序・長食(1)
長食という名の鬼は、生まれてすぐに父の手で殺されかけた。
しかし、それを恨んだことは無い。父は当然のことをしたに過ぎぬからだ。
母の胎内から出た途端、赤子だった彼の右腕は長い胴と大きな顎を持つ龍に姿を変えた。それは以前より小さくなっていたものの父が倒した大妖そのものだったと言う。かつて山の主を名乗り里を苦しめた化生が、赤子を依代にして蘇ったのだ。
龍は出産したばかりで疲れ切っている母の体に巻き付くと、強く締め上げて骨を砕きつつ厭らしい笑みを浮かべた。
『久しいな猟師、忠告を忘れたか? その身を呪ってやると言っておいたではないか。なのに妻を娶り、子まで作るとは戯けたことを。見よ、お前のせいで子は我が依代と化し、女房は苦しみながら息絶えようとしている。可哀想にな、一度も子を抱けぬまま死ぬことになるとは』
「やめろ!」
父は山刀を抜き、必死に突き立てた。けれど鋼より硬い鱗は一枚一枚が別の生き物のように動き、巧みに切っ先を逸らしてしまう。
「放せ!! 放してくれ!」
以前倒した時には入念に準備して挑んだ。罠にかけて動きを鈍らせ、執拗な観察の末に見つけ出した弱点を突き一撃で致命傷を与えた。鬼ごとき芥も同然と侮る、この龍の慢心にも助けられた。
そして当然、万全な装備あっての勝利。山刀一本で再現できようはずも無い。
そんな彼の情けない姿を見た龍は満足げに目を細める。
『安心せい。子を抱くことは叶わずとも、ほれ、こうして息子の腕に抱かれておる。後は早々に終わらせてやるだけだ』
「あ……ぁ……」
大きく顎を開く怪物。今にも息絶えようとしていた母は、より凄惨な結末を予期して大きく目を見開く。自分はただ死ぬのではなく、喰われて死ぬのだと悟った。
しかし父は諦めなかった。彼は視線を下げ、生まれたばかりの子を殺そうと決意する。龍と赤子はまだ繋がっており、依代となっている子を殺せば宿敵も消えるかもしれない。妻を救えるとしたらそれだけ。
――でも遅かった。もっと早く思いついていたのに躊躇ったせいで致命的な遅れが生じた。
あと一歩で間に合わず、龍は母の頭に喰らいつく。そして首の部分から齧り取ると音を立てて咀嚼した。こちらには一片の躊躇も無し。
赤子の首に刃を当て、その姿勢のまま固まった父の絶望と怒り、そして深い後悔と嘆きを見て取ると、そいつはまた嬉しそうに笑った。
『馳走なり』
血肉の味より、自分を討った男の挫折こそ極上の美味。満足した化生は再び赤子の右腕に戻る。
辺り一面血まみれになり、解放された骸は床に倒れる。出産を手伝っていた女たちがようやく我に返り、悲鳴を上げながら逃げ出して行った。
父はしばらくの間、頭を喰われた妻の前に座り込んだ。表情は虚ろで呼吸も浅い。魂が抜けたような有り様だったが、実際にはずっと考え込んでいた。
駆けつけた男衆に引き剥がされるまで、否、引き剥がされてからも彼の葛藤は続いた。殺さねばならぬのか、邪悪な大妖を宿した我が子を始末すべきなのだろうかと。
◇
結局、父は息子を殺せなかった。
『お前は忌み子だ……だとしても、生きる権利はある』
そもそも、殺すことなどできないと彼は語った。本当は何度も試したのかもしれない。幾度もこの身に刃を突き立てたのではないか。
それでも長食は死ななかった。何故なら不死になっていたから。
彼らは鬼である。頭に角が生えていて極めて強靭な肉体を有す。さらにその身には妖力まで宿り、寿命は人間の十倍以上。妖力の扱い方を学べば様々な術も使いこなせるようになる。
そんな鬼が同じ鬼を喰らうと、どうなるか。
こうなるのだ。不死の鬼と化す。
鬼にとっても共食いは禁忌。その禁忌を犯した鬼は穢れ、より恐ろしい生物に変ずる。夜の世界、つまり闇の中にだけ存在する力を読み取り、一体化して操る怪物。
伝承では、その忌まわしきものを『読夜の鬼』と呼ぶ。
