第四十一話 空、怪我をする 5 〘陸の世界〙
「ごちそうさま!」
「はい、お粗末様」
視界の端で三つ子の妹、空が朝飯のパン、最後のひとかけらを飲み込む。
母ちゃんに笑顔でお礼を言っている朗らかさは見習いたいところではあるけれど、今はそんな気分ではない。
(ギプス……)
妹の左腕にはまった固めの包帯に視線を向ける。
罪悪感で押しつぶされそうだ。
(最近握力測ってなかったけど)
去年は確か、二桁で収まっていた。
……今は測るのが怖い。
まさか自分が、片手で腕を折ってしまえる人間に育っているとは思わなかった。
(いや、アレは勢いをつけすぎたのはあった。純粋な握力ってよりも、もっと、こう……)
絶妙に折れやすい角度になった腕を、折りやすい力加減で、折りやすい手の形で掴んでしまったと言うか。
(バケモノの思考じゃん、俺)
自分自身を嘲笑する。
同時、言い訳しかしていない自分にも気付いて、嫌になる。全てが嫌になっていく。
「陸」
とことんまで沈み込んだ思考を引っ張り上げるのは、快晴の笑みを浮かべた空。
空は名前の通り、晴れやかな青空のような女の子。
……大切な妹。
視界にチラチラ映るギプスが余計なノイズとして認識される。
「食べた? 食べたよね? じゃあ出掛けるよ!」
「……俺は」
「何も考えずにその辺走り回るより、空と出かけたほうが絶対楽しいよ」
どうせその後自己嫌悪するんでしょ。
すべて見通すように不敵に鼻で笑う空。
「陸が何に落ち込んでるのか大体知ってるよ、空。だから陸は空と出かけるの」
前半と後半の脈絡が繋がらない空の言葉もいつものこと。
いつも、それに引っ張られていく。
振り回されるとも言い換えられるそのパワフルさに、だけど確かに救われているところがある。
「自転車使うから、準備してて!」
「……」
まったく。
うちの妹は、とんだワガママ姫様だ。
「へいへい」
頬は知らずと緩んでいた。
***
「きゃっふー!」
まるで遊園地のアトラクションにでも乗っているような黄色い悲鳴。
肩に片手を、背中に全身の体重がかかり、普段の乗り方とは違う力が入る。
「陸ーっ! もっと速くーっ!」
「おいコラ……っ! これでっ、割とっ! 限界だっ……っての!!」
普段の部活以上に全力で漕いでいる。
学校に遅刻しそうな時だって、ここまで必死に漕いだことはないぞ、自転車を。
今なら大通りを走る車と並走できそうだぞ、自転車で。
「っでっ! どこにっ! 行くんだよっ!」
息が切れる中、言葉を吐き出す度に肺が軋む。
そんな俺の満身創痍などお構い無しに、この空は満面の笑みを浮かべて言った。
「青い花の咲く丘!」
「はぁっ?!」
オイオイオイ。
巫山戯んじゃねぇこの妹!
「目的地はぁっ!! 先にっ! 言えっ!!」
正反対だコンチクショウ!
それに車で家から大体一時間?
自転車だったらどれだけかかると思ってる。
「ダイジョウブ。陸なら行ける。ファイトイッパツ」
「ここで振り落とすぞ」
「暴力はんたーい! 空ケガ人!」
はぁっ、本当にもう!
