第二十五話 甘い誘惑に毒は隠れ 4
落ち着くクラシックのBGMが流れる空間に、ぽっかりと無音の世界が生まれた錯覚を起こす。
翠先輩の甘い仮面が剥がれかけ、ほんの僅かに、無表情だった時間があった。
「……瑪瑙に? 嫌がらせ? ボクが?」
なんのこと? としらばっくれるように彼は、再びマスクを被り直す。
だけど一瞬見えたあの顔は。あの顔がもし素顔なのだとすれば。
(嫌がらせなんて心当たりがないって、本気で思っている顔みたい)
あの顔は、無表情ではあったけれど、虚を突かれて呆けた顔にも見えた。
「……妹ちゃん」
「はい」
「どこを見て、そう思ったの?」
彼が見ている私の目の奥。
私はぶどうジュースをもう一口運んだ。
「見てないです。犬飼先輩のことなんて」
マスクが剥がれた。
甘さを取り繕うことすらせずに、彼は目を丸くする。
「でも」
私は翠先輩のことは知らない。
どんな考えをして、どんな思いを抱えて、どんな日常を過ごしていようが。
全て私には関係のないこと。
だけど。
「瑪瑙先輩が、悲しそうな顔をしたんです」
世話になってる先輩が、話したくなかったであろう胸の内を晒して、とても悲しそうな顔をしていた。
私にとっての真実なんて、これだけで十分だった。
「お世話になっている先輩のその顔だけで、私が彼女の味方についた心情は、慮っていただきたいです」
しばらく無言でこちらを見つめてくる翠先輩は、薄い唇をゆっくり動かす。
「ずいぶん、瑪瑙を崇拝しているようだね」
「崇拝じゃないですね」
翠先輩じゃあるまいし。
その言葉は、ぐっと喉奥で堪えて吐き出すことはしなかった。
「なら、何故そんなにも盲信しているのかな」
じっとその目に射抜かれる。
私もカトラリーを置いて、じっとその目を見つめ返す。
「君が、騙されている可能性は考えていないのかい?」
やけに静かに落ちた言葉は、運ばれて来たデザートが置かれる音に遮られる。
「すべてを頭から鵜呑みにするのは危険だよ。騙しやすいカモだと思われる」
それに、そういう奴らを惹きつけやすくなる。
軽い調子で呟かれた言葉は、妙に重い。
「実体験ですか」
やけに似合う、両手を小さく肩より下に上げて、さぁね、と戯ける仕草。
彼はそうやって誤魔化した。
私は届いたデザートの、皿に模様を描いているソースを小さなフォークで崩す。
元々描かれていた軌跡を外れ、大きくはみ出たソースは赤い。
多分苺かラズベリー。
「瑪瑙先輩が嘘ついてる可能性だって、考えなかったわけではないです」
小さめのケーキに刺さっていた、フープの形をしたビスケットをそれに付け、グルグル引き摺り回す。
白い皿に、赤が大きく広がっていく。
「だけど、私は自分の目で見たものしか信じることができないから」
ドーナツの穴を覗くみたく、フォークに無理やり挟み込んだそのビスケットの穴を覗く。
その先には翠先輩の口元が見えた。
さっきまで、何を考えているか分からなかった微笑が、今は内にある人間味とやらが剥がれて見えかけているような心地がした。
「お二人の確執のあった、その場を知らない私は、瑪瑙先輩の表情だけが真実なんです」
フープのビスケットは奥歯で噛み砕いた。
限定された視界から解放されたためか、翠先輩の顔の、その表情がよく見えるようになった。
困った顔した、人間味の見える微笑みを浮かべていた。
「……成る程。そういう考え方もあるんだね」
「もしかすると、双方の話を聞いて合理的に判断するって人もいるかも知れないですけど」
「君はその手段を取っていない。だろう?」
「見事に瑪瑙先輩の手玉に取られているとお考えください」
翠先輩の態度を真似して、甘いマスクを被ってみる。
内心を悟らせない、上手な誤魔化し方だと感じる。
それで大抵の相手は不快に思わないのだから、顔の造りや表情は武器になり得る。そう思った。
「……君は」
む。このパイ生地、美味しいけどすごく崩れやすい。
ボロボロ崩れていく、ケーキ生地の間に挟まったパイ生地と格闘していると、唐突に、翠先輩。
「瑪瑙のことが好きなのかい?」
うまく刺さったと思ったパイ生地が、ポロリと零れて皿に落ちた。
ソースの上に落ちたその一口は、一部赤く染まっていく。
私はと言えば、呆けた顔で、「は?」と訝しむしかなかった。
「……好きですよ。先輩として尊敬してますけど」
「それは友愛?」
「愛情に名前なんて付けなくていいと思うんですけど。あえて言うなら、はい、で」
話の意図が読めない。
人間のような笑みを浮かべて、内面は複雑怪奇なこの先輩は、ニコニコ上機嫌に笑っている風に見せている。
だけど、目の奥は笑っていない。
「君は、さっき言ったね」
笑っていない目を見開いて、ゆっくり口角を上げていく翠先輩。
まるで野生動物が、ゆっくり、ゆっくり、威嚇をしているよう。
「見たものしか信じられないから、瑪瑙の表情だけが君の真実と」
蛇に睨まれた蛙。
その言葉がしっくりくるほど、彼の穏やかで、優雅で、苛烈な威嚇に身が竦む。
動けず固まっている私を見据え、ゆったりとした動きで、自身の手を組む翠先輩。
机の上で組まれた手に意識を向けていると、彼の言葉が降ってくる。
「それならば、今から君に、ボクの真実を伝えようと思うよ」
瑪瑙の真実の、隣にでも並べておいてほしい。
そう続けた彼は、ゆったりとした口調のまま、語り始めた。




