1-01.この理不尽な世界で、それでも強く生きていく
NTR《寝取られ》・・・かつて覇権を争い恋愛ジャンルたちがしのぎを削った時代、他ジャンルを恐れさせ陰謀によって滅ぼされたキューピッドたちがいた。彼ら寝取られ軍は最後まで戦いこの世界から消えることになる。しかし、覇権となったJK×サラリーマン帝国は恐れていた。戦争の最中、突如として消えた寝取られ十傑衆、彼らが復讐を果たしに来ることを。
時は経ち、平和な時代、ある一人の恋のキューピッドが寝取られに目覚める。今、本当の寝取られを知る者は少ない。
神の力により暴力が消え去り、代わりに恋愛の巧拙こそが貴ばれる世界、ノルスディア。
こんな世界だからこそ、恋愛を司る天使はいつも大忙しだ。
「ぴゅぃぃぃぃいぃぃ」
キュートな唇で調子はずれの口笛を吹いているのは、見目愛らしいまるで赤ちゃんに翼が生えたかのような姿のキューピッド、純粋無垢を具現化した存在、つまりワイや。
この一人称が少し独特な天使はごく一般的な恋のキューピッド。ただちょっとだけ他のキューピッドとは恋愛に対する価値観が違う。まあ、この多様な価値観が尊ばれる時代でそんなものは些細な問題だ。
キューピッドとして重要なのは自分の仕事にやりがいを持てるかだ。やりがいとはつまり仕事を楽しめているかということだ。
彼はいつも自分の仕事を振り返り確認している。仕事に誇りを持ち、その仕事で人々を笑顔にできたか? 他人だけじゃなく自分も笑顔で仕事をできているか? やりがいこそが仕事を楽しくさせる。
だからこそ彼はいつも胸を張って言う。この仕事はワイの天職や、と。
君たちも言えるだろうか? 彼のようにこの仕事こそ生涯をかける価値があると。
「さーて今日も担当相手の彼女を寝取らせますかねっと」
キューピッドは長年愛用してきた弓に矢をつがえると標的に向かって力強く弦を引く。
迷いは一切ない。
なぜならその弓は人を傷つけるためにあるわけではないからだ。ピンクのハートマークの矢は人の心にときめきを与え幸せにするためにあるのだから。
今、眼前に狙いを定めているのは汚らしいおっさんだ。だがその見た目に反して瞳は透明な誠実さを宿している。きっと彼の人生には報われぬ数々の不運があったのだろう。そうして、なにからも見捨てられ今は落ちぶれた境遇を囲っているのだろう。それでも彼の瞳からは人を信じる輝きが失われてはいない。
まあ、ワイにとってはおっさんの内面などどうでもええ、その外見こそが重要や。
「ええぞ、おっさん。キミに決めた」
限界まで引き絞った弓の弦が震える。緊張ではなく期待からだ。キューピッドの頭の中では既にある光景が広がっている。
彼が担当する貴族の長男坊が世間を舐め腐ったいつものイケメン顔を絶望で歪めている。貴族のボンボンの目の前ではこの前、100本のバラと100編の詩文でついに射止めた髪の毛グルグル巻の令嬢と汚いおっさんが仲睦まじくしているのだ。
ワイは別に担当のクソガキに何も思うところはないんや。いや、ここは正直に告白する。あいつには才能を感じる。ああいったプライドの高い手合は得てして内面に煮えたぎるマゾヒズムを秘めているもんなんや。ワイ独自の統計調査がそう言っとるんやから間違いない。
つまりワイはあいつの秘められたあいつ自身も気付いていない本当の望みをあいつの代わりに実現してやるだけなんや。これはあいつを担当している恋のキューピッドとして全く恥じることのない真っ当な役割や。
心のなかで言い訳が終わったところでキューピッドは弓から矢を放つ。鷹が獲物を刈り取る一瞬のように矢が空気を切り裂く。最早、熟練の域に達したその弓の腕は誤ることなくおっさんの心臓を射止めた。勿論、キューピッドの矢で人が死ぬことはない。また担当以外の人間にはキューピッドの矢が見えることもない。
だからあのおっさんは今自分に何が起こっているのか分からないだろう。しかし、すぐに気づくはずだ。これは誰しもが経験したことがある感情なのだから。
そう、おっさんは今、恋に落ちている。
◇
