5-4.転移者
道に迷ったときはなるべくその場から動かず、じっとしていること。迷子の備えとして、よくそんな処世訓が引用されている気がする。それに倣い、ひとまずはその場に留まることを選んだクラリスだった。
ちょろちょろと流れる小川の畔で、地面に気持ちのハンカチを敷いての体育座り。行く当てを失くした家出少女みたいな様相になりながら、救援が来るのをじっと待つ。しかし、待てども待てども誰も来ず、何も起こらなかった。
たぶん自分がここに来てから小一時間くらいはもう経っているだろう。ギルドの面々だって、行方不明者が出ていることくらいとっくに気づいている頃合いなのに。この何ともピクニック日和の長閑な景観のなかで、ただ待ちぼうけを食わされるばかりだった。
本当にこのまま此処で、ステイに徹することが正解なのか。だんだんそんな不安に駆られてくるが、他にやりようもなくてため息しか出ない。いや、あるにはあるのだ。なにせ傍らには事の発端である神器――羅針盤が転がっているのだから。
あるいはこれを操作すれば、もと居た座標に還れるのではとも考えた。しかし見るからにメカニックそうなこの機器の、何をどう操作していいのかが分からない。いくつもあるボタンの形は大小さまざまだし、何やらパネルのようなものも取り付けられていて。
そもそも田舎育ちなこともあって、こういった機器類にクラリスは疎いのだ。それが神様仕様ともなれば、当てずっぽうが功を奏するとも思えなかった。よしんば転移術式が発動できたとして、次の行先が深海や大気圏外でない保証がどこにあるのか。
その最悪の可能性に行きつけば、もはや触れる気も起こらない。この先これを弄ることがあったとしても、最後の手段。たとえば飢餓が極限に達したときとかだけにしようと決め、そっとしておくことにする。
「はぁ……」
それで結局、八方ふさがりだった。転移させられたのがちょうど朝食の前だったこともよろしくなくて、キュゥゥとそろそろお腹が切ない窮状を訴え始めている。身銭はない。あったとしても、どうせ使えないので意味もないが。
幸い、目の前にはささやかながら水資源が流れているので、渇きの心配がないことはひとまず安心だった。そうやって1つ1つ、自身の置かれた現状のライフラインを冷静に見極めていく。
なんでこんな無人島シミュレーションみたいなことをやってるんだろうと、とてもメランコリーな気分になりながら。
「無人島……?」
そしてふと浮かんでしまった可能性の1つに、まざまざしい嫌な予感も覚えつつ。そうでないことを切に願い、また同じの問いかけへと気持ちを沈めていくクラリスだった。本当にどうして、こんなことになってしまったのだろうかと。
『――いきなり悪いな。だが怪しいもんじゃねぇからそこは安心してくれ。ほら、何も持ってねぇだろ? 丸腰の手ぇぶらぶらだ』
ふと浮かんだのはとある見知った男の、人を小バカにしたような口ぶりと態度だ。だがクラリスはすぐに瞼を伏せ、始まりかけたその回想を打ち切る。
ここでまたあの日に遡っても、得るものは何もない。それより今すべきことなんて、他にいくらでもあるだろうと。よしと振り払って、頭を切り替えた。とりあえず今夜の暖に備えて、火を起こせるような道具でもこさえておこうか。
もやんもやんとイタズラ書きみたいな、その道具の脳内設計図を思い浮かべてみた、そのときだ。
「――っ⁉」
ふいにクラリスが、あらぬ方向を振り向いたのは。しかしその視線の先には何もなく、ただ長閑な景観が続くばかりである。だがこのとき、クラリスは確信していた。
この先に、誰かいる。それも――。
自分が行かなければならないと、その判断も迅速で迷いはない。
……行けるか?
あまり人目に付くところでは使うなと、レインからは釘を差されていたけれど。ここいらに人気がないことはさんざ確認済み。ぐっと姿勢を低くし、クラリスはクラウチングスタートの体勢を取る。そして――。
「せーのっ!」
弾みをつけてから、地面を蹴って飛び出した。その勢いたるや発破された砲弾のごとく。大きく弧を描いて、森1つを丸ごと飛び越えてしまう。こうしていったい何が起きているのかも分からないまま、勇者クラリスは現場へと急行するのだった。
*
時はそこから少しだけ遡る。
そこは森の奥にひっそりと佇む、薄暗い廃墟のなかだ。随分まえには軍の拠点として使われていたコンクリート造りの建物なのだが、長いこと放棄され、ジメジメと湿気の溜まった室内には不衛生なカビやコケの臭いが充満している。
雨風に晒されるまま自然の侵蝕も進みつつあり、もう長いこと人の出入りがないことは明らかだった。――そんな荒廃した場所に、彼はいた。
「くそが、なんだって俺がこんなことを……!」
積まれた鉄材のうえにベンチがてら陣取り、んがーと開いた口のなかに今しがた見つけた乾パンをざーっと流し込む。そのままバリバリと乱暴にかみ砕きながら、憤懣を吐き捨てているのは1人のずんぐりとした体躯の荒くれ者だった。
彼は本来この世界に在るはずの存在ではない、別の世界の住人だ。そんな彼がこの土地に足を踏み入れたのがつい数日前のことになる。ちょっとしたオイタをしてしまい、お国さまを騒がせることになったお尋ね者なのだが。
逃亡している最中に何が起こったのか、気付いたらこの見知らぬ森の中にいたのだ。最初は気が動転して、とても理解なんて追いつかなかった。だが闇雲に森のなかを彷徨ううち、見たこともない動植物をいくつも見かけて、とある可能性が浮かんでくる。
そんなバカなことあるわけがと途中で何度も振り払った。しかしそれが決定的となったのは直後、命の危機に瀕したときだ。行く手の茂みから、見たこともない巨獣が現れたのである。見かけは犀に近いが、いろいろと人智とかけ離れたフォルムをしていた。
「ぐ、ぅおおおっ!」
食われる、殺される……!
自然界における圧倒的な上位者、決して逃れえぬ終わりをもたらす捕食者をまえに、生まれて初めて本物の『死』を覚悟したときだ。――彼の中でスッと何かが切り替わったのは。今となっては本能とでも表現すべきものなのだろうか。
いたって自然な成り行きで、とある着想が彼の中に生まれたのだ。いや、目覚めた。何をどうすればよいのか、力の在処とその使い方を根本的に脳が理解していた。そして次に気づいたとき、圧倒的な脅威だったはずの捕食者はその頭蓋を致命的に砕かれ、その場で息絶えていて。
「へっ……はははっ!」
今しがた自分の身に何が起きたのか分からない混乱と、命が助かったという実感。その両方がないまぜとなって、たちまちこみ上げてきた笑いはそう簡単に止まらなかった。こいつはいいと、額に手をやりながら腹を捩る。笑い転げる。もはや疑いの余地はない。
この冗談みたいな展開は紛れもない現実だ。力を手にし、追ってくる奴ももういない。あのクソみたいな生活ともこれでおさらばだと。考えれば考えるほど、面白くて仕方がなかった。
「天国かよ、ここは……!」
そして解放感に満たされるまま大の字になって、地面から空を見上げていたときだ。
「――やぁ、気に入ってもらえたようで良かったよ」
いつからそこにいたのか。程なくしてこの世界の神などとほざいた、黒く靄のかかった子どもの輪郭が、三日月の笑みを浮かべながらそう声をかけてきたのは。




