1-10.レイン
キラキラと、無数の淡い燐光が空間に舞い落ちる。
床に展開されていた魔法陣もやがて消え去り、そのすべてを見送り終えたとき、室内に残されたのはククルゥ1人だけとなっていた。直前まで一緒にいたはずの誰かは、もういない。目の届く範囲にも、この世界のどこにも。
彼は行ってしまった。ククルゥも知らない、此処とは異なる世界へ。あとはその旅の無事を祈るばかりだが。それも程なくして、もたらされる。プシュー、そんな音とともに蒸気と熱を吐き出したのは手元のリガリオンだった。
ガチャガチャとまた奇怪な動きで組み変わるなり、やがて元の円盤型へと戻り、その機能を完全に停止させる。それはこのアイテムに内蔵されたすべての術式が正常に実行され、また完了したことを報せる合図だった。
つまりは彼が次元の壁を超え、無事にもとの世界へ帰っていったであろうことを意味していて。はぁと、それを見たククルゥはようやくと安堵の息を零す。それは実にあらゆる意味合いのこもった安堵だったが、多くは自分向けのものだ。そして――。
「よかったぁあああ……」
心の底から湧き上がったそんな吐露とともに、その場にヘナヘナとくず折れる。それは同時にこの度、自らに降りかかった不運を嘆くものでもあった。
かつてない危機だったのだ、本当に。異世界人の送還だなんて年に1度あるかないかのヘチョイ仕事はちゃっちゃと終わらせて、余った時間をのびのびホビータイムに当ててやろう。いよっし今日はラッキーデーだぜ、なんて軽いノリで向かったらどうだろう。まさか、あんな少年が異能に目覚めていようとは。
完全に油断していた。こういうことがあるから、異世界人との接触はなるべく最低限に留めるようにと規律があるのは分かっていたが。そんなの滅多に引き当てるものではないと、ほぼほぼ無警戒で挑んだことが仇となった。
想像するだにゾッとする。途中で精霊たちが起こしてくれたから良かったものを、そうでなかったら今ごろどうなっていたことか。単独で事態を納めることは難しくなっていただろうし、ともすれば相応の処分も下されたはずだ。
減給、ボーナスカット、始末書、懲罰ペナルティ。そんな恐ろしい戦慄ワードたちが、次々とククルゥの脳裏を過ぎっていく。さすがに笑えなかった。多少の失敗ならいつものことだが、今回のこれは気の緩みでは効かないほどのやらかしである。
結果オーライで済ませるには、渡った橋が危なすぎた。奇跡なのだ、いま何も起こらずに済んでいることが。本当に、あと一歩かそこらで破滅するところだった。ともすれば、ホッと一息なんてついていられない。九死に一生とか、首の皮一枚とか、とにかくヒシヒシすぎる実感でいっぱいである。故に――。
「本当に、笑えないですよぉ……」
オロオロとそんな慄きとともに、顔を覆うようにして天を仰ぐククルゥだった。嘆きやら自省やら、切実な感情がない交ぜとなり、うわーんと泣きそうになりながら頭を抱える。
忸怩の思いとか立つ瀬がないとか、そんな改悟から来るものではない。ただひたすらに、あったかもしれない恐怖のイフに耐えかねてのものだった。だって仕方ないではないか。そうでもしていなければ、とても押さえ切れない。この心のざわつく感じは、どうにも。これはそういう類の衝動なのだ。
構いやしなかった。どうせ誰に聞かれるものでもなし。せっかく部屋に一人きりなのだから、ここは思い切り叫んで、気の済むまで発散に努めよう。さすればいずれ、心の安寧も戻ってくることだろうから。いや戻ってこいと、半ば躍起になりながらククルゥはジタバタし、呻いていた。だからこそ予想外だった。
「――いや、そうでもないぞ?」
あるはずのない返事があって、ガッタン。ククルゥはすぐ後ろにあった部屋の壁に、張り付く形で激突する。後ずさろうにも後ずされず、何かを放り投げたようなポーズのままギョッと目を見開いて硬直し、目のまえを凝視した。
そこにいたのは、1人のククルゥにとってよく見知った人物だった。薄く黄色がかった髪をカールさせ、優雅な居ずまいで車椅子に腰かけている1人の少女。いや、女の子と言った方が相応しいだろうか。
