蝉は夜に哭く
―8月1日 夏休み、子供がみんな嬉しいと思っている大人は無責任だ。
「その……あれだ、あれ!町内会の寄り合いがあってだな…」
「……そう…」
美紗子はそこで言葉を口にしなくなった。
靴を履く途中だった彰生は、この間にとサッサと出て行ってしまった。
「もう寝るよ」
居間のテーブルに広げていた大学ノートと参考書を閉じた。
「そう……」
母の声を背中で聞きながら、木暮夜詩は自分の寝室へ向かった。
窓を開けて網戸にする。部屋の風が少しは動く感じがするが、それだけでは暑いので扇風機のスイッチを『強』にして点けた。
今日は満月なのか?ほんのりと部屋が明るかった。
「都会よりはマシか…」
丘陵地の裾野付近に広がる新規開拓地の一画。そう聞くと凄く良い立地の住宅地に思えるが、裏手はすぐ雑木林だし駅からは結構遠い。
開発に十分な資金が投入されているのか怪しく、道路も所々まだ舗装されていなかった。
そんな場所に建てられた新築の家へ引っ越してきたのは、つい最近だ。
夜詩の名字が『木暮』になったのもその時だ。
美紗子が再婚を決めた事を夜詩は何とも思っていない。
夜詩にとっては関りをもって生きる必要の無い事柄だ。自分の生死に関与しないものに一々関わっていたら、面倒臭くてそれこそ死んでしまう。
13歳の夜詩は高校を卒業したら働くつもりだった。後、残り5年。それまで何とか自分を養ってくれれば御の字だと思っていた。駄目なら「いつでもおいで」と言ってくれた祖父母の所へ行かせて貰おう。
「へえ、セミって夜でも鳴くんだ?」
裏手の雑木林から聞こえてくる蝉の鳴き声。
昼に鳴きそびれたのか、成虫になる時間が中途半端だったのか?
その精一杯の鳴き声は……夜詩には何故か心地良い子守歌の様だった。
―8月8日 大人が決めた休みなのに、月曜日というだけで僕が嫌味を言われる意味が分からない。
「いくら休みだからって家でボーっとしてないで、スポーツでもしたらどうだ?」
彰生はいつも一言二言、小言を言ってから働きに行く人間だ。
母が何故この男を第二の伴侶に選んだのか。
籍を入れる前に紹介されたのは、たった一回だけだった。
「お母さん、この男性と再婚するわ」
紹介と言うか『宣言』みたいな顔合わせで15分ほどで家族になった男だ。
どんな性格で、何の仕事をしていて、どうして母と知り合ったのか、知らない。
…別に知りたくも無いが。
「夜詩、今日の晩飯は家族で外食しよう!」
「…あ、うん」
朝からご機嫌な彰生は、いつも通り適当なご機嫌取りをしてはドツボに嵌る。
「すまん!急な接待が入ってな!必ず埋め合わせはするから!すまん!」
夜遅く帰って来ては、いつも通り母の前で土下座をしている彰生。
酒臭い息を吐いてはニヤニヤと謝っている。…振りをしている。
夜詩は『こんな大人になりたくないNo.1』を進呈してもいいダメっぷりだ、と思っていた。
「次は大丈夫だから!」
出来もしない言葉を吐く人間は何処にでもいる。
いや、世の中そんな人間ばかりなのかも知れない。
ひょっとすると、既に自分もそんな人間の一人になっているかも…?
自分の部屋に戻った夜詩は窓を開けて、扇風機のスイッチを入れる。
蝉の鳴き声は聞こえてこなかった。
「ちゃんと昼に鳴けたのかな?」
―8月15日 部品が揃っているだけで『幸せ』だと思える奴はそれだけで『幸せ』だ。
今日は夜詩が通う学校の登校日だ。
と言っても夜詩自身が転校したのは夏休み1週間目なので、ほとんど何も無い。
友達も教科書も、制服すらまだ出来上がっていなかった。
「これで良いか?」
前の学校の学ランで学校へ行こうと夜詩は着替え始める。
居間へ降りて行くと母がいた。
「学校へ行ってくるよ」
「…そう。気を付けて」
「うん…」
何とか学校に着いて、うろ覚えの校舎から自分の教室へと入る。
それほど来ないと思っていたが、結構な人数がいた。
(皆そんなに学校好きなのかな?)
