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1-3.イベント発生?

さぁ、いまこの瞬間こそが始まりだ。


 この先、きっと何十年、いや何百年と語り継がれることになるだろう平木尚太の異世界冒険譚が、まさに今、この場所から幕を開けるのである。そんな十分な意気込みとともに満を持して、記念すべき第一歩を踏み出そうとした、そのときだった。


「今ちょっとよろしいですかねええええっ!?」


 いきなり耳元近くで、そんな大声を張り上げられたのは。


「うわああああっ!?」


 驚いてたまらず飛び退き、負けないくらいの大声で叫び返してしまうナオタである。今度はいったい、何事だというのか。耳をかばいながらぎょっと振り向けば、そこにいたのは見知らぬ少女だった。


「え?」


 互いに見つめ合いながら沈黙を挟むこと、数秒。


「どうも、こんにちは!」


 にっこりと人当たりの良さそうな笑顔で、先にそんな挨拶をくれたのは少女の方だった。パチパチと目を瞬いてから、次にきょろきょろと、ナオタはひと通り付近を見回してみる。


 見るにたぶんこの辺りは、普段からもそれなりに人通りの多いスポットなのだろう。心なしか自分のいる周りだけは、妙にそれが疎らとなっているような気もするけれど。


 だがまぁこの際、そんなことはどうでもいいのだ。なにせ肝心なのは、いま自分と少女の周りには、他に誰もいないという事実を確かめておくことなのだから。


 だって、そうだろう。そこさえしかと押さえておけば、今しがたの挨拶が他ならぬ自分に向けられたものだということが確定する。すなわち、知らない女の子に笑顔で手を振られて、振り返したら、後ろにいるまったくべつの相手への挨拶だったという事案に怯える必要がなくなるのである。


 それはナオタがもといた世界で身に着けた、心の衛生を保つためには欠かせない、大事なリスクヘッジ精神だった。だが、それでも一抹の不安まで拭い切ることはできない。


 だからナオタは念を押して、最終確認まで重ねておくことにした。

 自分を指差して、おずおずと。


「えっと、僕に言ってるのかな?」


 尋ねると、少女はまたにっこり笑顔で答えた。


「はい、もちろんあなたに言っていますよ。というか、どう見ても他に誰もいないですよね」


 ナオタがようやく安堵の息を付けたのは、そこまで明確な言質を取ってから、やっとのことだった。だがそれも仕方のないことだ。知らない誰かと、それも同年代くらいの女の子と挨拶を交わすだなんて、いつぶりのことか知れなかったのだから。


 長いこと日陰の青春を送ってきたナオタにとって、それはとても敷居の高い、高度な対人コミニケーションスキルと称して差し支えのないものだった。


 でも、そこの安全確認さえ取れてしまえば、こっちのものだ。もう恐れるものはなにもない。すっかり意気地を取り戻したナオタの思考はたちまち、それは目まぐるしい勢いで再回転を始めていた。


 見知らない、初対面の女の子が突然話しかけてきた。

 どうしてだ? だって、そんなのおかしいではないか。


 なにせ自分は、ついさっきこの世界に転移してきたばかりの異世界人である。知り合いはおろか、面識のある相手すら一人としていない。


 それなのに、どうしてこの少女は自分からナオタに声をかけてきたのか。

 道を尋ねたい、という口ぶりでもなさそうだし。

 だとすれば――。


 うぬぬと唸って次の瞬間、ナオタの脳裏に迸ったのは電撃的な閃きだ。


「そうか、わかったぞ!」


 その我ながら冴え渡った思考力と、すべてが腑に落ちた痛快さのままに、パチンと指弾きを決めてから宣言する。


「もしかして君はいま、何かとても困っていることがあるんじゃないかな!?」

「はい?」


 唐突なダウトを受け、一瞬キョトンとしながら困惑気味に聞き返す少女。しかし、そんな相手の反応に露ほども気づかず、ナオタの脳内ではまた、きっとこうに違いないと推考が凄まじい勢いで組みあがっていた。


 つまるところ、これはあれだ。

 この世界に来て最初となる、イベントの発生というやつに違いない。


 きっとこの少女はいま、何かとてつもなく大きなトラブルを抱えているのだ。だから誰でもいいから、とにかく助けを求めて声をかけてきたのだろう。すると当然、次の疑問はどうしてその誰かに自分が選ばれたのか、だが。


 はっきり言って、それは考えるだけ無駄なことだ。だって、考えてみれば当たり前のことだろう。そうでなければ、物語そのものが進まなくなってしまうのだから。


 むしろ、こうして異世界転移までして、いつまでも何も起こらなかったら、そっちの方が不自然ではないか。そう、何も難しいことではないのだ。自分がこの世界に来たその瞬間から、もう世界は自分を中心にして回り始めているのだから。


 わーはっはっは!