「小憎たらしいなぁ! 俺の妹は!」
方向転換した河川敷に叫ぶ。
俺の全力なんて知ってか知らずか、背中でくふくふ笑う吐息を感じている。
「がんばれーっ! 陸ーっ!」
「頑張ってるわ!!」
「そうだそうだーっ! 陸は毎日頑張ってんだーっ!」
背中の野次が木霊する。
野次と言うには、ひどくはっきり意味を持った言葉が背中にコツコツ、叩きつけられている。
「毎日頑張ってんだからーっ! 人の骨折れるくらいに成長するのも当たり前なんだーっ!」
「おっま、人が今落ち込んでることを!」
「空はーっ! バケモノみたいに力の強い陸が誇らしいぞーっ!」
野次は必死に張り上げる。
意味ない言葉を繰り広げる烏合の衆が放つ野次よりも、何倍も、何十倍も、色と温度と質量を持って、その声を張り上げる。
「空はーっ! 陸も海もーっ! どんな姿になったってーっ! 空はーっ! ふたりがずーっと大好きだーっ!!」
視界が薄っすら歪んでくる。
目の前が見えなくなってくる。
いけない。俺は今、背中に大事なものを乗せてるんだ。
首を振って振り払う。
開けた視界が、やけに塩っぽい味がした。
「空、本当に気にしてないよ」
背中全体に感じる重みが、ポツリ小さく寄りかかる。
「……そうかよ」
精一杯の強がりは、背中でニヒヒと笑われた。
「……あっ! もうすぐ丘が見えるよ!」
「いきなり立つな!」
いきなり背中で暴れだす。
立ち漕ぎのように荷台で立って、背中の重みが肩に全力で伸し掛かってきた。
「……んー?」
伸し掛かる重みが、疑問の声を伸ばす。
どうやら遠くにあるものを見ているようで、目でも細めているのだろう。
口からは唸り声のような疑問符が流れ続けている。
「……あっ! 海だ!」
「海?!」
空が声を上げると同時、丘の上に座り込む人影が見えてきた。
半分黒色、半分真っ白の見慣れた髪色。
「ようやく来た」
片割れのもう一人が、呆れた目を隠しもせずに、立ち上がって仁王立ちをする。
「海、どうして」
「……ここにいると思ったから」
ふい、と視線を逸らしながらぶっきらぼうに言う海は、「ん」と袋を突き出してきた。
「なにこれ」
「早く受け取れ。重いんだ」
つっけんどんにもう一度、「ん」。
恐々受け取ると。
「重?!」
「十キロあるんだと。はー、肩凝った……」
肩を叩く海のその仕草には、どこか爺臭さを感じた。
「重り?」
「よくあるだろ。重いのを両腕と両足に嵌めて力を抑制するっていう」
……どうやら、俺は思っていた以上に、弟妹達から随分愛されていたらしい。
「それ、地の力、もっと育たないか?」
元々、トレーニングの一環で着けるものだって聞いたことあるし。
そう言えば、へっと鼻で笑われた。
「いいじゃないか。鍛え上げた秘めたる力。かっこいいんじゃないか?」
「半笑いヤメロ」
今度は俺が呆れた目を向ける番だった。
「陸。着けてみて?」
空に促され、重りを着けてみる。
「……どう?」
身に着けた腕を見せてみると、にっこり笑う空がいた。
「似合ってる!」
「!」
俺よりも嬉しそうに笑う空は、怪我をしていない右手で、俺の左手を無邪気に掴んだ。
思わず身を強張らせる。
脳内には腕を折った日のことがフラッシュバックする。
腕にはあの感覚が鮮明に甦る。
思わず振りほどこうとする俺の左側を、海が抑えるように繋いでくる。
「はい、確保ー」
「確保じゃないって、放せって」
無理に振りほどくと、また怪我をさせてしまうのではないか。
そう思うと、体を強張らせて、微塵も動かないことを選ぶしかなかった。
「なんか宇宙人でこんな写真あったよな?」
「陸を宇宙人にするには大きすぎない? 空たちが吊り上げられちゃうよ」
左右では呑気に会話をしている。
俺を挟んで平和に呑気な会話をしている。
「怖くないのか?」
弟妹に聞くには物騒すぎる質問を投げかけると。
「え? なんで?」
心底不思議そうな顔をした空に、逆に聞き返されてしまった。
「だって今、空たちの腕折れてないもん」
肩を竦め、呆れた様子を未だ続けている海が、小馬鹿にした口調で言う。
「こんな小動物みたいに怯えている男の、何を怖がればいいんだよ」
繋がれた両手から、込められた力が伝わってくる。
その手をそっと握り返してみる。
「そうだよ。お前が怖がってるものは、思ったより大したことないぞ」
「骨折は一大事だろ……」
事の大きさを分かっているのかどうなのか。
あんまりにも軽い調子の海に思わず突っ込むと、違うとその口で否定される。
「手を繋ぐことは、お前が思っているより怖いことじゃないんだって」
右側を見れば、いつも言わないことを言ったからなのか、思いっきり首を捻って視線を合わせないようにしている海が。
最近伸び始めた髪から覗く耳が赤く染まっている。
左側を見れば、いつものように無邪気に笑みを浮かべる空が。
「今日の夕飯なんだろうねっ」
「また飯の話してる」
口では呆れてみせるけど、頬は緩んでいる自覚がある。
「じゃー、帰るかぁ」
「海はどうやって来たの?」
「電車とバス」
「自転車乗ってく? 空も乗るけど、三人乗りでも陸なら運転できるはずだよ」
「そもそもそれはさすがにお巡りさんに怒られるだろ」
言い合いながら丘を降りる。
手を繋いだ影を、青い花が見送った。




