第四十二話 林間学校 1
「林間学校?」
ポカンと呆けて空が聞く。
今まで書いていた宿題のノートの端は、小さく握り潰されている。
「お知らせ来てただろ。見てないのか?」
「あー……。うん、見てない」
「おい」
半目を開けて空を見る海は、最近縛れるくらいに髪の毛が伸びてきた。
「だからマイムマイム、最近体育の授業でやってたんだ」
「鈍すぎるにもほどがある」
あれは本気で呆れている目だ。
対して空は面目ない、と言いながらにへにへ頭を掻いている。
「母ちゃんー! ちょっと話があるんだけどー!」
ドタバタ降りてくるのは陸。
その手には林間学校のプリント。
「おお、タイムリー」
思わず呟くと傾げられる首。
「お、ふたりもいたんだ」
「やっほ陸ー」
ゆるーく手を挙げる空に、ゆるーく手を挙げ返す。
「話って?」
お皿洗いで濡れた手を拭きながら台所から出ると、陸は海の隣に座り、お知らせのプリントを机に広げる。
「本当に林間学校だ」
感心した風に呟く空だが、お母さん不安です。
もしこの話題がなかったら空、当日どうするつもりだったの……? と。
「林間学校があるんだけど、当日の弁当、おむすびとかサンドイッチとか、洗い物がないものにしてほしいって言われたから、伝えておこうと思って」
「事前の連絡助かるわ。とっても」
思わずまろび出る倒置法。
当日弁当箱を持たせる気マンマンだったから。
「おっきいおむすび用意しておくわね」
「やった」
小さく喜びを顕にする陸は、最近少し落ち着いてきた気がする。
三年生になったからか。
あるいは三人が出かけたあの日、何かあったのか。
わたしが知る由はないが、わだかまりも空のギプスも解け、平穏な日々が戻ってきている。
変わったことと言えば。
「そういえば陸。まだ陸部から勧誘あるの?」
空が頬杖をつき、眉をしかめて言っていた。
「そー。やっぱり戦力が欲しいとかって。でも監督に嫌われてるって分かっちゃったらなぁ」
陸は、陸上部を二年の半ばで辞めた。
結果的に陸の引退試合となった個人競技では、並居るライバルたちを押し退けて、軒並み表彰台へと上がる成績を叩き出した陸は、その日のうちに監督から暴言を受けたそう。
「戻る必要ないだろ。いくら贔屓する監督だったとは言え、目立つなとか、目立たずに一生を終えろとか言われて、協力する義理ないし」
「なんでそこまで言われなきゃいけなかったんだろうね」
会話に混ざる。
話を聞いた当時は、一言文句を言いに行ったけれど、ずいぶん適当にあしらわれた記憶がある。
学校に文句も言ったけれど、監督はどうやら外部の人間を使っているようで、こちらとしては何とも……。などと濁された苦い記憶。
そんなことを思い出している間に、海は肩を竦めて皮肉げに右側の口角を上げる。
「見た目と能力で負けてるからじゃない?」
「海、辛辣ぅ」
ケタケタ楽しそうに笑う空は、「まあ、空、理由知ってるけど」なんてサラッと宣った。
「え?」
「へ?」
さすがの海と陸も、鳩が豆鉄砲食らったように、口を開けてポカンと空を見た。
「女の子の間だと結構有名だよー。二組の眞鳥さんって女の子、知ってる?」
「知ってるも何も、陸部のマネだし……」
陸が知っている人の名前が出てきたことで、訝しげな表情に変わる。
「そうそう。三年の中でも上位に入るくらいにかわいいって噂の眞鳥さん。あの子ね、陸のことが好きなんだって」
「えぇっ?!」
初めて聞いたらしい陸が、ギョッとして驚いている。
その隣では、海が額を抑えて頭が痛そうにしている。
「話読めてきた……」
「お察しの通りー。陸部の監督、眞鳥さんのことが大のお気に入りなんだってぇ。恋人にしたいくらい」
「うわっ」
鳥肌が立ったようで、陸が二の腕を擦る。
空はケタケタ笑いながら、あくどい顔で毒を含んだ軽口を叩く。
「四十のオッサンが、中学生の女の子をとか、気持ち悪ーい」
「陸は僻みと……嫉妬の対象にされたんだな……」
「やめてくれよ。もはや事故だろこんなの……」
頭を抱える陸。
そんなことで部活を辞めざるを得なかった陸に心底同情する。
「監督の無駄な嫉妬のせいで、リレーに負けた陸部ざまあみろ」
相当鬱憤が溜まっていたらしい。
あれから何ヶ月も経っているのに、事あるごとに擦ってはその度口が悪くなる。
「空、いい加減それ思い出すのやめろ?」
陸に宥められ、空は唇を突き出した。
「だってぇ……。保護者から陸を外されたこと、監督責められていたのに、未だに辞めてないの可笑しいよ」
そう。
陸が部活を辞めた後も、例の監督は居残り続けているらしい。
「もう俺は関係ないし、いいの」
「陸の部活動推薦の道を潰した監督には、空、恨みしかないからね」
「まーだ言ってる……。それに進学先については問題ないっての」
「なんで? 陸、この間のテストも五教科中四教科赤点だったでしょ?」
「なんでそれを」
なぜバレた、と言いたげな顔をしてるけど、陸くんや?
