5-12.破邪の宣誓
しかし――。
そんなククルゥの期待とは裏腹に、その後に迎える戦局はまったくもって一方的なものとなる。まず男が真っ先に不意を突かれることとなったのは、ゆらりと身を揺らした開戦直後。
「頼むからよぉ、少しは俺を楽しませてくれ。一発で壊れてくれるなよぉ!?」
せめてものそんな嘆願を皮切りに、まずは小手調べからと固めた拳をクラリスの顔面に向かって振り下ろした瞬間のことだ。
振りかぶった勢いは十分、並みの人間であればまずノックアウトは間違いない一撃だというのに。いったい何のつもりなのか、クラリスはその場に突っ立ったまま回避しようともせず。
「……あぁ?」
――ズガン!
そのまま振り下ろした拳の先で、返ってきたのがそんな実に固そうな物音だった。それはおよそ人体から奏でられるはずのない打撃音であり、また肉を殴りつけたような鈍い感触も感じられなくて。
「な……おぉッ……⁉」
気づけば、思わずたじろいでいた男である。相応の威力をもって繰り出したはずの一撃を、なんとクラリスが正面から、頭で受け止めていたからだ。それも身じろぎはおろか、眉一つさえ動かさずに。まるで固い岩盤を殴りつけたような、見かけとかけ離れた重量感と硬質感がそこにあった。
「はっ、こいつはたまげたぜぇ!」
そこで初めて、クラリスに対する男の認識に変化が生じる。てっきり暇つぶしにもならないと思っていたのだが。
「なんだよおい、ちゃんと遊べるんじゃねぇか! 涼しい顔しやがって、なんともありませんってか⁉」
これならもう少しだけ遊べるかもしれないと、興奮気味な高笑いとともに今度は両の拳を握り込んで。
「その余裕がどこまで続くのか、見ものだがなぁ⁉」
続いて繰り出されたのは男から、目にも止まらぬ怒涛のラッシュである。右から、左から、ほぼ闇雲に繰り出した連撃が絶え間なくその細身へと打ち込まれ、その度にガギンゴギンと物々しい破砕音が打ち響いた。
あえて急所を狙わないのは、すぐに終わってしまってはつまらないからだ。いったいどこまで耐えられるのか。徐々に苦しげなものとなっていくだろう相手の面構え、その変化を楽しみたくてギアを少しずつあげていく。
だが――。
なんだ……⁉
いよいよその在り様に違和を覚え始めたのがそのときだ。いくらかなぐり殴りつけても、相手の顔色に一向に変化が見られないのである。体躯の差は火を見るより明らかで、繰り出したすべての拳撃も軒並みクリーンヒットしているというのに。
クラリスは平然と、ただ棒立ちするみたいにしてそこに突っ立っていた。防がれているとか以前に、まるで痛みや衝撃さえ何も感じていないかのようにずっとケロリとしているのだ。それは踏ん張っているでは説明の付かない、物理現象も無視した佇立で――。
「うおおおおおおっ!」
最後に思いっきり頭を殴りつけても、下を向かせることすら叶わない。響いたのはガァンと、相変わらず鋼鉄を殴りつけたような物音ばかりだった。
なにが、どうなってやがる……⁉
ゼェゼェと肩での呼吸を繰り返し、一度冷静となってからそのからくりを見定めようとする男である。しかし、そのときだ。彼にとってもまったく予期しなかったことが起きたのは。クラリスの澄んだ瞳に焦燥する自分の姿が映り込んでしまった、その瞬間のこと。
「ウッ……!?」
気づいたときには男は一足飛びに後ずさり、クラリスから距離を取っていたのである。それは彼自身がまったく予期しない、体が見せた本能的な反射だった。
なんだ、今のは……⁉
ただ目が合っただけだというのに、反応で飛び退いてしまった。今しがた自らが示したその反応の意図を、まだジンジンと響き止まないその拳へと問いかける。そうして男は気付いた。気付かされてしまった。
見下ろした自身の剛腕が鳥肌立ち、足もガクガクと震えだしてしまっている、その言い逃れできない事実に。よもや、恐れたというのか。この俺が。ただ目があったというだけで。あんなガキを相手に――?