読夜の鬼を殺すことはできない。どれだけ刻もうと焼こうと無意味。絶対に殺せない。その肉体は闇に包まれるとたちどころに再生を始める。光を浴びていてさえ再生を阻害されるだけで、けして死ぬことはできない。
一説には禁を犯した者に対する天罰と言われている。不死の体は祝福でなく呪いなのだ。未来永劫苦痛を味わわせるための。
とはいえ、幼かった頃の長食は他と同じく死を恐れていた。だから『生きる権利はある』という父の言葉に愛情を感じた。たとえ本当はどう思われていたのだとしても、彼は父が好きだった。
逆に、父はどうだったのかと時折考える。
だって、やろうと思えばできたはずなのだ。赤子を刻んで山中に撒けばいい。死ぬことのできない子は虫や獣に喰われ、腹の中で再生し、また別の何かの餌になって苦痛を味わう。いつか世が終わる時までその苦しみは続き、罪滅ぼしを繰り返す。
なのに、父は息子をそうしなかった。妻の命を奪った存在を虐げることなく真っ当に育てた。
怒りはあったはずである。こちらを見る時、父の表情はいつも暗く、殺意を押し殺しているように見えた。この長食という名とて、怨敵を宿す子と忘れぬため名付けたのだと父自身から聞いた。
憎まれ恨まれ、にもかかわらず愛してもらえた。だから長食自身は、自分は恵まれていたと思っている。父に育てられた十年あまりの時間、彼はやっぱり幸せだった。
父からは様々なことを教わった。身の守り方。獣の狩り方。食料や薬になる草花の知識。毒を持つものたちの危険性。読み書き。最低限の礼節。
独りでも生きられるようにしてくれたのだと思う。何故なら病んでいたから。あの龍を殺して血を浴びて以来、父は少しずつ蝕まれていた。長食が十になる頃には立って歩くことすらままならない状態。
そして死んだ。死ぬ前に彼は後妻との間に二人目の子を作り、その子の誕生を見届けてから息絶えた。
ただ、祟りによる衰弱死かはわからない。赤子に触れた直後、急に倒れたのである。すぐに駆け寄り確認した時には、すでに事切れていた。あまりに呆気なく、そして唐突な死に様。
――もう一つ、わからないことがある。父が再び子を作った理由。一人目の誕生によって先妻を喪った父が、惨劇を繰り返す可能性を考えなかったはずは無い。
なのに、どうして?
なんにせよ、理由を語る前に父は死んだ。そしてその直後、父の後妻もまた亡くなってしまった。
こちらも何故死んだかはわからない。ただ長食には、子を産むために全てを捧げたように見えた。
実際、大変な難産だった。長食の時のことがあったため出産には彼と父以外の誰も立ち会わず、慣れない男二人に手伝ってもらいながら、あの方は懸命に妹を産み落としたのだ。生来病弱な体で、それでも諦めることなく。
髪が乱れ、肌も土気色になり、出産前の美しさなど見る影も無い。
だが、それでも綺麗な女性だと長食は思った。むしろ、そうまでして新たな命を誕生させた姿に強く胸を打たれた。
そんな彼女の遺言を、いつまで経っても忘れられない。
「妹を……さやを、お願いね」
娘に名付け、義理の息子へ託した。それが彼女の最期の言葉。
長食が泣いたのは、この日の一度きりである。母を喰って読夜の鬼となった彼にも、あの方は優しく接してくれた。年上の女性の、その母性にどう応じるべきかわからず素直に心を開けなかったが、それでも母と思い慕っていたことを喪った後で自覚した。
あの方が好きだった。ずっと自分と妹の傍にいて欲しかった。
そして、彼女との約束を守りたかった。
だが妹とは離れ離れ。あの日以来、顔を見られてすらいない。
父と二人目の母がいなくなった途端、長食は里の大人たちによって捕えられ、洞窟に放り込まれた。里の者は大半がこの親殺しの忌み子を疎んじていたのだ。だから庇い立てする者がいなくなってすぐ、牙を剥いた。
以来、彼は何年も、この場所に囚われ続けている。