第四十六話 林間学校 5 〘陸の世界〙
とうとうこの時間がやって来てしまった。
「時間過ぎるの早すぎんだろ」
「言うほど早くはなかったよね」
思わず呟く隣でツッコむ海。
見ないでもわかる。これは呆れたジト目をしている声だ。
昨日はあれからずっと眠ることができなかった。遥のことを悶々と思い出して。
今日一日、俺はずっと何をしているのか分からなかった。
今も今日のことを思い出せと言われても、俺は今日何をしていたのだろう。って返すしかない。
「昨日出かけたことと何か関係あるの」
「は?!」
「カマかけ。やっぱり出かけていたんだ」
「コイツ……っ!」
見事に引っかかった。
海が俺を指さしてにやりニヒルに笑う。
「眞鳥さんだろ」
「もはや質問ですらないのかよ」
「顔赤いぞ」
「マジ?」
「ウソ」
「このやろ」
胸元で拳を握る。
海はきゃー、と棒読みで距離を取った。
「陸ー、海ー。マイムマイムー」
単語を発音するだけの妹が来た。
「……じゃあ、頼む」
「はいはい」
海と手を繋ぐ。反対側に、空が飛びついて来る。
炎が中心で燃え盛る。
組んだ木の隙間から、火がチロチロと舌を出す。
まるで俺の無様を嘲笑っているようなそれ。
両隣で繋がれた体温は、それから守られているような温かみを持っていた。
「ねーぇ? 空さん、陸くんの隣変わってよ」
空が俺の反対側で手を繋ぐ女子から文句を言われている。
「いやー、ごめんね? この子、臆病な森の賢者だから……」
「はぁ?」
「飼育員として責任もって保護しますので……。せめて心を覚えた森の人になるまで待って」
「はぁ?!」
どういうことよ! 怒鳴られていても、空は素知らぬ顔。
空。身内ネタは、身内にしか伝わらないから身内ネタって呼ばれているんだぞ……。
思わずツッコミたくなった口を、唇を嚙んで噤む。
マイム、マイム、マイム、マイム。
独特のメロディを口遊みながら、輪を縮め、広げ、また縮め。
「たーのしーねー」
独特のメロディに釣られた、独特のイントネーションで空は上機嫌に笑う。
「陸。もう大丈夫だよ」
「なにが?」
笑いながら、空は笑顔を向けて俺に言う。
繋いだ片手を持ち上げて、心底嬉しそうな蕩けた笑みを浮かべて。
「陸の手は、もう、誰も傷つけない」
「は」
一瞬、何を言っているのか理解が追い付かなかった。
だけど、徐々にその言葉が頭に染みわたって、途端に怖くなる。
「いや、空、お前、何を言ってるんだよ」
「言葉の通りだよ。陸は、もっと外の世界にいるべき人」
やめてくれ。やめてくれよ。
(ずっと、一緒に手を繋いでいてくれよ)
この手を振りほどかれたら、俺はどこに行けばいいんだ。
どこに放り出されるというんだ。
恐怖に怯える犬のように震えだす俺の腕を、海がしっかり握って、俺の目を見つめてくる。
「大丈夫。お前の手は、誰も傷つけない。ちゃんと力加減はできている」
「言葉が足りなかったかも。ごめんね」
空が申し訳なさそうに眉を下げ、言葉を語り、増やしていく。
「陸。空たちは、陸の隣にずっといるよ。もしも物理的に距離が離れても、ずっとずっと、空たちは陸の味方」
俺を見る空の目は優しい。
反対側を振り向けば、海も同じ光を宿していた。
「だけど、空たちと手を繋いだまま、陸はたくさんの人と手を繋いでほしいの」
たくさんの人に、陸の手を知ってほしいから。
持ち上がった手は、空の頬に当てられる。
「空、陸の手はあったかくって好き。ケガする前より、もっと、もーっと暖かくなって、大好き」
だから。
頬から手が離される。繋がれた手は、それ以上のぬくもりを伝えてくる。
「陸。怖がらないでいいんだよ。陸はね、化け物なんかじゃないんだよ」
繋がれた手から伝わる言葉。
震える俺の手を、海は無言で離す。
次の瞬間、繋がれたのは別の誰かの手。
「な、なにをっ!」
「怖がるな」
静かに。けれども力強く。
太く色づけた一言に、体がわずかに硬直する。
「お前の手は、誰に繋がっている? その人のことを、ちゃんと見れているのか?」
言われるがままに確認する。
海と場所を代わったのは、遥だった。
「お前は眞鳥さんの手を、今、握り潰しているのか?」
「……そう見えるなら、イかれてるよ。お前の目」
ああ。世界が歪んでくる。
いっそ流れてくるものが、炎の熱に溶かされて、跡形もなく干上がってしまえばいいのに。
(俺、二人以外と手を繋げているんだ)
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
遥とは逆の隣を見る。
闇に浮かぶ、真っ白な少女が笑う。
「よかったね、陸」
「ああ……!」
震える声を素直に吐き出す。
そうして、ようやく気付く。
俺の心は。俺の中身は。俺が何をしたいのか。
「陸」
心は決まった。
だから、なんとなく想像のついた遥が次にいう言葉も、落ち着いて返すことができたんだ。
「どうした、遥」
「この後、時間を頂戴?」
