第五十八話 ミッション 5 伊賀平蔵の世界
彼が教室から飛び出して、五分は経っていないと思う。
同じ方向に駆け足で、目的の人物の姿を探す。
「見つけた」
速度を上げて接近。
靴箱の周辺にいた彼の肩を、軽めに叩く。
「もう帰るのでござるか?」
「……伊賀くん」
彼。桔梗院静江は、悩んだ顔をそのままに、苦い顔で振り返る。
「よかったら少し話したいのでござる」
「……小官は、何も話すことなどありません」
ツンとそっぽを向かれてしまった。
肩を竦めた。
彼の肩に乗せた手を、そのまま握る形に変える。
「考え事は、意外と誰かと話した方が、解決策が見つかるものでござるよ」
ぐぅ、と空気を押し出し唸る桔梗院殿。
「それに、拙者は説得に来たんじゃないでござる」
「ならば、なんのために」
「せっかくチームメイトになれたから、困っているときに相談に乗りたいと思う親切心でござるかね」
彼はきゅっと唇を引き結ぶ。
「考えを変えろとは、絶対に言わないと約束するでござる。だけど、少しだけでも話す時間を拙者にいただけないでござるか?」
しばらくの時間、押し黙って考えて、そして。
「……寮の門限までに間に合うのなら」
頷いてくれた。
口元に笑みを浮かべ、力強く頷いた。
「約束するでござるよ」
彼を促し、学食へ。
この時間帯に生徒はまったくいない。
食堂のおばちゃんも既に勤務を終えて帰っている。
(密談には、もってこいの環境でござるな)
ついた席、それからその周辺の机と椅子を裏まで隈無く調べる。
「……何をしておられるので?」
付近の壁も軽く叩き終えた拙者が顔を上げると、不思議そうな顔をした桔梗院殿が覗き込んでいた。
「盗聴器の類が無いかの確認でござる」
「なるほど。そこまで機転が回らず、申し訳ない」
「良いのでござるよ。どちらかといえば忍びとしての癖でござるゆえ」
ようやく席に着いた拙者を見て、桔梗院殿はため息を吐く。
それにはどこか、羨望を含んでおられるようにも感じた。
「伊賀くんが羨ましいです」
「拙者が?」
「以前は、姿をお見かけすることもなく……。きっと隠れ潜み忍んでいたのでしょう。今は、それらを気にすることもなく、堂々と自分らしく振る舞われているように感じます」
普段あれだけ声を張り上げて返答している桔梗院殿は、今はしょんぼり萎れて、声も小さい。
小さいとはいえ、一般的な会話の声量であるため、こうも小さく聞こえるということは、普段の声が大きいことの証左。
「拙者の場合は隠す必要がなくなったからでござるな」
「と、言うと?」
「拙者、伊賀家の家訓の内に、常に忍ぶべし、忍んだ姿を見破られたときは、その者を主君と仰ぐべし。こんなものがあるのでござるよ」
「なんと」
驚いた風に目を見開く桔梗院殿。
やがて、彼はもしかして。と呟く。
「それは、天嶺さんの?」
「左様」
見開いた目が細められる。
眉は寄せ、眉間にシワ。
ずいぶん難しい顔をしている。
「……伊賀くんは、それでいいのでありますか?」
今度はこちらが何故。と問い返す番。
「こんな若い内に、その後の人生を縛られて」
それは問い。
誰への問い。
きっと拙者に見せかけて、己へ問う、自問自答。
桔梗院の名は知っている。
華族の縁戚で、代々お偉方のSPや、警察官僚や、こと防衛にかけて名を馳せる豪傑を生み出している家系。
彼も家のしがらみや何某か、思うところがあったのであろう。
「拙者は、不満を持ったことなどござらぬ」
産まれ落ちて早、十とそろそろ九年を経ようとする今。
とっくに忍びの者として生きる覚悟はできていたし、そこに不安も不満も無かった。
周囲が普通の人間として生を謳歌している様を横目に、影に潜むことも苦痛はなかった。
