5-5.最初の日
まるでやせ細った子どもの身体に無尽のコバエがたかり、纏わりついているかのような。
前触れもなく姿を現すなり、自らをこの世界の神などと称したその存在は黒く靄がかった輪郭だけの姿をしていた。まったく、バカげた話だと思う。仮にこんな展開を少しまえに迎えていたなら、相手にもしなかっただろうに。
気分によっては相手が子どもだろうと関係ない、憂さ晴らしにサンドバッグとしていたかもしれない。だが、ことこの後に及んではそんな気も起こらなかった。土壇場で命を拾ったばかりだし、現状がすでに収拾もつかないほど現実離れしていることだって身に染みて分かっている。
今さらそんなものが目の前に現れたところで、さして疑わしいとも思わなかった。何より――。
「ごめんよ、いきなり突拍子もないことを言い出して。驚かせてしまったよね。でも本当のことなんだ、信じてもらえるかな?」
見下ろすほどのその小さな存在からは、身の毛もよだつほどのプレッシャーが放たれていた。その言葉の1つ1つから礫が飛んでくるかのような圧を感じて、男はすぐに直感する。こいつは、マジものだと。
「分かってもらえたようだね、嬉しいよ。信仰心の厚い人は大歓迎さ。長いか短いかはキミ次第だけど、これからよろしくね」
「あ、あぁ……」
どこか引っかかりの残る言葉とは思いつつも、その身体に不釣り合いに長い腕から差し出された握手に男はおずおずと応じるのだった。
その出会いが、今から数日ほどまえのことになる。男はその間、誰もいないこの土地での生活を余儀なくされていた。ゴアファブロンと、後にそう名乗った神が自分の置かれた状況を詳しく話してくれたのだ。
迷い人、次元の穴とよく分からない単語も出てきたが、ひとまずこの世界には他にも神を名乗る存在がいて、その力を分け与えられた『使徒』と呼ばれる輩が各地に散っているらしい。
自分がここに来ることになった経緯なんて正直どうでもいいと、早くも退屈を感じて耳半分に聞き流していた男だったが、冗談では済まされない話が出てきたのはその直後である。
「なにぃっ、強制送還だとぉっ⁉」
眠気も吹っ飛び、素っ頓狂な声をあげた男に「そうなんだよ」とゴアファブロンは続けた。
「厄介なことにそういう道具があってね。ボクラより前にこの世界を牛耳ってた女神がいて、そいつが創ったアイテムなんだけど」
そんな予備情報を踏まえつつ、彼は言うのだ。このまま放っておくといずれその使徒がやってきて、自分を元の世界に強制送還させにくると。
「こないだも一人、キミと同じ世界から男の子を呼んだんだけどねぇ。ボクが接触する前に奴らに見つかっちゃってさ。なんか途中までは良い感じで切り抜けそうだったんだけど、最後は結局ね」
やれやれ風に首を振りながら、シャレにならない顛末を彼は告げる。冗談ではなかった、ここまで来てまた同じところにとんぼ返りさせられる可能性があるだなんて。
「どうすればいい⁉ 冗談じゃねぇぞ、俺はもう向こうに帰りたくなんて」
「うんうん、そうだよね。帰りたくないよね。少なからずそういう人たちを見繕って呼んでるから、そうでなくっちゃボクも困るんだけどさ」
でも簡単なことだよ、とゴアファブロンは言うのだ。
ニタァと歪んだ笑みを顔いっぱいに広げながら。
「力を付ければいいのさ、のこのこやってきた連中をそれこそ返り討ちにできるくらいにね」
そんなやり取りを回想しつつ、薄暗い屋内で男は自分の利き腕を見下ろしている。身体のいたるところにタトゥーを入れている彼だが、そこには掘った覚えのない奇怪な紋様が浮かんでいた。
それはボクからのプレゼントだよ、とは彼の言葉になる。どうやらこれには目暗ましの効果があり、一定時間は他の神や使徒たちから自分の存在が検知されずに済むのだそうだ。その間に力の使い方をマスターしろと、つまりはそういうことらしい。
「大丈夫、連中ときたら生温い奴らばかりだからね。すこーし身体に力を馴染ませる時間さえあれば、キミならひと捻りだよ。ボクにとっても邪魔な連中だから、心置きなくやっちゃっていいよ。それじゃあ、期待してるからね。キミがもし1人目を片づけられたら、また「お祝い」を持って来るよ」
手前勝手にそれだけ言い残すと、彼は姿を消してしまった。もしとか期待してるととか、聞いていればずいぶんな上から目線ではないか。利用されているみたいで気に入らない。
だがその『お祝い』とやらが何なのか、確かめてからでもあれへの評価は遅くないように思った。だから、ひとまずは使われてやることにする。