意味を理解するのに、時間はまったくかからなかった。
俺は頷く。
最後のマイムが響き、音楽は止まった。
踊りきったことへの安堵。
一瞬の空気のゆるみ。
その隙をついて、遥は俺の腕を掴んで引っ張る。
「行こ、陸」
ちら、と二人の方を見る。
マイムマイムが終わった瞬間、空は三浦さんを捕まえては楽しげに笑い合い、海もそれに同席している。
二人の視線はこちらに向くことなく、各々の世界に没頭していた。
「……行こうか」
だから、何を言われる前に早々にその場を離れた。
誘われたのは、炎の裏側をもっと離れた場所。
小川の流れる、静かな場所。
遥はそこで、縋るように見上げてくる。
「もう一回言うね。あたし、陸のことが好き。恋人になってほしい」
遥の真剣な視線に射抜かれる。
ようやく触れられるようになった手の温もりも、だけど炎の熱には遠く及ばない。
「……多分、遥と付き合ったら楽しいと思う」
「……うん」
「女子力高いし、細かいとこにも気が回るし、みんなに優しいし」
「そうだよ」
「だけど、やっぱり比べちまうんだ」
「……うん。でも、あたしはそれでもいい」
「違う。俺が、あいつのことが大切で、守りたいやつで……」
ようやく、言葉ができたんだ。
ようやく、俺の中身を語る言葉ができたんだ。
俺は遥と目を合わせる。
蜃気楼の錯覚は、もう、無い。
「遥が、空よりも優先順位が高くなることは、きっと無い」
「……空ちゃん、妹じゃん。いつかお嫁に行っちゃうと思うよ」
「それでもだよ。それでも、俺は空を守りたい」
大事な妹なんだ。
見上げる瞳に映る俺は、きっとこれ以上ないほど幸せな顔を浮かべている。
「だから、ごめん」
離す手。離れる距離。
「……知ってたよっ!」
背中にかかる声は、思ったよりも明るい。
「空ちゃんとこ、早く行ってあげな!」
炎の熱には振り返らない。
たとえ作られた明るい声に、湿っぽさが滲んでいても、振り払って向かう。
空のもとへ。
「あっ! 陸くぅん、お話は終わったのぉ?」
……行く前に、甘えた猫なで声で群がってくる女子たちがひふみのよ。
空気を読んでいたのか、見つけられなかったのか。
……見つけられないようにしてくれていたのか。
真相は分からないけど、輪の中心に立たされた俺は、囲む女子たちの告白を、聖徳太子の耳して聞く羽目になった。
「ま。オモテになること」
その輪の外で、後方妹面の空。
からかいの含まれたニマニマ笑顔で海と囁き合っている。
対する海は、さもありなんと頷いている。
「陸は見た目もいいし、将来スポーツ選手にでもなれば稼ぐことは分かりきっているからな」
「?!」
驚いたように海を二度見する空。
俺もびっくり。
なに? 俺ってそんな目で見られていたの?
「将来性を見据えた投資ってやつ? 女子って計算高いよな」
さっきまでの空と似たニマニマ笑顔で海が言うと、焦ったように空が叫びながら駆け寄ってきた。
「だ、だめーっ! 陸は、陸が幸せになれる女の子にでないとあげません! 空、許しません! 不純な動機、ダメ、絶対!」
群がる女子の群れに果敢に立ち向かうも、その入り口で弾かれた空は、ぷきゅっと音を立てて地面に転がった。
「空は……無力だ……」
「元気出して」
オロオロ事の成り行きを見守っていた三浦さんが、力なく地面に寝転がる空へ、ハンカチを差し出していた。
「ふっ、あはははははっ!」
とうとう、堪えきれなくなった俺は、何とか耐えようとしていた大声を開放し、笑う。
それは大爆笑と言って差し支えない勢いで、周囲に群がる女子たちも、一瞬たじろぎ距離を置く。
「ほれ、空」
「ん」
女子の群れを掻き分け、地面に大の字で寝転がる空の手を取って助け起こす。
空を抱え上げ、人の群れに叫んだ。
「悪い、みんな! 俺、手ぇかかる妹がいるから無理だわ!」
「なぁっ?! 空のせいにすんなーっ!」
「あっははははっ!」
肩で暴れる空の声が、薪の爆ぜる音にも負けず、元気に星へと昇っていく。
カラッと晴れた、夜の晴天。
空の元気な声を乗せて、にぎやかな夜は過ぎていく。
***
中学最後の夏の思い出、そのひとつ。
俺たちは夏を過ぎ、またひと回り、年を取る。
「……まーたお前らも一緒かよ」
「んへへ、いーじゃん、いーじゃん」
「陸ひとりだと何かやらかしそうだし、お目付け役は必要だろ」
お揃いの真新しい制服に身を包み、軽口を共に叩き合う。
「……にしても、海はともかく、空はよく同じ高校に入れたな? 普通科にしても相当難しかっただろ?」
「頑張った」
問いかけになぜか海が答える。
遠い目をしたその顔は、疲れを思い切り滲ませていた。
「あぁ……」
察した俺のその横で、空は得意げに、
「がんばってもらった!」
などと宣い、海に拳骨をくらっていた。
「みんな、忘れ物ない?」
リビングから母ちゃんが顔を出している。
「無い!」
元気に返事。靴ひもを結ぶ。
「行ってきます!」
行ってらっしゃい。その声を背に、俺たち三人は高校生としての一歩を踏み出した。




