第四十三話 頼まれ事は停滞の中 2
「鬼沢教官。こちらの書類、すべて仕分け完了しました」
箱の中身が全て空になったのは、日もとっぷり暮れた頃。
教官が見ていなければ、甲高い声でも出して大きく伸びをしたいところ。
達成感を抑え込み、鬼沢教官が確認している、その姿を眺めている。
ああ、夕飯間に合うかなぁ。
そんなことを考えながらも、顔は真面目に無表情。
「……ん。ご苦労」
終わった。やったぁ。
ホッとした。同時に、私の腹からきゅうくるる。
「……失礼しました」
鬼沢教官の片眉が上がった。
そうして窓の外を見る。
「……ああ、こんな時間か」
「そこで待っていろ」と私に言い残して、彼はのしのし、簡易キッチンへ。
(鬼沢教官って、料理するんだ)
簡易キッチンから聞こえてくる、規則正しい食材を切る音。何かを炒める音。次いで冷蔵庫を開ける音。
「食え」
机に用意されたのはチャーハン。それから、冷えたプリン。
椅子は多分来客用。
向かい側に鬼沢教官も座るけど、彼は何も用意していない。
「あの、これ」
「食え」
「あ、はい、食べます」
圧が強いんだって、もー。
鬼沢教官の見ている目の前、恐る恐る匙を口に一口。
「美味しい!」
一口食べた。瞬間解けた。
何このチャーハン。パラッパラで香ばしくって。
具材は卵とネギだけ? そんなの関係ない。むしろ他はいらない。そのくらい洗練されたチャーハン。
総評。美味しい。
夢中になって食べていると、正面から視線。
「ほうひまひはは」
「いや。なんでもない」
食い気味じゃないですか。
そう思っても匙を運ぶ手と口は止まらない。だってこんなに美味しい。
「美味っっっっ……しかったです! ごちそうさまでした!」
チャーハン平らげ満面の笑み。
最早入室時の緊張感なんて忘れている。
すると教官。
プリンをずい、と差し出して。
「食え」
「あ、はい、食べます」
はい。食べます。食べますとも。
「うんまぁぁぁ」
こちらのプリンも絶品。
これは甘いものよりしょっぱいもの党、ジュースよりブラックコーヒー派の私もにっこり食べることができる。
プリンと言えば甘いものの代表に選ばれてもおかしくない、言わずと知れた黄色のデザート。
なのに甘さがくどくなくて上品で、カラメルソースも程よい苦さ。
敬語や外面さえ取り繕うこともなく、素のまま感想が零れ出る。
「ん」
「いつの間に」
プリンの余韻を堪能している私の鼻面にマグカップ。
鬼沢教官が使うには些か可愛らしいそれの中身はコーヒー。
見たところ、何も手付かずのブラックコーヒーのように見える。
「砂糖」
「あ、このままでお願いします」
「ん」
うん。ブラックコーヒー。
口の中に残ったプリンの甘さをコーヒーの苦味が攫って洗う。
「至福」
長い幸福なため息。
ここが教官の待機部屋ということを忘れてしまいそうだ。
「すみません、寛いでしまって」
「構わん」
鬼沢教官は簡易キッチンからもうひとつマグカップを持ってくる。
どうやら彼用の飲み物らしい。
(聞いていた話とずいぶん違うな)
確かに声も風貌も怖いけど、今の鬼沢教官は、無口なお父さんのような厳つさのみがあった。
「……甘いものは好きなのか」
突然の問いかけ。
しかも授業やテストの学校のことは関係ない、ただの雑談を振ってきて戸惑う。
「好んで食べるほどではないですね。でも」
誤魔化すほどのものでもないと、包み隠さず正直に話す。
鬼沢教官の顔色は変わらないけど、彼はじっと耳を傾けて聞いている。
「このプリンは、いくらでも食べられそうです!」
戸惑いながらも話した言葉は、紛れもない私の本音。
「……そうか」
外面を取り繕うことも忘れてにっぱり笑う私に、鬼沢教官は目を細めた。
「……そうだ。鬼沢教官。折り入ってお願いしたいことが」
厳しい空気も緊張感も霧散した。
あるのは食後の余韻を楽しんでいる私のゆるい空気だけ。
リラックスしていると、突然用事を思い出す。
鬼沢教官に対してでなくてもいいけど、いらっしゃるから、ダメ元で。
「なんだ」
拒否する姿勢は見受けられない。
それをいいことに、私はずい、と机に乗り出す。
「もしよろしければ文化祭の顧問になっていただけないでしょうか」
突然、だんまり。
鬼沢教官の無言の時間。
音は、彼自身の飲み物を飲む音だけ。
回答を待つだけの時間。
手持ち無沙汰になった私は、部屋の中を見渡してみる。
その中にひとつ、写真があった。
大人の女性と、女の子の。
「……奥様と娘さんですか?」
鬼沢教官が、私の視線を追って写真立てへ目を向ける。
続いて首肯。
「……ああ」
「すごい美人な方ですね。この背景って、もしかして……」
聞いたことのある高校の名前が刻まれた校門。
たしか、夏の野球の大会が強い高校だったと思う。
正直な感想を漏らすと、教官はふいと視線を逸らした。
「もういない」
「……え」
「二人とも。もう、いない」
顔が見えない。
彼が今、何を考えているのかが分からない。
「いなくなったのが、ちょうど娘の高校の文化祭の日だった」
考えていることは分からないけど、瑪瑙先輩が言っていた、鬼沢教官が文化祭の顧問を務めたがらない理由の一片が垣間見えた。
「……文化祭が、苦手ですか」
「……思い出す。極力関わらないようにしていたことは認める」
私の仮説に肯定の回答。
飲み物を飲み干した鬼沢教官が、コーヒーの匂いを含んだ長い吐息を吐き出した。
「かれこれ二十年以上前の話だ」