お母さん、それ知らなかったんだけど?
ニコニコ笑顔の中に圧でも感じ取ったのか、焦った様子で話の続きを話し出した。
「二年の時の試合を観に来ていた高校の陸部顧問がさ! 卒業後はうちに来いって言ってくれたんだよ!」
「え?! なにそれ空聞いてない!」
机に両手をついて立ち上がった空の背後で、蹴り倒された椅子が大きく音を立てた。
「どこの高校だ?」
海は冷静に聞いているようで冷静じゃない。
証拠に、手に取ったスマートフォンが逆さまになっている。
慌てたような二人の様子を見て、陸は得意げに鼻を鳴らした。
「聞いて驚け。蒼栄高校だ」
海と空は顔を見合わせる。
空が心配そうに陸に聞く。
「大丈夫?」
「なにがだ?」
「勉強……。着いていける?」
陸はキョトンと理解が追いついていない顔。
ため息をつきながら、海が補足した。
「そこ、進学校だけど。……県内では五本指に入るくらいの」
陸は穏やかな笑みを浮かべる。
そのまま、自分の携帯で何処かに電話をかけ始めた。
「もしもし大崎監督ですか? すみません、天嶺陸ですが……」
リビングから出て廊下で何事か話している陸。
扉が閉まる前、「俺、勉強全くできないんですけど」などと言っているのは聞こえてきた。
「運動できても勉強できなかったら陸、留年しちゃうんじゃ……」
不安そうに呟く空。同調して、海も頷く。若干顔色が悪い。
「でも、このお話断ったら陸、本当に進学できなくなっちゃうよね?」
「だけど進学したら留年の未来が……」
海と空。二人は心配そうにオロオロしだす。
「心配しすぎよ」
二人を見て苦笑いしか浮かんでこない。
唇を突き出した空が、「だって」なんて言う。
「陸、ほんとに勉強危ないもん」
「陸は部活に忙しかっただけよ。地頭は多分いいんだから。……多分」
「多分って二回も言った!」
キャンキャン喚く空の口にクッキーを詰める。
「あ、おいひ」
サクサク無言になった空。
「心配する気持ちは分かるけど、杞憂だよ。だって」
わたしが告げる前に慌ただしく開く扉。
息を荒げる陸が携帯を片手に、興奮して叫んだ。
「蒼栄高校! 普通科あるって!」
「そうだね。普通科あるよ」
知ってたの? 言いたげな目で海が見てくるから、わたしは一つ頷いた。
「だって花ちゃんの進学先だから、真理藻さんから話は聞くんだよね」
「花の進学先?」
どうやら海も知らなかったらしい。
花ちゃんは蒼栄高校の進学学科に合格したと、真理藻さんから聞いたことを、昨日のことのように思い出せる。
「花ちゃんと高校の話とかしてなかったの?」
「してなかった。どこの高校に行ってるとかも、まったく……」
今度は海が落ち込んでしまった。
ドンマイ、って慰める空。多分その慰め方は逆効果だと、お母さんは思うよ。