「小暮…くん?」
声を掛けられたが、どう答えたモノだろうと夜詩は思案していた。
そんな夜詩の様子を見かねたのか、その少女は別の質問をした。
「制服、まだなんだね?」
「ああ…。うん。……きみは?」
「私、一応学級委員長なの。平山あや。よろしくね、小暮くん」
ああ、なるほど。と納得してしまう程の少女だと夜詩は感じた。
学校という特殊な場が無ければ、夜詩が出会う事は皆無だろう人間がそこには居た。
「こんな時期に転校だと大変だよね。分からない事はいつでも言ってね?」
「…母さんが再婚したから」
「えっ?」
違う、そんな重い言葉をこの少女は期待していない。
夜詩の胸中が後悔で一杯になった。
「あ、ごめん……なさい。そんなつもりじゃ…」
「いや…。僕の方こそ、ごめん…」
希望にしか向かってない様な、こんな幼気な少女に何て事を言うんだ。
夜詩は『自己嫌悪』をその身をもって知った。
「でも、新しい家族が出来て良かったね!」
「…うん、そうだね」
それきり話すことも無く登校日は終わった。
校庭の木々にいるだろう蝉の合唱は、夜詩の耳には五月蠅いだけだった。
―8月23日 世界が僕を中心に廻っていなくても僕の視界は僕を中心にしか見えない。
午後6時30分。
時間的には既に夕方よりは夜に近いが、周囲の気配は未だ夕闇にも程遠い。
参考書を買いに行ったついでに、夜詩は家の近辺を見ながら歩いていた。
「古い、公園?」
古びたジャングルジムと、椅子の付いてないブランコだったらしきモノが見える。
季節がら雑草が伸び放題で放置してあったのだろう、ちょっとしたジャングルだ。
そこに子供の姿は見当たらず、公園としての役目も終えた様な佇まいさえある。
夜詩が引っ越してきた家、分譲地からは歩いて10分ほどの距離だが異国情緒さえ感じる。
公園の残骸、とでも言おうか。
夜詩は持っていたスマホの設定を動画にし、録画しながら公園に入って行った。
「花火の跡がある…」
近くの住民がやったのだろう、手持ち花火の燃えたモノが落ちていた。
元住んでいた所に公園は無かったが、大きな川の近くに家があったので河原に出ては…父親とよく花火をやった記憶が残っていた。
「暑いな…」
呟いて顔を上げたその目線の先に、ジャングルジムにくっ付いて鳴いている大きなクマゼミがいた。
「あ…」
スマホを持った手を向けた瞬間、そのクマゼミは飛んで行ってしまった。
夜詩の周りをぐるっと廻って飛んで、何処かへ行ってしまった。
そのまま蝉の声がする方へ夜詩は少し歩を進めた。
「あ、止まった…」
夜詩が木に向かって歩き出した時、あれほど聞こえた蝉の鳴き声はピタッと止んだ。
自分の行動が蝉の鳴き声を止めてしまったようだ。
「ごめんよ…」
夜詩はスマホをズボンのポケットに仕舞い、サッサと公園から出て行った。
暫くして、何処からともなく蝉の声が聞こえ始めた。
―8月30日 無くなったモノに哀愁を感じる人は残ったモノに希望を感じている。
夏休みも残すところあと一日、明後日からは学校の新学期が始まる。
だからと言って何が変わる訳でもなく、時間は平等に流れていく。
課題、いわゆる夏休みの宿題みたいなものはとっくの昔に終わらせていた。
「行ってみるか」
母の実家は今の家から電車で1時間ほどの町にあった。
一人娘だった母は可愛がられており、その子供である孫の僕も可愛がられていた。
「よう来たね」
祖母はいつも物腰柔らかな老人だった。
老人とは言ってもまだ60を過ぎたばかりで、老け込むには早過ぎる。
ちょうど祖父は畑に出ているみたいだ。
「昼ご飯は食べたのかい?」
「ううん」
「これを食べるといいよ。昨日向かいの小夜ちゃんがさあ、たくさん作ったからってくれたのだけどな…さすがに二人では食べきれなかったから」
「うん、ありがとう」
「温めてあげるからね、ちょっと待っときなさいね」
チラッと見たが、20個はあるだろう。
結構大振りなコロッケが大皿の上に並んでいた。
60を過ぎた老人二人で、この量はホントに無理だろうなと夜詩は思った。
「どうかね、新しい家には慣れたかね?」
「ああ、うん……まあ」
コロッケで腹を満たした夜詩は、祖母が切ってくれたスイカを齧りながら曖昧な言葉を返す。
「いつでも、ここへ来ればええよ」
「そうだね」
畑から帰って来た祖父と野菜に着いた土を洗い流す。
祖父は何も言わずににこにこしているだけだった。
「じゃあ、母さんに連絡しとく」
3人で夕食を済ませた後、泊っていくかと祖母に聞かれたのでそう答えた。
夕食では他愛のない事を少し話しただけだった。
二人ともにこにこしているだけで、あまり夜詩には干渉しなかった。
「セミの鳴き声が近いね?」
まだ外が薄明るい時間だが、祖父と一緒に風呂へ入っている。
窓のすぐ外から聞こえてきた蝉の鳴き声が気になって、何となく聞いてみた。
「よく網戸に張り付いて鳴いとるよ」
「網戸に?そうなんだ」
「少しでも誰かに聞いて貰いたいのかも知れんのう」
蝉の存在意義が何かを考えたことは無いけど、蝉として鳴く時間は相対して短い。
祖父の言葉もそれほど間違ってはいないと夜詩は思った。
その蝉は、夜詩が風呂を出るまでずっと鳴いていた。
―9月1日 結局何だかんだ言っても欲望の具現化したものがこの世の中では常識。
今日から新学期だ。
新しい制服も出来たし、鞄も買った。
「行って来ます」
玄関を出た所と門柱の間に、死んだ蝉が転がっていた。
昨晩鳴いてたヤツだろうか?
アリが集って蝉を自然に返そうとしている。
「お疲れ様」
両手を合わせて夜詩は呟いた。
「さて、行くか」
一呼吸おいて夜詩は立ち上がり、学校へ向かって歩き出した。