そんなバカなと見上げた先で、やはり変わらぬ位置にクラリスは佇んでいた。何食わぬ顔をしていたかと思いきや、その動揺ぶりをひどく楽しむように鼻を鳴らして。
「ひょっとして今、怯えました? 私に」
それは決して、男にとって犯してはならない禁忌だった。どす黒い感情が一挙に溢れ、我を失う。その上背がぼこぼこと波打って肥大し、白目に対して瞳孔の占める割合が極端に小さくなって。
「ふざ、けるなぁああああああああーーーーーーッ!!!」
空に向かって打ち上げたその咆哮に、驚いた野鳥の群れが遠くで一斉に森から飛び立つ。それは理性と引き換えに、ついに男が本気になった瞬間だった。
力に理性を犯され、ほとんど狂戦士状態と化して再び猛進をかけてくる。風を纏うほどにその勢いは荒々しく、実に強靭なものだ。
だが、恐るるに足らないとクラリスはいたって冷静に構えを取り直す。好都合だった。むき出しとなった本能ほど読みやすいものはない。その情動の1つ1つ、粒さな心の揺れまでもがクラリスの心眼には余さず捉えられるのだから。
いま相手の瞳に浮かび上がってくる感情、それは怒りや憤懣、屈辱感ばかりだった。だが微かに恐怖の念や警戒心もクラリスの瞳には透けて捉えられるのである。
微塵でもその感情さえあれば、どんな相手にも必ず余念が生まれる。
それだけ先の動きを捉えやすくなる。
ならばあとはその動きに合わせ、キツイ一撃を見舞ってやればよいだけのこと。彼が禍々しい邪念の持ち主で、放置すれば遠からず理不尽に傷つけられる被害者が必ず出てしまう。
それが自分にしか知りえない事実だからこそ、その判断に迷いはなかった。たとえ彼がよく知らない相手で、表立ってはまだ何の罪も犯していなかったとしても。
ずっと悔しかったのだ。悪意を見定めても何もできず、ただ見て見ぬふりをするしかできなかった己の無力さが。
いつか自分も、あの人のように成りたいと。
ずっと抱き続けていたはずの憧れからは遠ざかるばかりで、ひどい自己嫌悪に陥ることもあった。
けれど、もう違う。
その乖離に苦しむ必要はない。
何の因果か、そうするに必要なだけの力がこの身に備わってくれたから。ならばもう己が信念に則り、この力を存分に振るうだけである。故に固めた拳をグッと自分側に引き寄せ、姿勢を低くするクラリスだった。
その一見して華奢な腕っぷしに込められるのは、これまで見過ごしてきた悪意たちへありったけの恨み節を込めた宣戦布告、そして自身への宣誓である。どうしようもなく無力だった以前までの自分とは、今日で決別するのだと。
もう決して、見過ごしはしない。すべての悪意が消え去る日を望めずとも、その1つでも多くをこの手で砕き、無辜の人々を守るのだと。そしていつか、自分もあの人のように。暗闇のなかで泣いている誰かに手を差し伸べ、その光となれるように――。
そして迎えた決着は、クラリスが拳を繰り出したのとほぼ同時のことになる。いったい何が起きたのか。
「うひぃいいいいいっ!?」
その詳細は咄嗟に頭を引っ込めたククルゥにも不明だ。とにかく光がピカッとなって、轟音なり衝撃波なりがすごくて。ビシビシと飛んでくる礫の気配に、頭を抱えながらワーキャーと悲鳴をあげることで精一杯だった。
それもようやく収まって、恐る恐る再び頭を覗かせてみれば。
「うっそぉ……」
なんとまぁ、森が拓けているではないか。それこそまるで隕石でも落ちたみたいに、クラリスのいる場所から一直線に森が削られているのである。たぶんその終着点で今ごろ、異世界人の殿方が白目を剥いているだろうことは想像に難くない。
「ふぅ」
どこかスッキリしたような面持ちとなりながら、両肘を押し込めているクラリスがそこにいた。