なにせ、ぱっと見の外見年齢がそのくらいなのだ。せいぜいが10歳かそこらの、まだ母親と手を繋いでいたってなんらおかしくないくらいの子どもである。ただでさえ肌の色が白いのに、似た色合いのドレスなんてものを纏っているからなのか。その容姿から伝わる印象は、どこまでも華奢で薄弱そうなそれとなっていた。
そう、見かけはどこまでもただの子どもなのだ。車椅子に乗っている辺り、あるいはスタッフの目を盗んで病院から抜け出してきたのではないかと不安さえ覚えるほどの、見るからに病弱そうな幼女である。仮に1人で街なかをうろつこうものなら、昼夜を問わず補導されることは間違いないだろう。
――だが、侮ることなかれ。ククルゥはよく知っている。彼女の本質が、そんな愛らしい外見にちっともそぐうものではないことを。なにせ、付き合いが長いのだ。ククルゥがギルドに属することになったその日から、ずっと変わらない。
毎年、微妙組み変わる組織図を見ては、またかと肩を落とす。そんな調子で、かれこれもう何年目になるのか。そう、ずっと変わらないのだ。
『刮目せよっ! これがワシが熟慮に熟慮を重ねて考案した、今年の組織図じゃぞ!!!』
毎年ギルドに招集したメンバーのまえで神さまがデデンと発表し、見つけた自分の名前を上に辿っていく。するといつだって、そこにあるのは彼女の名前なのである。
「レインさんっ?!」
「私は存外、楽しめたがな」
いったいいつからそこにいたのか。驚愕を露わにするククルゥだが、一方でその名を呼ばれたレインの反応はいたって冷静で、沈着としたものだった。年頃にそぐわぬ無味な表情を湛えたまま、呆気に取られているククルゥをただ静かに見据えている。早い話がその幼女、レインこそがククルゥの直属の上司だったりした。
同時に、ククルゥの頭にはクエスチョンマークが溢れる。
いったいどうして、彼女がここにいるのかと。
「どうしたんですか……! なんでレインさんがここに……!?」
「ノアだ」
疑問をそのまま口にしたところ、間髪入れずに返ってきた答えがそれだ。たったの一言だが、それでもククルゥには十分だった。なにせそれは、我らが元締め的な存在にあたる神さまの名前なのだから。そして、レインの説明は淡々と続けられる。
「さっき奴から連絡があってな。急ぎの用だと言うから仕方なく聞いてみれば、おまえが精神汚染を受けたかもしれないと言う。異世界人の送還に向かったとは聞いていたから、まさかと思いこうして駆けつけてきたわけだが」
そこで一度、説明を区切りゆっくりと室内を見回すレインである。そのあいだ壁に張り付いたまま、ククルゥは気が気でなかった。チラと横目で時計を確認してみれば、時刻はまだククルゥがナオタと接触してから半刻ほどしか経っていない。アクシデント発生から考えれば経過時間はもっと短いはずだ。
にも関わらず、現にレインはこうして駆けつけてきているわけで。まずはそのギルドとしての組織力の高さに、素直に驚かされた。問題を検知してからすぐさまエスカレーションし、ホールドにかかる。その動きの迅速さたるやである。
普段は事務手続き1つでさえ、何週間も放置されてからやっとのくせに。どうしてこんなときばかり早いのかと、そう毒づかずにはいられない。呪わしくさえ思った。だって、おかげでまたこんなピンチではないか。
ひとしきり悶々を発散し終えたら、とにもかくにもいったん切り替え、ククルゥはすぐさま小人たちを騒動員し、あらゆる証拠の隠滅に乗り出す腹積もりだった。アリバイを作り、辻褄の合う言い訳を考え、どうやったら今回の失態をもみ消せるか、万全の策を講じるつもりでいたのだ。それが、こんなに早く現場検証に入られたのではどうしようもないではないか。
だから為す術もなく、ククルゥはただひたすらに祈った。どうかこのときだけレインがポンコツになって、何にも気づきませんようにと。ゆっくりと室内を見回し、フムリと頷くレイン。そんな彼女を、固唾をのんで心臓をバクバクいわせながらククルゥが見守っている。緊迫の時が流れた。そして――。
「とくに変わった様子も無さそうだな。異世界人の姿も見えないようだが……。杞憂だった、ということでいいのか? これは」
