5-9.勇者
結局、あの男は何者だったのだろう?
とはその夜、クラリスが寝所に入ってからもしばらく考え込んでしまっていたことになる。頭では分かっているのだ。これ以上あのインチキ臭い男について思案しても、得るものは何もない。時間の無駄であるということくらいは。
だがそれでも、完全に振り切ることはなかなかに難しかった。こうして寝つきを阻害される程度には、嫌に印象に残ってしまっていて。
――勇者。
月明りだけが頼りの薄暗い天井を見上げながら、クラリスは彼の口にしたその語彙について想起する。そう呼ばれる存在については、クラリスも耳にしたことくらいはあった。
なんでもこの世界には時おり、俗に『迷宮』と呼ばれる捻じれが発生することがあるらしい。それはいわゆる時空の癌みたいなもので、放っておくとそこを起点として世界の侵蝕が始まってしまうとか何とか。
それを早期発見し、事前に対処することが彼らの役割であると聞かされたのは確かまだ孤児院にいた頃のことである。使徒とか神の軍勢とか、いろいろ呼ばわれ方はあるみたいだけれど。
そんな話が浮上して来ればまぁ、「よっしゃ、じゃー俺も将来は勇者になるぜ!」とすかさずはしゃぎ出す男児が1人くらいいるのも定番である。だがすぐに、こらこらと困り顔でダメ押しが入った。
聞けば、どうやら勇者に成れるのは神からのお告げ――神託を得た者だけと決まっているらしい。その活動も想像するほど華々しいものではなく、基本的には王家に厳重に管理され、あらゆる対処も秘密裏に行われているのだそうだ。
そして極めつけは、彼らが人前に姿を現すことも滅多にないということだった。こんな風説みたいな噂話しか流れてこないのがその証拠でしょ?とトドメをもらい、その意気もあっという間に打ち沈められてしまう男児である。
ともすれば以降、彼らの話題が昇ってくる回数もさほど多くはなかった。勇者の存在なんて、少なくとも自分たち庶民にとってはそんなものなのだ。居るのは確からしいし、影ながら世界の秩序とか安寧とかを守ってくれてるようだけど。
それで自分ごととして捉えられるかと言えば、ちょっと現実的ではない。雲の上か、はたまたおとぎ話でも聞かされているみたいで。なんかそういうすごい人たちがいるんだな、くらいが実直なクラリスの認識だった。
いや、自分だけに限らないのだ。
あんまりと言えば、あんまりなのだろうが……。
『よく分からない』というのがたぶんさほどかけ離れてはいない、彼らに抱く一般市民のイメージなのである。それこそ王都に行けば、また確かな情報が得られるのかも分からないけれど。
ともあれ今朝尋ねてきた男、ウィレクがその勇者の一人などと宣い出すからたまらない。まったくもって、耳を貸す価値もない与太話だと思う。
挙句には自分も勇者に選ばれたなどと言い出すから、これ以上付き合ってられるかとクワをブンブン振り回して追い出しにかかったのが先のことだ。するとウィレクは、それを軽い身のこなしで避けながら続けるのである。
『まぁそういう反応になるのが普通だわな。分かるよ、俺も最初はそうだったし、他の連中も似たり寄ったりだ。だが、これがウソでも冗談でもねぇから困りもんでよ。さて、どうしたもんか』
『何をごちゃごちゃ、とっ!』
あまりにひょいひょい避けられるのでいつしか手加減を忘れ、本気でクワを振り下ろしていたクラリスである。だがその刹那、いったい何が起きたのか。
「え……?」
寸前まで捉えていたはずのウィレクの姿が、そこから消え失せたのである。ドスンと振り下ろしてから、いったいどこに消えたのかと辺りを見渡してみれば。
『やっぱいろいろ、見せちまった方が早そうだよなぁこれ。しゃあねぇ』
やけに遠い声が、あらぬ方向から聞こえてくる。振り返ったところに、彼はいた。緩やかな丘陵のうえに立ち、得意げな表情でこちらを見下ろしている彼、ウィレクの姿がそこにあって。
たったいま何が起きたのか。
分からずに当惑しているクラリスの様子を楽しむように、ウィレクは続ける。
『いったん出直すわ。そのうちまた来ると思うが、そんときゃビックリするもん連れてくるからよ。度肝抜かれる準備だけしておいてくれ』
『ちょ、ちょっと……今どうやって……⁉』
それっきりだった。
『それじゃな』軽快に後ろ手を振ってから、ウィレクは行ってしまう。
手玉に取られたまま逃がしてたまるかと打って変わり、すぐに追跡に乗り出すクラリスだった。だが、いったいどういうことなのか。駆け上がった丘陵のうえ。見晴らしの良い緑の景観のなかに、彼の姿はもうどこにもなかったのである。
終わってみれば、まるで訪ねてきたという事実すらなかったかのように、彼のいた痕跡は何一つとして残っていなかった。ついぞそれが、あらゆる懐疑と得たいの知れない薄気味悪さばかりを残したまま、ウィレクとの別れ際となってしまって――。
結局彼はなんだったのだろうと、薄暗い天井を見上げながらクラリスは考える。また来る、何か連れてくるようなことは言っていたけれど、果たしてあれもどういう意味なのか。