ただ。
「日の下に、憧れはあったでござるな」
影に潜まず陽の光を浴び、誰かと笑い合いながら歩みを合わせる。
そんな経験し得ない生を、夢想することはあった。
「だから、空殿にはある意味、日の下へ連れ出してもらえたことになるでござるな」
影に潜むことをせず、後ろに控えようとすれば隣を歩けと指示を出し。
普通の人のように扱い、普通の人のように笑い合い、普通の人のように歩くことができる。
これがなんと尊いことよ。
「……まぁ、とはいえ、拙者も相手の迷惑を考えず押し付けていたところはあるでござる」
反省すべき点は多岐に渡る。
早めに気付く事が出来たのは、やはり兄君の言葉があってこそ。
「空殿の兄君に、『相手を困らせてまでするようなものか』と問われてしまいましてな」
あれから、とてもたくさんのことを考えた。
実家の家訓。己の決意。行動。それらすべては、果たして押しつけをしていたのであろうか。などと。
「空殿を主君と仰ぐことをやめるつもりはありませぬ。然し、困らせるほど押しつけるつもりもありませぬ」
苦笑を浮かべ、自嘲しながらも、今後と名を付けた未来への展望を語った。
「今は、友人として傍におりながら、御身守り抜く所存でござるよ」
桔梗院殿は黙り込んでしまった。
彼の視線は机の上。気を紛らわすための何かを差し入れようにも、今はおばちゃんがおらぬゆえ、飲み物を買うこともできない。
「……小官は、己の理念を押し付けていたのでありましょうか」
ポツンと語り始めるのは、桔梗院殿の生い立ち。
「昔から……。そういうところはありました。規則を守ること、それが何よりの秩序維持であると、心の底から信じておりました」
でも。
彼は顔を歪めながら、言葉を吐いては息を吸う。
それは、溺れる者の喘ぎにも似た、ひどく苦しい呼吸音。
「それは、周りの人々には煙たがられていたのでありますな。……石頭ゆえ、今の今まで気付くこともできませんでした」
俯く顔に浮かんだ笑顔は、笑みと呼べるものでなく。
歪んだ弧を描く唇。吊り上がったその目は、今にも一滴、零れ落ちそうなほど震えている。
「……別にいいのではござらぬか?」
「は……?」
上げられた顔、呆け顔。
唖然とした目に笑って、それでもいい。と再度言う。
「そういう堅物も、組織には必要でござるよ」
むしろ、堅物だからこそ規律を重んじる自衛軍には必要と……。つまり?
(むしろ、空殿が不適合でござるか?)
彼女の行動を思い返してみる。
先輩の制止を振り切り敵陣から突き返される。
上の決定を待たずにとんでもない行動を取ろうとする。
破天荒。
その言葉がぴったりくる無法者。
なんてことだ。
我が主君が目指す場所に、そもそも適していない可能性があったとは。
驚愕の事実に言葉を失っていると、目の前から神妙な声。
「小官も、なれるでしょうか」
「誰に?」
「天嶺さんに」
「無理でござろう」
「なぬっ?!」
バッサリ両断。
心底驚いたと言いたげな、これ以上ないほどの驚愕を顔に貼り付け、大袈裟なほどに仰け反った彼に。
「考えてもみてくだされ。空殿を真似できるとお思いか?」
恐らく彼の頭の中には、ぽやーんと呑気で、ぽへっとしてて、なのにいつの間にか好かれる人を増やしている、空殿の顔が浮かんでいるのでござろう。
やがて、喉の奥から堪えた笑い声。
それは段々と大きく大口を開けた哄笑へ変わっていった。
「無理でありますな!」
「そうでござろう?」
可笑しくなって、二人で笑う。
今頃、空殿は、あの教室でクシャミでもしているのであろうか。
そんな想像すら、笑いの種となって仕方がなかった。




