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2-3.森の少女


 ククルゥが森の西側に入っていくのを見届けてから間もなくのこと。ギニエットもまた、すぐさま行動を開始していた。本当であればすぐに再開するつもりだった店の片付けもすべてほっぽり出して、店の裏口から外へと飛び出したのだ。


 そうして向かったのは、ククルゥが入っていったのとは反対方向にあたる森の東側である。着替える間も惜しんでカフェユニフォームのまま、ギニエットはたちまちその中を駆けだしていた。


 彼はひどく焦っていた。だってもう、時間が無いからだ。こうなった以上、一刻も早くこの土地を離れる必要が出てきたからである。だから何としてでも、ククルゥより先に見つけ出す必要があった。だってそうでなければ、この先に待ち受けている結末は――。


「くそっ、なんでこんなときに……!」


 走りながら、思わず零してしまった悪態にギニエットは歯噛みする。あと少しだって早く出発できていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。そう思うと、悔しくてたまらなかった。だが、泣きべそをかいている場合ではない。滲みかかった涙を袖で拭って、ギニエットはキッと前を向いた。そして走りながら、声を張り上げる。


「どこにいるんだーっ! 出てきてくれーっ!」


 本当はこの森のどこかに隠れているだろうあの子に向けて、その懸命なまでの叫びを。


「ドリーッ!!!」



 ギニエットがそれと出会ったのは、遡ること数週間前のことである。いつか海の見える綺麗な場所に、自分の店を構えたい。かねてから抱いていたそんな夢を叶えるため、この日もギニエットは午後から森のなかに入っていた。


 その主な目的は、薬草や鉱石、獣の糞といった自然物の採集である。世間的にはギニエットも、もう十分に壮年と言える年齢に差し掛かってきてはいるが、老人ばかりのこの村からすればまだまだ若い働き手だ。


 もうなかなか足腰が立たなくなってきている村人たちに代わって山に入り、採って来たそれらを彼らに分け与える。一方でギニエットもその対価として、もう誰も使っていないコテージを無償で貸してもらったり、村で採れた新鮮な食材なんかも分けてもらったりして。


 そうして構築したウィンウィンな関係のなかで、料理の研究を重ねていく。それこそ朝から晩まで、ときには寝る間も惜しんで。この村に来てからというもの、それがギニエットの送っていた日常だった。


 大変だったが、苦に思うようなことは何もない。少し前までは現役の冒険者だったという経歴も幸いしていた。引退したのは体力的な厳しさを感じてのことだが、さすがにこの程度の山道でヘバるほどではない。


 曲がりなりにも薬草の知識やサバイバルの心得だって持っていたから。多少のことならどうにか凌げるだろうと自信もあって、何かと足取りも軽かった。


「あはは、僕もまだまだ現役でいけたかな~!」


 少なくとも、そんな軽口を叩けるくらいには。何も気負うことなく、好きなことに没頭できる毎日。それはとても充実していて、楽しくて。ギニエットが心のどこかでずっと待ち望んでいた生活、その実現だったのである。


 だが、そんなある日のこと。山道を歩きながら、ギニエットが考え耽っていたのは、新作メニューのレシピのことだった。顎を摘まみ、あれをこうしてとブツブツ呟きながら、頭の中でその構想を練っていく。それがあまりに夢中になってしまっていたものだから、気づくのが遅れてしまった。


「――グルルルル」


 いつの間にか行く手の道のど真ん中に、体長にして2メートルくらいのクマが、牙をむき出しにして待ち構えていたことに。


 途端に、ギニエットの思考は停止する。

 あるぅ日、森のなか、クマさんに、出会った♪


 遠い異郷より伝わったという、そんなキャッチ―なフレーズが頭に浮かびかけるも、いやいやいやとすぐに振り払う。さすがにそんな場合ではないと、本能が訴えていた。この状況はちょっと、いくらなんでもマズすぎる。


 なにせ距離が近すぎるのだ。相手がその気になれば、一足飛びで詰められてしまうほどの間合いしかない。そこまで気づきもせず、自分からノコノコ近づいていってしまった自分の迂闊さも信じられないが。


 ――どうする……?