分からないことだらけだった。こんな時に役立つはずの心眼も、どういうわけか機能不全を起こしているし。だが……。寝返りを打ち、そこまででクラリスは考えを打ち切ることにする。
明日も早いのだ、今日はこのくらいにしていい加減休まなければ堪えてしまうと。そのまま目を閉じ、眠りに付こうとしたときだ。
「――――?」
何かただならぬ悪寒のようなものを感じ、バッとその場に起き上がったのは。
「え、なにこれ……?」
まだ遠い。けれどゆっくり、何かがこちらに近づいてきている。そんな予感の告げるまま、月明りに照らされた窓の外を見やる。やがて羽織るものだけ持って、急ぎ自室から出ていくクラリスだった。
◇
いったい何が起きているのか。
この差し迫るような悪寒の根源はなんなのか。
その正体を確かめるべく、急ぎ外に出てきたクラリスである。
いつになく風の強い夜だった。
怯えるような風がザァと草原を波立たせていて、騒めく木々の様子はまるで小さな嵐でも近づいているみたい。
はためく黒髪を押さえながら、身を縮こめるようにしてその強風の中を進み、一瞬バランスを崩しかけるも、最後は寄りかかるようにして何とかデッキに身を預ける。そうして体勢を維持できてからようやく、前方まで視野を広げて。
「なに、あれ……」
そして、クラリスは言葉を失った。
――月下。
遮蔽物のないだだっ広い牧草地のなかに、およそ目にしたこともない異物が佇んでいるのである。目を凝らしてよく見れば、それは人型を模した何かだった。その存在感のない無機質さからして、最初は巨大な石像か何かが置き去られているのかとも見紛う。
だが違った、あれはそんなのではない。音もなく、それは移動しているのだ。それも少しずつではあるが、こちらに向かって近づいてきていて。
「……ッ⁉」
あれはいったい何なのかと、その答えに辺りを付けられないままクラリスの思考が停滞する。まるで長らく投棄されていた協会からでも抜け出してきた、古い女神像か何かのような。
少なくとも、今のクラリスの知見では及びもつかない何かであることだけは確かだった。このまま此処にいてはいけないと、本能的な予覚が告げている。
今すぐにでも逃げ出さなければならない。あれから距離を取るために、一刻も早く動き出さなければいけないのに。気付けば足がすくみ、動けなくなっていて。そんな絶体絶命とも取れる、緊迫した局面のなかで――。
「な? 言った通り、度肝抜かれたろ?」
ふいに差し込まれたのがそんな、ひどく平然とした声だった。
いったい、いつからそこにいたのか。
かろうじて巡らせることのできた足元を見下ろせば、壁に寄りかかる形で見知った黒髪の男が突っ立っている。それも頭の後ろに手を組み、どこか鼻に付くしたり顔までかましている余裕ぶりで。
「あ、なた……は……」
まるで金縛りにあったみたいに、声すらも出しずらくなっている。
そんな苦しげな有様のクラリスを「あーいいって、いいって。無理すんな」手振りで制したのはその男、ウィレクだった。
「悪ぃな、俺もそんなつもりはなかったんだが。手近な奴を適当におびき寄せるつもりでいたら、思いのほか大物が引っかかっちまってよ。耐性がねぇと声を出すのもしんどいだろうから、まぁとりあえずそのまま耳だけ貸しといてくれ」
いったい何の話をしているのかと、そう問い直すこともできないままウィレクは続ける。
「そうだな、まず先に言っておくがアイツをここに呼んだのは俺だ」と、事ここまで来れば予測の範疇と言わざるを得ない、そんな軽々しい自供から。
「つっても、まさかツレってわけじゃねぇぞ? さっきも言った通り、要はアイツは俺の張った罠にまんまとかかった獲物さ。ほら、腹空かせてるやつに焼き魚の臭いをパタパタ―って仰いだら、釣られてやってきちまうだろ? 俺がやったのがつまり、それと同じことだな。あれこれ説明するより、実物を見せちまった方が早いと思ってよ。ちなみにその焼き魚ってのがあんたのことになる。いや、正確にはあんたの内側に宿っちまってる別者のことだが、まぁその辺りはおいおい説明してくとしてだ」
そんなことをグダグダと聞かせてから「よっと」、腰に弾みを付けて前に出るウィレクだった。
「さしものあんたも、これで俺の言うことを信じざるを得なくなったろ? その看破の力が通じなかったとしても」
「…………」
「そうだと信じてまずは、アイツから片づけちまうからよ。とりあえずそこで見ててくれ。ついでにこいつはチュートリアルだ。本当に勇者としてやってくかどうかは別にしても、あんたがこれからどういう奴に狙われて、用心してかなくちゃならないのかくらいは知っといた方がいいだろ。こいつは、その中級編ってとこだ」
そんなことを気だるそうに言いながら後ろ手を振り、ウィレクは呑気に歩いていってしまう。そして――。その宣言通り、彼は程なくしてかの存在を撃破してしまったのだ。
人智を超えた、としか表現しようのない力の数々を、これでもかとクラリスに見せつけて。ともすれば、いよいよ受け止めざるを得なかった。
自らを勇者などと名乗ったその男の言葉には、嘘も虚言もなかったのだと。