なんだって構わないのだ。この有り余る力を、溜まりにたまった鬱憤を、晴らさせてくれるというならなんだって。そしていま、待ちわびた時が目前に迫っていることを彼は肌で感じていた。
ほどよく力の馴染んだ今なら分かるのだ。人間離れした速度で、何らかの気配が急速にこちらに近づいてきていることを。加えて今日はゴアファブロンの示した、加護とやらの賞味期限である。ともすれば、もはやウズウズなんて抑えきるはずもない。
せめてサンドバッグくらいには殴りがいのある相手であることを願うばかりだった。獰猛な笑みを吊り上げながら、男はそのときを待つ。そして――。
「――ちゃんと来てくれて良かったぜ」
コッと小さな靴音を響かせ、凛とした人影が眼前に降り立ち。
*
どうして、こんなことになってしまったのか。
思い当たるその答えは大きく2つある。1つは今朝がたに犯してしまった失態に尽きるのだが、もう1つはもっと根本的なところだ。
きっと自分の力や努力などではどうしようもなくて、どうにもならなかった部分。こうしている今でもあまりに現実味がなくて、ずっと夢でも見ているようで。時間さえ止まってしまったかのような、とは少し言い過ぎかもしれないけれど。
だがともあれ、今でも鮮明に思い出せる。あの日からクラリスの日常はすべてが変容してしまったのだ。――自分が勇者に選ばれたなどと、突拍子もない知らせを受けたあの日から。
ときは1か月ほど前まで遡る。
クラリスの朝は早い、それはこの日も同様のことだった。
その頃クラリスが暮らしていたのは、牧畜業を生業とする田舎の農家である。もともとは孤児で協会に拾われたところを、この土地のオーナーが養子に迎え入れてくれたのだ。
親代わりになってくれた人はとても良くしてくれたし、クラリスもその恩に少しでも報いたいとよく働いた。血の繋がりはないし、本当の家族がどういうものなのかもちゃんとは分からない。
烏滸がましいと思われたら嫌だったから、きちんと言葉にしたことはなかったけれど。少なくともクラリスはそこに、迷いなく実家と呼べるだけの温かさを感じていた。
牛たちの世話をするのは楽しかったし、仕事も少しずつ一人で任せてもらえるようになってやりがいもある。それなりに充実した日々を送っていた、ある日のことだ。コンコンと門戸がノックされ、朝食のスープを仕込んでいたクラリスが背を向けたまま「はーい」と応じる。
しかし返事がないまま、しばらく間を置いたあとに続いたのは再びコンコンと無言のノックだった。誰だろうと、クラリスは首を傾げる。取引先の人なら大方クラリスのことは知っているはずだし、時計を見てもまだ午前がたっぷり残っている時間だ。
こんな朝早くに誰が、と考えてみても思い当たる人物はいない。いま出張中の叔父さんも、誰か来るなんて話はしていなかったはずだし……。そうこう訝しんでいるあいだに、三度目のノックが鳴らされる。
だがもしかしたら飛び込み依頼かもしれないと。「はいはーい、いま行きまーす」エプロンで手を拭いながら、急いで応対に向かうクラリスだった。
念のため、護身用に屋内に1つだけ持ち込んであった桑を手にして。ガチャリと、すぐに閉められるように細心の注意を払って外を覗き込む。
「ん……?」
だが結果、そこに訪問者の姿はなかった。
一度閉めて、窓から外を確認しようとしたそのときだ。
「あーおい、閉めないでくれー。こっちだこっちー」
やけに遠くの方から、そんな呼びかけるような声が届いたのは。ここまで来たら仕方ない、叔父さんには申し訳ないけれど……。そんな心苦しさを覚えつつ、スーハーと深呼吸。
蹴飛ばす形で、バンと勢いよくドアを開け放つ。いつでも前に突き出せるように、ランスみたいに構えた桑をぐっと自分側に引き寄せた。
「うん……?」
そして呆気に取られたように、またも首を傾げるクラリスだった。確かにそこに訪問者の姿はあったのだ。だが些かならず奇妙である。なにせ緑の牧草地にぽつねんと、見知らぬ男があぐらで居座っているのだから。
「よっ」
まるで追い詰められて負けを認めた小悪党かなにかのように諸手をあげ、短い挨拶とバツの悪そうなニヘっと笑顔で彼はそこにいた。あるいは営業スマイルのつもりなのかもしれないが、だとすればうさん臭さ満点と言わざるを得ない。
「はい……?」
このやや距離を置いた対面こそが、クラリスとその男――勇者ウィレクとの出会いだった。




