辺でお暇いたします」
カトレアとジェンティアは再び音もなく、奥の扉の向こうへと消えていった。アイバンは扉が閉まるのを見届けると執務机に戻り、静かに息を吐いた。
「ケイレブ」
アイバンが静かに呼ぶと、カトレアとジェンティアが出て行った扉から入れ替わるようにして、ケイレブが執務室へと足を踏み入れた。
「聞いていたな。ナイトシードの動向には注意しろ」
「かしこまりました。恐らく公爵は奪われた権限、そして王妃の静養のことを反対してくるかと思いますので、対策を講じておきます」
「ああ、頼む。カトレアたちの安全を優先しろ」
「御意のままに」
ケイレブは深く頭を下げ、静かに執務室を後にした。
アイバンは机に広げた書類を見つめながら、今までのケイレブが作成していた草案と、実際に王妃のサインがされている書類見比べる。
「あまりにも大きな額すぎる。カルミア、本当に残念だ……」
今後、ナイトシード公爵を引きずり下ろす手筈は、カトレアと考えていくことになる。本来であれば、王妃として、カルミアにこそ協力してもらいたかったことだった。
しかし、アイバンのその願いは、もう叶うことはない。




