16、アイバンとカルミア①
「カルミア様、陛下がお会いするとのことです」
静寂の中、サーラがそっと小さな声でカルミアに告げた。カルミアはソファから立ち上がると、自室を後にする。ナイトシード公爵と会っていたため、帰って来た時よりも外は暗い。
コツコツと歩く音だけが響き、以前まではどんな時間に歩いていても自室周辺は華やかな彩があった。だが、今はどうだ。いつ帰って来るか分からない王妃のために、何もされていない。
―――誰も私が戻ってくる日を伝えていなかったの……?
カルミアは内心、子供のように拗ねていた。実際はそうではなく、旅程が目標通りに進まなかったため、アイバンが出迎えのための準備はしなくていいと告げていたのだ。
「でも、こんなに早く会ってくれるなんて、お義父様の力なのね。久しぶりにお酒でも飲んで……」
すぐにアイバンへの面会が許されたのは、公爵が裏で圧力をかけた結果だとカルミアは思ったが、実際はそうではなかった。
アイバンはナイトシード公爵側が、すぐに面会を取り付けてくるだろうと予測していたのだ。
―――杖で何度も叩かれちゃったけど、まあ……そんなに痛くないのよね。この顔は傷つけられないし、アイバンとこれからまた子作りすることを考えれば、体にも傷をつけるわけにはいかないから、強く叩けないのよね。
面会後の予定をカルミアは勝手に考えていた。アイバンは結局のところ、愛人を作ったところでナイトシード公爵家の後ろ盾があるカルミアを無下にはできないのだ。
「陛下と約束を取り付けております。案内を」
サーラが扉の前で警護についている兵士に声をかける。ちらりとカルミアとサーラに向けた冷めた視線と同じくらいに抑揚のない声で兵士が一度中に確認をいれた。
「中へ」
アイバンの執務室のドアが重々しく開かれた。カルミアが中に入っていくのを兵士が視線だけで後を追う。
「侍女殿はこちらでお待ちを」
「あら、何故ですか?」
「アイバン陛下とケイレブ様からの命です」
「……承知いたしました。では、私はこちらで待機しております」
サーラは深く頭を下げて、兵士が隣の部屋へと視線を向けた。するともう一人兵士が現れ、サーラを案内した。カルミアは「そう」とだけ言うと、気にすることなく部屋に入った。
アイバンはカルミアが入ってきたことに気付いているが、書類に目を落としたまま顔を上げる様子もない。そんなアイバンの横で、ケイレブが柔和な笑みを浮かべ静かに控えていた。
その静寂さが、カルミアの背筋を王都に戻ってきて、初めて凍らせた。
―――な、なんなのこの雰囲気……いつもと違う……?
「王妃様、戻られてすぐでお疲れでしょうが……面会は大丈夫ですか」
「……ええ、ケイレブ。大丈夫よ」
ケイレブが淡々と、しかし大きな声で言葉をかけた。
「カルミア」
アイバンの声は穏やかであったが、カルミアに向けられていたその瞳は、会えたことへの喜びや、怒りもなく、ただ無感情であった。
「陛下……ご心配をおかけして、その、申し訳ございませんでした。療養が長引きましたこと、心よりお詫び申し上げます」
カルミアは公爵に言われた通り、深く頭を下げた。
「そうか。体調は戻ったようだな」
アイバンの声は低く、感情の抑揚がない。
「はい。おかげさまで。それで、王妃としての公務についてですが……」
「ああ、そのことか。心配するな」
アイバンはカルミアの言葉を遮った。その冷めた視線と同じくらい冷たい一言に、カルミアは思わず顔を上げた。
「……え?」
「君は忘れていただけかもしれないが、春花祭はこの国にとって最も重要な行事だった。この国に生きる者ならば、忘れるはずはないのだが。体調を崩して療養をしていたとしても、連絡の一つは寄越せるだろう? そんな単純なこともできない君に、王妃の資格はない」
アイバンは目の前の書類を揃えると、机の端に手を払い書類の全てを床に落とした。その音は、静かな部屋の中で怒りを思わせる音として大きく響いた。
「王妃の公務は君には重荷だったか? ほとんどケイレブに任せていたように思うのだが」
「そ、そうです……私は子宝に恵まれぬことで精神的に参っておりましたの……」
「そうか、それは辛かったな」
アイバンは大きな瞳にいっぱいの涙をためて訴えるカルミアに、微笑んで見せた。
「私も辛かった。子供は傍系から養子をとればいいと何度も言ったにもかかわらず、無視をされ、それどころか自分が種馬にでもなったのかと思うほど、薬を飲んでまで君と何度も夜を共にした」
「……種馬だなんて……酷いわ、アイバン」
「酷いのはどちらだろうな? さて、そこに落ちている書類は、王妃が管理する予算が書かれたものだ。近年では君に代わりケイレブが草案を出していたが、最後はだいぶ金額が変わっているな。これでうまい飯でも食ったのか?」
「なにを……」
カルミアは目を見開き、床に落ちている書類を見る。そして足元にある一枚を拾い上げ、直接書類に視線を向けると下部に自身のサインが書かれてあった。
「今までは君のためにも口出しはしなかったが、愛人を作った今、そういうわけにもいかなくなった」
「あ、あの新しく来たという公爵令嬢に管理させるのですか!?」
王妃としての権限が剥奪される。
それはナイトシード公爵から、再び激しく叱責されることを意味していた―――。




