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5-8.心の距離


 ――とまぁ、実はそんな出会いや過去があって今日にいたるクラリスである。


『まずは生活環境を変えて、伸び伸びしたところで暮らすのが一番だよ!』


 そんなアドバイスや口利きもあってこうして農家の養子に迎え入れられる運びとなり、おかげで今ではある程度、その望まぬ恩恵――『看破』の力も制御できるようになっていたのだが。


 今朝がたのことだ、そんなクラリスのもとに見るからに怪しげで不審な一人の男が尋ねてきたのは。声に苛まれることこそなくなったとはいえ、『あまり使わないに越したことはないからね』ともらった忠言に異論はなかったし、そうするように率先して心がけてきたクラリスだ。


 しかしこの状況ではそうも言っていられないだろうと、身の安全を最優先とする判断に迷いはなかった。それが今朝がた、やや距離を挟んだ1度目の対面を果たした直後のことになる。


 プライバシーとかモラルとか色々あるけれど、いずれにせよこの距離ならばさほど深入りもできないだろう。善悪を見極めるためくらいならむしろ丁度よいと、相手の目元付近を注視してみた。ところが――。


「……?」


 あれ、と不思議に思う。断片的でも何かしら見えてくるはずと踏んでいた男の心理が、何も浮かんでこなかったからだ。まるで白紙の紙面を渡されたみたいに、なにも読み取ることができなくて。


 どうして、こんなことは一度もなかったのに。

 いや1度だけあったけれど、まさか……。


 そう訝しんでいる間にも男は1人、グダグダと何か言い訳みたいな独り言を展開し続けている。何を深読みしているのかと、その様を見ていればすぐに考えも改まった。


「なんだか知りませんけど、帰ってください。この牧場のオーナーは今週いっぱい不在ですし、私も仕事がありますので。――では」


 やはり関わらないのが一番と判断で、これ以上の面会を早々に謝絶する。


「いや、用事があるのはあんたの方で」


 その肝心の一言も、クラリスの耳にまったく届いてやしなかった。そして、いま。


「こりゃ仕切り直しだな」


 ワシワシとそのウィレクと名乗った男が煩わしげに、もったりした髪のなかに手を入れている。改めて彼の素性と用向きを知らされ、クラリスはきょとんとするばかりだった。


「――は、勇者……?」



 心の距離、なんて言い回しがある。


 横文字的にはコンフォートゾーンとかいうらしいが、要は相手がどれだけ自分に気を許してくれているか、そのランクや段階を分かりやすく尺度化したものだ。


 陳腐な表現にはなるが、人の心とは難しいものだ。目に見えないからこそ相手との距離感がうまく掴めないこともあって、それで悩んだりやきもきしたり。青春なり恋愛なりを語るには欠かせない、あらゆるヒューマンドラマの原点がそれだ。


 きっとこの先も解明されることはない、人間科学における永遠のテーマで。――とか何とか。青い空に浮かぶ白い雲を見上げながらそんなこじらせたポエムチックなことに想いを巡らせ、はたと現実に立ち返るウィレクである。


 なぜいきなりそんなことを考え出しているのかと言えば、豊富な経験からその答えは既知のことだ。ウィレクは知っている、人類とはそういう愚かしい生き物であることを。


 目を背けたくなる現実に直面したとき、人は哲学に走るのだ。物事を根底から考え直し、見極めようとするのである。そうしてうまく行けば悟りを拓き、また明日からも元気いっぱいにやっていくのであろう。


 悟りってぶっちゃけ諦めなんだよなぁとか。

 そんな根も葉もないことは常思うけれど、ともあれ。


「確かに良い距離で、とは言ったけどよぉ」


 少し前にした自分の発言を悔やみながら、また煩わしげに髪をかきあげるウィレクだった。いや、別に構いやしないのだ。こういう扱いを受けることには、もうさんざ慣れているから。不本意なことだがどうも自分は相手から怪しいとかうさん臭いとか、そういう印象を抱かれ勝ちらしい。


 原因は不明だ。初対面の相手にはなるべく親近感を持たせ、掴みどころのある人柄というものを前面に押し出して接するようにはしているのだが。たぶんその辺りのアピールとか適当に言わせている口が悉く、裏目に出ているのだと思う。


「滲みだす人柄がそうさせるのよ」


 とは以前に同僚から受けた苦言で、今もウィレクの心に深く突き刺さっているのだけれど、さておき。つまるところ、そういうことだ。


 せめて安心して話ができるようにと配慮しての声掛けに、先方の意志表明が容赦なかったのである。歩幅にして10歩分、離れたところでそっぽを向いているクラリスに。


「これはちょっと、さすがに遠すぎやしませんかねぇ」


 手をコネコネしながら、そうご機嫌を伺い立てるウィレクだった。だがそれも仕方のないこと、とはクラリス側の言い分になる。よくよく話を聞いてみれば、彼は自分に用向きがあってここまで訪ねて来たのだそうだ。いったいどういうことかと、改めて耳を傾けてみれば。


『聞いて驚かせるつもりはねぇんだが、そのなんだ……俺がいわゆる勇者ってやつでな』


 やけに歯切れ悪そうにしながら、ウィレクから初めて明かされたのがそんなあられもない肩書きで。


『くだらない』


 真面目に話を聞こうとした自分がバカだったと、その時点で冷然と言い放ち、立ち去ろうとしたクラリスである。だが頼むから話だけでもと食い下がられて、探した妥協点がここだった。


 これだけ不安材料を並べられた後では、これでもまだ足りないくらいだったが仕方ない。さすがにこれ以上遠ざかると物理的に困難だし、それに……。さっきメモ書きを手渡したときに確信したのだ。


 どんなに接近しても、瞳を見つめても、この男からは声を1つも読み取ることができないと。いったい何故なのかと、それだけがクラリスの気がかりだったから。本当はこんな得体の知れない輩、数分だって相手にしたくはないのだけれど。


「それでなんですか、ご用件は。今は休憩時間なので良いですけど、そんなに長くは取れませんよ」

「おー悪ぃな、それじゃまず要件だけ手短に伝えるとくか」


 しかしその数分を割く気さえ、サァーと引いていくことになる。


「あんた、勇者に選ばれちまったんだと」


 もはや耳を貸すだけ無駄と分かりきったそんなことを、笑顔でさらっと言われてしまっては。

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