はてと首を傾げながら、下されたのはそんな疑問形の審判だった。瞬間、ククルゥの心にパァと晴れ間が差し込む。身心が一気に軽くなり、ウフフアハハとラッパを吹くキューピットたちと共にたちまち天にも昇る気持ちに包まれた。最大の難所を突破。ともすれば、後は畳みかけるだけのこと。
「えっ、えええええーっ???! なんですかそれ、そんなことがあったんですか!?? えっ、精神汚染!? 私がですか!? いやいや、ないですよそんなこと! だってもう、何にも問題なんてありませんでしたから! ええと、つい30分くらい前ですかね? 異世界人の方ならちゃんと見つけましたよ! たぶん私より少し年下くらいの男の子で、ちょっと混乱している様子はありましたけど、状況もろもろ説明したらちゃんと分かってくれました! それはもう、ひどくホッとされている様子でしたよ! あとはもうマニュアル通りですね! 記憶も含めて全部まるっと消去されますって辺りの話もちゃんとしてから、元の世界に返してあげました! 確かにちょっと名残惜しそうにはしてましたけど、最後は手を振ってお別れです! トラブルなんて1つも無くて、もう万事オッケーって感じで――」
手振り身振りを交えつつ、嬉々としてそんな報告を述べるククルゥである。だが――。
「あれ……?」
途端に、冷静になった。何かが引っかかったのだ。その何かが何なのか、その心当たりにはすぐに行きついて、ハタと立ち止まってからよく考えてみる。
「楽しめた……?」
それはさっき、レインがこのやり取りの始まる冒頭辺りでしれっと口にしていたコメントだ。そのときは驚きの方が大きくて、ちゃんと拾いきることができなかったのだが。そういえばまだ、これの意味が判然としていない気がする。
何となく嫌な予感がした。その予感の告げるまま、ククルゥはふとレインを見上げてみる。すると、どうだろう。彼女は笑っているではないか。いや、ほくそ笑んでいると言った方が適当かもしれない。
それが答えで良いんだなと、すべてを見透かしたうえで尚も試すように。ほぅ気づいたかと、関心を示しつつもその努力をあざ笑うかのように。そんなどこまでも意地の悪い薄笑みを向けてきていて。壮絶に、嫌な予感がした。
「あの、レインさん。つかぬことをお聞きするのですが……」
「ほぅ、なんだ? 言ってみろ」
優雅に頷いてみせたレインに、ククルゥはおずおずと伺い立てる。
「その、さっき仰っていた楽しめたというのは、どういった意味合いで……?」
そーっと問いかけも途中で切り、あとは相手の反応を伺うに徹した。そうして、沈黙が流れる。流れたのち、案の定というべきか。「ふっ」
レインは笑った。今度こそ決定的に、しかも鼻で。その言葉を待っていたぞと言わんばかりの、それは悪魔の笑みだった。
「あぁなんだ、そのことか。いやなに、そんな報告を受けてしまった後ではなかなか切り出しにくいところではあるのだがな」
面白そうに言いながら、レインが手を振る。すると彼女の背後からふよふよと宙に浮いて現れたのは、人の手首から先の形をしたマジックハンドだ。
細かいところは割愛するが、その手首はレインが腰かけている車椅子にあらかじめ搭載された機能の1つだったりする。車椅子生活を余儀なくされ、なにかと不自由を強いられることの多いレインの生活において、それは文字通り手の――あるいはそれ以上の役割を果たしている便利な代物だった。
まぁそれは置いておいて。そのマジックハンドがククルゥに運んできたのは、なにやら薄い紙っぺらのようなものだ。見るに、それは1枚の写真だった。建物の外側にアングルを取り、どこかの一室を激写している。
それすなわち、窓ガラスのまえに立った誰かを、また別の誰かが後ろからヒシと抱きしめているところで。ブゥーと、そんなものを見せられれば吹きださずにはいられなかった。
「ななな、なんですかこれはああああーっ!??」
すかさず写真をひったくり、顔を真っ赤にして叫ぶ。
言わずもがな、そこに写っていたのがナオタとククルゥだったからだ。
「いやいや、さしもの私もこれには度肝を抜かれた」
そんなククルゥをよそに、レインは悠々と続ける。
