第三十七話 空、怪我をする 1
「ママ、ごめん、病院に連れてって」
ある日の午後。
夕方通り越して夜。
夕飯も食べ終わり、各々宿題をしたり、ゲームをしたり、筋トレをしたりと過ごしていたはずの穏やかな時間に、突然娘がそんなことを言い出した。
「どうしたの、お熱でもあっ……」
あったの? そう言おうと振り向いて絶句する。
「空、空?! 腕、どうしたの、腕!!」
「ママ、落ち着いて」
空の左腕が、あらぬ方向へ折れ曲がっている。
わたしは目が文字通り飛び出しそうになるほど驚いた。
腕が折れ曲がっている娘の方が冷静だった。
「腕が折れちゃって」
「折れちゃってって、痛くないの?!」
「痛い」
「でしょうね?!」
携帯を引っ掴み、病院の電話番号を探すわたしの正面、空の背後の階段の上から、か細く怯えた声が聞こえてきた。
「母ちゃん、ど、しよ、俺、俺……」
陸だ。
普段の能天気なまでに明るく快活な表情は見る影もなく、血の気が可哀想なほどに引き、幽霊のように悪い顔色。
目には涙さえ浮かべ、目の前で起こった事象で自分を責めているようにも見える。
何かがあった。
そう確信するやいなや、わたしは階段上に向けて大声で叫ぶ。
「海ーっ! 海、ちょっと来てーっ!」
普段滅多に出さない種類の大声を出したためか、ものの数秒で扉の開く音がする。
「母さん、どうした、の……」
海もこの光景に絶句している模様。
わたしを見て、腕の折れた空を見て、最後に階段上にいる陸を見た。
「海、勉強してたよね? 悪いんだけど母さん、空を病院に連れていくから、その間変なことしないように陸を見ててもらっていい?!」
陸の顔色を見ていると、放っておいてはいけないと本能が警告を鳴らした。
目を離した隙に、何をしでかすか分からない表情をしている。
自傷行為に走っても可笑しくない。そんな表情。
(室内で暴れるくらいなら、可愛いものと言ってあげられるけど……)
我が子が自分を傷つける。
そんなことを考えるだけで気が狂いそうだった。
海は意図を汲んでくれたようで、力強く頷いた。
「ごめんね、よろしく!」
「行ってらっしゃい。鍵は閉めとく。帰ってきたときインターホン押して」
「ありがとう!」
大慌てで車の準備をして空を後部座席に押し込む。
痛いと言っていただけあって、空の額に脂汗が浮かび上がっているのが見える。
わたしは大幅な速度違反をしてまでも急ぎたい気持ちを堪え、だけどできるだけ急ぐ。
信号に引っかからないことを祈りながら。
***
「まー、きれーにポッキリ折れちゃって」
いっそ感心したように吐き出す医者は、手早く骨折の処置をする。
「ア゙い゙だだだだだだだっ!!!」
「あ、骨まっすぐにしたからねー」
「せめて先に宣言して……っ!」
空が身悶えている間に手早く包帯を巻いていく彼の手際は達人のそれ。
「あー、これは、うん」
空の顔色を見た彼は、わたしに『お母さん』と声を掛ける。
「ちょっと空ちゃんの飲み物買ってきてもらってもいい? 水かスポーツドリンク。熱が出るかもだから、帰りに水分補給させてあげて」
彼に言われるがまま、わたしは病室を出る。
廊下を早足、自販機の前。
「……っはぁぁぁ……」
飲み物を手に、大きなため息。
共に、床に崩れ落ちた。
「よかっ……たぁ……」
安堵のため息は、たぶん人生で一番大きい。
知らず浮かんだ涙を指で拭い、わたしは病室まで戻っていく。
「お待たせしました」
「ナイスタイミングぅ。ちょうどギプス終わりましたよ」
医者が軽い調子で見せてきた、空の腕に巻かれたぶっといギプス。
いくつかの注意点を説明された後、わたしたちは病院を後にした。
「空。何があったか説明して」
車の中。運転をしながら空に説明を求めると、彼女はうーんと唸って黙る。
「空。説明してくれないと、何があったかお母さん分からないし、空も、陸も、フォローもできなくなっちゃう」
「むむん、でもなぁ……」
「空!」
少しキツメに名前を呼んでしまい、ハッとして口を噤む。
「うーんとね、説明したくないわけじゃないの。だけど、どこまで説明したらいいのか分からないの」
空が補足の方を口にする。
「どこまで? どうして?」
「陸のことに関わってくるから」
陸が、どこまで伝えてもいいって思っているのか分からないから、だから話せない。
バックミラー越しに目が合う空は、真剣な顔をしてそう言っていた。
もどかしい。
子どもたちのことは尊重してあげたい。
だけど親として、原因を把握しておきたいジレンマ。
「……なら、帰ったら聞かせてちょうだい。陸と一緒でも、別々でも、お母さんはどっちでもいいから」
「うん。ママ、ありがと!」
パッと花咲く笑みを浮かべて、空は元気にお礼を言った。
空の明るい顔とは対照的に、わたしの顔は曇ってどんよりしていることだろう。
空の痛みを想像するのも辛い。
それに加えて、今も自分を責めているであろう陸の気持ちを想像するのだって、わたしが代わってやりたいという気持ちになる。
家に着く。インターホンを鳴らす。中から海が顔を出す。
「ただいま」
「おかえりなさい。空は?」
「今から来るよ。ギプスの処置をしてもらって、骨折以外は何もなし」
「よかった」
海はホッとした表情を浮かべる。
それと同時に、気まずそうに顔を反らした。
「ごめん、母さん」
「どうしたの」
聞き返せば、海から飛び出た言葉が。
「陸、泣かせた」