 一度深く息をつき、なるべく冷静さを取り繕いながらギニエットは考える。いったいどうすれば、この絶体絶命の窮地を切り抜けることができるだろうかと。


 目くらまし用の手投げ弾であれば胸ポケットに常備しているし、背負ったザックを漁れば予備もいくつか出てくる。武器も小型ナイフやピッケルくらいのものだが、まったく無いわけではない。だがここまで相手のテリトリーに踏み込んでしまっている以上、なるべくこちらから不用意な動きは避けたかった。


「できればこのまま、引き下がってもらえると嬉しいんだけどな」


 祈るような気持ちで、そんな独り言も苦々しく呟いてはみる。だが残念ながらそれも、聞き入れてはもらえないらしかった。


「グオオオオーッ!」


 たちまち咆哮を打ち上げ、その巨体をもって突進をかけてくるクマである。いよいよ本気となった野性の猛獣を相手に、まさか走って逃げ切れるわけもなし。こうなっては仕方がないと半歩引き、一か八か迎撃に打って出るギニエットだった。


 胸元のホルダーに手をかけ、取り出したのはスティック型の閃光弾である。あとはそのノックを押して、相手に向かって投げつければよかった。それで怯んで逃げかえってくれれば良し。ダメでも、次の武器を取り出すくらいの時間は稼げるはずだと。


 冒険者時代に何度も繰り返した、実に単純な動作のはずだった。だがそこであろうことか、ギニエットは致命的なミスを犯してしまう。投げ付けようと振りかぶったところで、なんとそれがスルリと拳の間をすり抜け、背後に取り落としてしまったのだ。


 カンと乾いた音とともに、足元に落ちたそれがあらぬ方向に跳ねて。

 それが、命取りだった。


「しまっ――」

「グァアアアッ!」


 体勢を立て直すだけの猶予なんてない。弱肉強食の摂理と厳しい自然界の掟は、そんな慈悲を哀れな獲物に決して与えない。そして振り下ろされる爪撃が、ギニエットを容赦なく引き裂こうとしていた、そのときである。


「あいーっ!」


 そんな腰の据わらない掛け声とともに――。猛突してくるクマと丸腰のギニエットとの間に、横合いからピョンと、何やら小さな影が飛び込んできたのは。


 いったい何事かと、一瞬だけ気を取られる。だがそれも刹那のことだった。瞬間、ギニエットの見舞われた衝撃がいかばかりだったことか知れない。自分の目をひどく疑ったものだった。なにせ飛び込んできたそれが、まだほんの数歳と見える子どもだったのだから。


 緑色のボサボサの髪に落ち葉やら小枝やらをひっかけて、服とも呼べないようなボロ布を纏った、靴も履いていない女の子である。それが自分にその小さな背中を向けて、迫りくる猛獣のまえに――。


 訳が分からなかった。

 分からないけれど、気づいたときには身体だけが咄嗟に動いてしまっていて。


「う、ぉおおおおーーッ!!!」


 なけなしの叫び声をあげながら、無我夢中になって走り出す。

 あの子を守らなければと、その一心だった。


 そしてまったく思いもよらないことが起きたのは、次の瞬間のこと。


『ガァアアアアアアアアーーーーーーーーッ!』


 稲妻でも落ちたのかと思った。だがそうではない。それは少女が思いっきり張り上げた、耳を劈くほどの大絶叫だった。間違っても、ただの大きな叫び声とかそんな次元のものではないのだ。それこそ大地や森そのものさえも鳴動させるような、身心も竦みあがるほどの大咆哮で。


 そんなものを正面から浴びさせられたものだから、ひとたまりもなかったのだろう。甲高い鳴き声とともにクマは一目散に逃げだし、森の奥へと帰っていくのだった。


「ええっと、今のは……?」


 状況に理解が追いつかず、腰を抜かしたまま動けないギニエットである。とりあえず命は拾ったようだが、何が起きたのかも分からないのでイマイチその実感も薄い。ただただ呆然、悄然とするばかりだった。


 すると少女は何を思ったか、そんなギニエットのもとにペタペタと裸足で近づいてきて、興味深げにその顔を覗き込んでくる。それはもう近すぎるくらいに近くから、じぃーっと。ついでにスンスンと鼻も鳴らして。そして――。


「な、なにかな……?」

「あいっ!」


 そんな、よく分からない掛け声とともに。

 戸惑うギニエットをよそに、少女は無邪気に笑いかけてくるのだった。


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