「かわいい部下に万が一のことがあってはならないと、足を急がせてみればどうだ。見つけたのは異世界人の少年に肩を貸し、2人仲良くこの建物のなかへと入っていくお前たちの姿だった。そこで私は大いに首を傾げたものだ。知っての通り、我々から異世界人への必要以上の接触は原則として禁じられている。にも関わらず、なぜおまえが先導する形でかの少年を密室へ連れ込んでいくのかと。脅されているようにも見えなかったしな」
「……えっ?」
その時点でもう、ククルゥの思考は止まっていた。
しかしレインは構わずに続ける。
「いったいどうしたのかと、その時点ですぐに割って入ってもよかった。だがそこで私はぐっとこらえ、少し様子を見てみることにしたのだ。おまえのことだ、きっとなにかやむを得ない事情があってのことなのだろうと。上司として、部下の現場判断を信じることにしたわけだ。いつでも突入できる体勢は整えつつ、その後も私は注意深くおまえたちの監視を続けていたよ。片時も目を離さず、固唾をのんで見守っていたさ」
するとずっと出番を待っていたかのように、そのときレインの背後からいくつもの小さな影がシュンシュンと飛び出してくる。そのどれもが彼女の操作する追加のマジックハンドらであり、またあらゆる角度やタイミングで撮られたショットの数々もしかと手にしていて。
「その結果、手にしたスクープがこれだ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいレインさん! これにはだいぶ大きな誤解がムグゥ……!」
これはまずいと、慌てて待ったをかけようとしたククルゥである。だがそれもすかさず顔めがけて飛び掛かってきたマジックハンドの1つによって塞がれてしまった。
「むおおおおおーーっ!!!?」
ジタバタと床にもがきながら、顔に張り付いたマジックハンドと格闘する。そんなククルゥを尻目に、悠々と続きを再開するレインだった。
「いやしかし、これには本当に驚かされた。まずおまえがこういったことに興味があったということもそうだが、さらなる驚愕はそのやり口の姑息さに尽きる。なるほどな、考えたものだ。確かにターゲットに異世界人を選べば何かと足は付かないし、証拠も残りづらいだろう。しかも彼らの多くは見知らぬ土地に飛ばされたばかりで恐慌状態に陥っている。無事にもとの世界に還すことと引き換えにすれば、誰も逆らえないというわけだ。こんな目下の少年ともなれば、なおさらだろうな」
「もごおおおおおっー!!!」
「やれやれ、呆れを通り越してもはや感服ものだ。よくもまぁこれで何も問題なかったなどとぬけぬけ言えたものだ。まったく、虚しくなる。まさか信頼を置いていた部下からこんな形で裏切られる日が来ようとはな。私の監督不行き届きもあるとはいえ、情けない。確かにやむに已まれぬ事情ではあったのかもしれないが、何というか……。もう少しやりようはなかったのか? 超えてはならない一線、分別というものがあるだろうに」
「ぬもぉおおおおおおー!!!」
「あぁ、本当に残念でならない。ならないよ、ククルゥ。私はな、君を信じていたのだ。たとえ自分の部下が職務中に淫行を働いていたと、こんな決定的な場面に出くわしてもまだどこかで希望を捨てきれずにいた。なにせ、もしおまえが私の受けた第一報の通り、あの少年から精神干渉を受けていたというなら、あるいはまだ解釈の余地もあったからな。いっそ、そうであってほしいと願ってすらいた。……だがそうか、違うのか。ならばもう、私から言うことは何もあるまい。ただただ私は、己の無力を悔やむばかりだ。あぁ、本当にやりきれない。やりきれないな、友よ。――とまぁ、現場入りした私の見立てと独白はそんなところになるわけだが、一応さいごに聞いておこう」
するとそこでレインの口調がやけにケロリとなって、マジックハンドのさるぐつわが外される。格闘の末に力尽き、もはや叫ぶことすら諦めて床に伏すばかりとなっていたククルゥの口元から、カポっと。
「なにか言い分はあるか? 被告人」
「謝ります。謝りますから、もう本当のことを話させてください……」
息も絶え絶えとなりながら、ククルゥは懇願する。どうせもう最初から、なにもかも分かっていたのであろう彼女に。すべては無駄な抵抗だったのだと、カックリ頭を垂れて、諦めながら。




