10、紅茶に毒は入ってません
二人と一人が薄暗い部屋で見つめ合う静寂が支配する空間で、ふいに優しい香りが漂った。
それはこの密室の張り詰めた空気とは対照的な、優しく心を落ち着かせるような紅茶の香りだった。
「ご歓談中、失礼致します」
ジェンティアが静かに声をかけ、ティーセットを乗せたワゴンを運んでくる。その所作の一つ一つに無駄がなく、カップを置いていく手つきさえも完璧だった。
「ああ、とても良い香りね。ありがとう、ジェンティア。陛下、ケイレブ様、変なものは絶対に入れていないと、公爵家の……いえ、神に誓いますので、淹れたてを飲んでくださいませ」
カトレアは自身が紅茶を飲む前に、まるで神殿の神の像の前で誓うようにきっぱりと言い放った。彼女の瞳は真っ直ぐで、そこに嘘偽りがないことはその瞳の力強さで分かる。
アイバンもケイレブもティーカップを見つめ、ゆっくりと視線を上げてカトレアの後ろに佇むジェンティアを見やった。
ジェンティアがそれぞれの前に置いたのは、ティーカップと揃いのソーサー、そして銀のスプーン。しかし、用意されたのは紅茶のみで、ミルクも砂糖もない。
公爵家で侍女をしていて、尚且つ王宮にまで付いてくるほどの侍女が、客をもてなす際に―しかもこの場合は国王とその側近である―客人の好みを尋ねずに、ミルクも砂糖も出さないという初歩的なミスをするわけがない。
―――きっと何かあるのだろう……だから、カトレア嬢も何も言わずにいるのだ。
アイバンとケイレブは互いに一瞬目を合わせた。二人は目の前に置かれた紅茶は、カトレアが何か特別な意味があって用意したものだと気付いた。でなければ、わざわざ王宮まで乗り込んできて、こんな無意味な茶番をするわけがない。
アイバンはゆっくりとカップに口を付けた。ケイレブも同時に口を付けた。
二人とも毒には耐性があり、些細なものでは死ぬこともない。だが、それでも味見役はいるのだが、今回はあえて呼んでいない。訪問理由が訪問理由だったからだ。
ふわりと香しい匂いが鼻腔をくすぐり、温かく飲みやすい温度の液体が喉を通る。
「……これは……私の好みの銘柄と味だ」
アイバンは驚きに目を見開いた。この紅茶は、彼が公務の合間に自分で淹れて飲んでいる、珍しい種類の茶葉だった。
「私もです。この深い渋みと、ほのかな甘み……」
ケイレブもまた、驚きを隠せずに呟いた。ケイレブの好みもまた、国王の側近として普段飲んでいる者ではなく、以前から実家で飲んでいる珍しい種類の茶葉だった。
「お気に召していただけたようで、なによりですわ」
カトレアは二人の反応に満足げに微笑んだ。
アイバンとケイレブは一口、また一口と口に含んでいく。それは単なる紅茶の味ではなかった。アイバンにとって、そしてケイレブにとっても、それは過去の記憶を呼び起こすような、懐かしい味だった。
「こんなに懐かしさを感じるものが飲めるとはな」
「はい……私もです。昔を思い出します」
「昔ですか? そんなに遠い記憶なのですね」
二人の言葉に相槌を打ちながら、カトレアはソファの外、自分の側に控えていたジェンティアに手を差し出す。ジェンティアは音もなく、カトレアへと手を向けた。
カトレアはゆっくりとソファから立ち上がると、ジェンティアにエスコートされてアイバンの横へと静かに立った。
何事かとアイバンとケイレブが二人を見やると、触れ合っている二人の指先へと視線がいった。
その指先には緑色の石が埋め込まれた、王都の雑貨屋に置かれているような玩具の指輪が光っていた。緑色の石はただのガラス玉で大した価値などない。リングの部分も子供の玩具のせいか、サイズが変えられるように柔らかな素材が使われていた。
「その指輪は……」
アイバンの心臓が激しく鼓動する。白く無表情だった顔に一瞬にして血が通い、驚愕と混乱、そして見開かれた瞳には光が宿っていた。
ケイレブもまた、その指輪には見覚えがあった。その子供の玩具のような指輪が、ここに存在するという、あり得ない事実に言葉を失っていた。
「あら、陛下。お気付きになりましたか? とても素敵でしょう? この指輪」
「……気付かせようとしただろう? この紅茶も、その指輪も」
カトレアの声は、甘く、切なかった。
「この指輪……覚えていらっしゃいますか」
「覚えているも何も……!」
アイバンの声は国の王としての声ではなかった。それは長い年月、絶望と孤独に耐えてきた一人の男の声色だった。ソファから立ち上がり、その細い手首を掴んだ。
その指輪は、お遊びだったとはいえ、愛した人に贈ったものだった。
「陛下、陛下がこの指輪のことを覚えていてくれただけで、私は幸せ者です」
「忘れるわけがない……なぜ私は気付かなかったのか、すまない」
「謝らないでください。私は幼かった時から、陛下に助けられ、今もずっと助けたい、支えたいと思っているのです」
薄暗い光の中で輝く瞳と声は、先ほどまでの穏やかなものではなかった。それはアイバンが探し求めていた、そして誰もが知らなかった忘れ去られた記憶だった。
小さな頃、その腕に初めて抱かれた時、公爵令嬢としての運命を受け入れていたのだ。
ケイレブは指輪とアイバンの顔を交互に見つめた。そして、全てを理解した。
「邪魔者は退散しましょう」
「はい、それがよいかと」
ケイレブが静かな声で告げた。ケイレブの忠誠心は国王アイバンにだけ捧げられているのではない。幼い頃からの友人として、アイバンの幸福をずっと願っていたのだ。
ケイレブは深く一礼し、部屋の中に二人を残して踵を返した。
部屋に残された二人は互いに見つめ合い、視線が絡むと手を取り合った。アイバンの瞳の奥には国王などではなく、男として初めて好いた者を求める欲望の光を宿していた。
「まさか、心をつかまれるとはな」
「体では、つかんでおりませんもの。私の心でつかみましたの」
「ああ、その通りだ」
アイバンの喉が震えた。声は欲情でかすれ、華奢な体を抱き寄せた。そして目を閉じぬまま、二人は顔を寄せ合い口づけた。
二人は用意されていた客室の寝室へと、ゆっくりと移動した。
その部屋は誰にも邪魔をされることのない、確かめ合う場となった。




