5-3.置き去られた羅針盤
――さて。
ここに1人、迷子の勇者がいる。いやいや、どういうことだよ。おかしいだろ、いろいろと。たちまちそんなツッコミの飛んできそうな、なかなかにインパクトのある描写ではなかろうか。だが紛れもない事実なのだから仕方ない。
大人だって時には涙を流すことだってあるだろう、それと同じだ。勇者だって、たまには迷子になることもあるのだ。そう開き直ってみたはいいけれど、やっぱり惨めさは拭いきれなくて。
「何やってるんだろ、私……」
ちょろちょろと流れる小川の畔で、はぁとため息を零したのはクラリスだった。どうしてこんなことになったのか。暇つぶしに反省会をさんざ繰り返しても、その答えは見つからないままだ。だいたい、どこまで遡れば良いのかもよく分からない。
今朝がたに侵してしまった失態に尽きるのか、はたまたひと月ほどまえに自分が勇者だと知らされたあの日にまで遡及すれば良いのか。ひとまず、前者として省みるならこんな感じだ。
クラリスの実家は王都から遠く離れた辺境にあり、牧畜業を生業とする農家である。孤児だったところを協会に拾われ、それから養子に迎えられたとそんな経緯になるのだがともかく、クラリスの朝は早かった。
身心に沁みついた生活サイクル、完成された体内時計は寸分の狂いもなく毎日決まった時間に彼女を目覚めさせる。それは今朝がたも同じことで、お天道様が昇り、小鳥がさえずり始めるより少しまえにクラリスはパッチと覚醒を迎えていた。
たとえ季節柄シャっと開いたカーテンの外がまだ薄暗くても、あと5分~などと蕩けたりはしない。風紀や規範を是とするクラリスにとって、怠惰や自堕落とはもっとも迂遠で、徹底的に己の内から廃されるべきものだ。
そんな信念もあれば、この1日でもっとも活力に溢れている時間に何もしないなんて、それこそ考えられないことだった。
「――っす」
故に彼女は今日も窓の外に向かってから、肘を押し込むようにして己に喝を入れるのである。人の目があろうがなかろうが、畳に足を踏み入れるまえには必ずお辞儀から入る柔術の輩のように。それが勇者になってからも変わらない、クラリスの1日の始まり方だった。
その後の流れも、まぁ大体はいつも通りのことになる。ジャージに着替えてから外に出て、もはや音響がなくてもこなせるようになってしまったラジオ体操でえいえいと準備体操をする。
それから定番になりつつあるルートで軽い走り込みをし、付近をぐるっと一周してから帰ってきた。がらっと変容してしまった生活環境のなかで、それがクラリスの構築しつつある新たな日常だった。
牛たちの世話をしていたころを懐かしくも思うが、無い物ねだりをしても仕方ない。そう割り切り、あまり考えないようにするためにも必要な儀式だった。
そうして朝のルーティンを一通りこなしてから、やってきたのが問題のシーンである。シャワーを浴びて汗を流してから、無人のギルド受付を横切ろうとしたときのことだ。
「――?」
ふいに意識の端に引っかかるものを覚えて、クラリスははたと足を止める。かつてこの建物は冒険者ギルドだったとのことで、隣のフロアには酒場も併設されているのだが。見ればいくつも並んでいる卓の1つに、何やら見慣れない物体が置き去られていた。
――いや、見たことはあった。
目を凝らしてよく確かめてから、クラリスはそう見解を改める。なにせその円盤的な形状と、プラチナ材質の光沢にはしごく見覚えがあったからだ。
「これって確か――」
リガリオン、とかいう名前の神器だったように思う。こないだノアの開いた『神さま直伝、新米勇者チュートリアル!』でさらっと紹介されていたことを、そろそろと近づきながら思い出した。
神器、それは神由来の力が宿っているというアイテム群の総称だ。その機能や形状はさまざまで、武器だったり本だったり車椅子だったり色々あるらしい。リガリオンもその1つで、すなわち『羅針盤』である。
空間や座標に干渉できる神器で、あとは次元の壁と異世界人がどうたらみたいな話も聞かされた気がする。そこは話が異次元過ぎて、とてもでないが付いていけなかったけれど。
ともあれ、ふむんとそこでクラリスは首を傾げる。神器の有する力はどれも強力で、扱いを誤ったり、悪しきものの手に渡れば大変なことになるといたく深刻げな雰囲気でノアは語っていたはずだ。
それがなぜセキュリティ意識の欠片もなさそうなこんなところに、まるで片づけ忘れたみたいにほっぽり出されているのだろうかと。しげしげと見つめながら思索を重ねてみるも、有力そうな明解なんて得られなかった。
だが、まぁいいかとすぐに関心も失せる。まさか本当に置き忘れているわけもなし、何も問題がないからそこにあるのだろうと。それこそ相手は神なのだから、その一計が人智をもって推し量れるはずもない。
人の分際では過ぎた懸案だった。ついでに言えば、触れぬ神に祟りなしである。あれこれとそんな帰結を経て、踵を返しかけた。そのときだ。
「――え?」
返したばかりの足が、また咄嗟に止まる。なぜだろうか、今しがた誰かに呼び止められたような気がしたのだ。リンと、銀鈴を鳴らしたような微かな鈴なりが耳の奥へと届いて。
それが決して気のせいではないような予感があって、気付けばクラリスは再び振り返っていた。そこにあったのは、やはり銀製の羅針盤だ。磨き上げられたばかりのように白銀の輝きを放つそれが、異様な存在感を放ってそこに鎮座している。
そのときの自分が果たして何を思い、どうしてそんなことをしてしまったのか、今のクラリスには分からない。ただその光に魅せられるまま、たぶんほとんど無意識のうちに手を伸ばしてしまっていて。トンと冷ややかな感触が指先に触れ、我に返ったときにはもう遅かった。
「あっ……!」
眩いまでの青白い光とともに、何やら複雑怪奇な紋様の魔法陣が起動し、包まれて――。それで気づいたときには、此処にいたというわけだ。
いったい何が起きたのか、それを悟るまでにさほど時間はかからない。なにせ直前に触れた神器が空間転移を可能にするアイテムとは事前に聞かされていたし、もろとも転移してきたのか当の羅針盤も足元に転がっていたのだから。
「…………」
それを真顔で見下ろす空白が数秒か、数十秒だったのかは定かではない。昔から感情が顔に出にくい質だし、もっと笑いなさいとかいつも怒ってるみたいだぞとか言われたこともあるけれど。
このときばかりはサーっと顔から血の気が引き、フルフルと無言の震えと戦慄を禁じ得なくなるクラリスだった。




