第六十二話 ミッション 9
昨日飲んだ珈琲の風味が後を引いていると感じる翌日。
授業終わりの教室で、教科書をまとめて鞄に入れている時。
ふと視線を上げると、普段と違う空気がザワザワ漂っている。
教室の至る所から、疑念に塗れた雑談と、不安そうな顔があちらこちらに。
「なあ、あのメール、見たか?」
「見た、けど、なぁ……?」
聞き耳を立てる。
疑いの声が聞こえてくる。
それはハッキリと意志を持った疑念ではなく、戸惑いのような、曖昧な疑う心。
「デマだろ、どうせ」
「いや、さすがにデマっぽいけどさぁ。これが学校の生徒メールに一斉送信されているってことは、やっぱり教官が送ったメールってことじゃないの?」
彼らはどうやら、昨晩一斉送信されたメールの内容について話しているようだ。
私の元にもそれは届いた。
目を通すこともなく、受信ボックスに眠っているけれど。
「でもねぇ……。これ、あの教官たちが送るか?」
「想像つかないけど……」
「文化祭が始まるからって言っているから、まあ、そういうお祭りとしては理解できるけどさ」
でも。誰かが言う。
見覚えのないものを摘まみ上げる動作で携帯を持ち上げた彼は、この場にいる者たちの代弁を行った。
「嘘くさくね? 『文化祭の終了まで、髪色を変更した者に成績ポイント付与』だなんてさ」
その言葉を皮切りに、メールの内容について口々と話し出す。
それにはデマに対する嘲りや、面白がる響きすら伝わってくる。
「色によってポイントも変わるんだっけ?」
「そー。黒と茶色が0点。つまり染めてないと加点なしってことだな」
「青とか赤とか緑とか、紫とかピンクもあるけど、それぞれに違う加点ポイントが設定されているみたい」
「白が一番点数高いじゃん! 他と比べても一点、二点の差だけどさ」
「多分、染めるのに大変な順に点数が高い気がする。青はすぐ色落ちるって聞くから、割と高めだし」
「白は大変なのか?」
「きれいに染めるには、色抜かなきゃいけない」
「うわ……」
視線を感じる。
ちら、とバレない程度に目を動かして、教室の様子を確認すると、幾人かがこちらを見ている。
その視線には、羨ましがる温度を感じた。
「一人、染めなくてもいい人がいるなぁ」
「いいなぁ」
その時、教室の扉が勢いよく開く。
大きな音を立てて開かれたそれに、教室内の注目が一気に集まる。
肩を大きく上下させ、息を切らせているのは星羅ちゃん。
扉と壁に両手をついて、教室の外にまで響き渡る大きな声で、驚愕を全面に張り付けて叫んだ。
「い、犬飼先輩と、瑪瑙先輩と……! 苅尾先輩が……!」
息を整え、さらに大きく息を吸う。
先輩たちの名前を呼んだ時とは比べ物にならない大声は、この教室のみならず、左右二教室くらいには響きそうな音量。
彼女はその音量を維持し、報告を叫んだ。
「トップ3が! みんな髪の毛白くなってるんだけど!!」
教室に電流が走る。
なぜ、トップ3がそんな髪色に?
その疑問はやがて、彼らが嘲っていたひとつの存在に行きつく。
まさか、このメールはデマでもなんでもなく、本物だったのではないか。
教室の何人かが立ち上がり、真偽の程を確かめる。
やがて戻ってきた彼らは、口々に囀る。
『事実であった』と。
染まった。
肌でそう感じる。
教室の中に、明らかに先ほどまでとは違う空気が充満していく。
教室の中に形成されていくのは世論。
あのふざけた、デマにも見えるメールが本物であるという世論。
私はその空気の中、こっそりとほくそ笑む。
あのメールこそ、私たちが仕掛けた作戦の一つ。それも、作戦の肝とも呼べる、重要な役割。
(ありがとう。小鳥遊くん!)
昨日、徹夜でメールシステムをハックして、教官たちにバレないように文面を送信した立役者は、今日は体調不良で休んでいる。
体調不良という名の、寝不足だ。今日はゆっくり寝ていてほしい。
教室内の世論が形成され、その形が定まり始めた。
何人かは、早速放課後に行く美容室を探しているようだけれど、そこまでする必要はない。
ほら。教室の外。
「染色剤ー。染色剤の購買ー」
外から、石焼き芋の特徴的な声を真似た、染色剤売りがやって来た。
「赤青緑、紫ピンク。金銀白色、お好きなのー」
声は色味も味もない。
かといって、ロボットのような機械的なものでもない。
聞く者に内容だけを伝え、他の余計な情報は、脳の外に気付かず放られるような。
言葉を変えれば特徴のない声が、購買購買と声を上げ、廊下を粛々と練り歩く。
教室の外、廊下には、たくさんの人が染色剤を求めて群がる。
あの染色剤は、いわゆるパーティーグッズ。
色持ちするようなものではなく、染めてもきちんと洗髪を行えば、一日二日で落ちる代物。
それでいい。
私たちに必要なのは、その一日二日なのだから。
「……あれ、さっきの購買の人、いたか?」
「……そもそもどういう人だったか覚えてないけど……。お前、覚えてる?」
「いやぁ……。男なのか女なのかも覚えてないなぁ」
湧いた違和感。
それはほんの少しの雑談を経て、やがて風化し忘れ去られる、いっときの噂。
不思議がり、やがてその印象が薄れていく人々の後ろをこっそりと通り、私は廊下の影。
バンダナで髪を隠し、配り終えた後の空のトレーを片手にしゃがみ込む、彼へゆっくり近付いた。
「お疲れ様」
彼が顔を上げる。
口角は上がり、その顔には達成感のためか、好戦的な笑みが浮かんでいる。
自然と私の口角も上がる。
彼の目に映る私も、きっと好戦的に笑っている。
高揚した気持ちのまま、彼の名前を呼んだ。
「伊賀くん」
特徴を残さず、誰の印象にも残らず。
染色剤を配り終えた彼は、まさしく忍びの者であった。