 声には出さず、心の中だけで高笑いをする。それから抑え切れない興奮のままに、ナオタは少女に食い気味となって畳みかけた。


「もしそうならさ、何でも言ってみてよ! 安心して、僕が必ず力になってあげるからさ!」


 かくして、ナオタは握り拳を胸にやり、自信たっぷりにその答えを待つ。なんでも来いだった。ちなみにそのあいだにも、ナオタの脳内ではあらゆる方向に向かって、物語が広がっていく。


 一方で――。


「は、はぁ……」


 少女の受け答えはと言えば、それは気のない曖昧なものだった。なにせ、展開がよくわかっていなかったのだ。いったいどうして、用向きがあってこちらから出向いた初対面の相手に、いきなり近ごろの悩みを聞かれなければならないのか。それも、だいぶ前のめりにだ。よくわからない。


 よくわからないけれど、ここでおざなりな態度を取ってしまえば、この後に控える本来の要件にも支障をきたすのではと懸念があった。いやいやそれはダメだと、少女は即座に心の中で首を振る。そちらの話こそ円滑に進めるためにも、このファーストコンタクトで関係をこじらせるわけにはいかなかった。


 ともすれば、ここは余計なツッコミはせず、聞かれたことに素直に答えておくのが吉だ。そんな現場判断があってから、少女は安全策をとって応じる。


「悩んでいることですか? うーん、そうですねぇ」


 腕を組み、分かりやすく考え込むポーズをとってから、それらしい間を挟んで答えた。


「――さしあたって、給料が低いことですかね?」


 人差し指を立てながら、笑顔でそう、きっぱりと。


「へっ?」

「なにぶん、仕事量に対して対価がまったく見合ってないと、常日頃から思っていますから」


 あんまり自然にそんな答えを寄こされたものだから、今度ふいを突かれたのはナオタの方である。思わず聞き返すのだが、あろうことに少女の回答はまだそれでちっとも終わってなどいなかった。


「あと、お休みも少ないですよね。今日も仕事、明日も仕事、あさっても明々後日も、次の日も。えっ、うそ。その次の日もじゃないですか。うわぁ、もうため息が出ますよね。ついていけないですよ、本当に」

「あの、えっと……」

「毎月のようにノルマを課せられて胃が痛いですし、もし達成できないと上司から反省文の提出を求められます。ボーナスにだって響くんですよ。ひどくないですか?」

「……」

「それからオフの緊急呼び出しとかも、極力やめてほしいです。職柄、仕方ないこととはわかっていますが、心が休まりません。福利厚生もいまいちです。もっと充実させて然るべきだと思います。税金も頭おかしいんじゃないかってくらい高いですし」


 そんな感じに、質問への答えをブツクサと、指折り数えながらあげていく少女である。対して返す言葉を失ったナオタは、ただただ唖然とし、立ち尽くすばかりだった。


「あとはそうですねぇ。あぁ……」


 何やら思いついたような顔つきになって、少女がその最後の指を折り曲げるまでは。


「昨日の今日で寿命が1日、減ったことですかね?」

「ちょっと待ったぁ!」


 そこが我慢の限界だった。


「えっ、どうかしました?」

「えっ、どうかしました?じゃないよ! いま言ってたのほとんど全部、ただの仕事のグチじゃないか!?」

「ええ、そうですけど。だって、あなたが言ったんじゃないですか。困っていることがあったら、何でも話してって」

「そうだけど、意味が全然違うよ! 僕が聞きたかったのは、もっとこう差し迫ったことさ!」

「差し迫ったこと、と言いますと?」

「そりゃたとえば、悪いやつから追われてるから助けてほしいとか、街に魔物の大群が迫ってるから力を貸してくれとか! まぁそこまでじゃなくても、すごく大事なものを落としちゃって探すのを手伝って欲しいとか! そういうのだよ!」

「はぁ、なるほど。べつにありませんけども」

「ないぃッ!?」

「はい、ないですね。仮にあったとしてもよっぽどのことじゃなければ自分で対処すると思いますよ」

「どうなってるんだー!?」


 期待していた展開と違いすぎて、頭を抱えながらグワーとなるナオタである。だが少女のほうにしろ、少年がいったいなにを憂いているのかなんて知る由もない。終始、経緯がまったく読めずに、ハテと首を傾げるばかりだった。


 だが、それもほどなくして落ち着いたらしい。


「じゃあ君はいったい、どうして僕に声をかけてきたんだ?」


 ハァハァと息を切らしながら少年からのそんな問いかけに、少女はふぅと安堵の息をつく。これでようやく、本題に入れると。


「では、アイスブレイクはこのくらいにしてですね」


 すると少女は手持ちのショルダーバッグの中身をガサゴソと漁り、中から何かを取り出す。


「じつは私、こういう者になりまして」


 やがて差し出されたのは、1枚の名刺だった。



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