「お前ふざけるなよ! 何度目だ! 何度、俺様の彼女を寝取らせるんだ! お前、お前ふざけてるだろ、俺様を怒らせてふざけてるだろ!」
おかしい。なぜかは分からないがキューピッドが担当する貴族の御曹司は大層ご立腹のようだ、きっちり彼の彼女をおっさんに寝取らせているというのに。
このキューピッドの腕にかかれば成功は間違いない話でそれをことさらに誇るような野暮なことは勿論していない。貴族のクソガキが自ずから気付くのにまかせていた。
敢えて言及する必要などないだろうが、しかし寝取られについてまだ入り口に立ったばかりの人々のために言おう。
彼女を寝取られたことに気づく、その瞬間こそが至高なのだからだ。
疑惑、楽観、妄信、焦燥、そこからの絶望。誰かに教えられるのではなく自分で気づく瞬間こそが寝取られの醍醐味だからだ。
『もしかして、いやまさか、でも、いや俺は信じる、でももしかしたら』その心の変遷と募る焦燥こそが最高のスパイスだからだ。
そして疾る鼓動を抑えつつパンドラの箱を開け絶頂へと至る。一度経験すればやめられない。だからこそ、キューピッドはただ黙って担当相手が気づくのを待っていた。
しかしなぜかクソガキは一瞬で気付いてしまった。
「お前、あの矢、あれお前だろ、何度目だよお前、このハゲ―!」
「ハゲは関係ないやろ!」
なんやこいつ。人として、人として言っていい事と悪いことがあるやろ。人を傷つけてはいけませんってがっこの先生から教わったやろ。
「こ、この髪型はキューピッドの標準やからな。決してハゲてるわけやないからな。あと前髪あるからハゲちゃうわ」
「うるさい、このハゲ。もうお前はクビだ、無能。俺様の恋路の邪魔をもうするな!」
「はっ、そんなん、こっちから願い下げや。お前、いづれお前、後悔するからな。ワイみたいに寝取らせやってくれるキューピッドなんて他におらへんからな」
「お前みたいなやつ、二人といてたまるか!」
「はん! お前、今に見てろや! ワイは寝取られで世界を救ってみせるんやからなあ!」
元担当相手の捨て台詞など翼の一振りで払い落とすとキューピッドは空へと飛び立つ。
これは追い出されたんやない、自分から出ていくんや。栄光ある孤立や。
◇
「まったくこれだから人間は、ワイみたいな高尚な天使の言うことを聞いとけばえーのに、ほんま」
キューピッドは天界に戻ると雲の上に聳え立つ城へと向かった。
この城は天界に住む天使たちにとっての役所みたいなところだ。勿論、職安の役割もかねている。ここでキューピッドは自分の担当相手を割り振られるのだ。
そんな城の一階にあるキューピッド専用の受付にたどり着くとすぐに用件を伝えた。
「すまんな。音楽性の違いで担当先とケンカしたんで、次の奴、見繕ってや。今度はもっと真面目で誠実な奴がえーのー。そういう奴のほうが燃えるんや」
「……」
「どないした? そんな怖い顔して。キューピッドのキュートな顔が台無しやで」
受付のキューピッドは赤ん坊のような桜色の頬とどんぐりのような目元に似つかわしくない梅干みたいな表情でこちらを見ている。
「仕事っちゅーのは、もっとエンジョイせなあかんで。やりがいがない仕事なんて―――」
「あなた、クビです」
仕事に対する姿勢を謳ったありがたい格言を遮り受付のキューピッドが言う。その言葉は全く予想していなかったもので理解が遅れた。
「ふぁ? どういうことや? いや冗談にしてもおもろくないで」
「苦情がですねぇ、来てるんですよ。あなたが担当した人間から、毎回」
「それは、人間にはワイら天使の考えは深すぎてよう分からんのや。寝取られるんが恋愛の醍醐味やって分からんのや」
「いや、寝取られは胸糞悪いだけでしょう。寝取られが好きとか人格破綻してますよ」
「なんやそれ、差別やろそんなん。役所で差別とか、ヘイトや! ヘイトクライムやで!」
精一杯この不条理を世間に訴える。今、天使がそれぞれ持つ個性が、権利が、踏みにじられようとしている。ちょっと他人とは違うからと、理解できないからと、それだけの理由で。
歴史がそういった差別を過ちだと証明したのに、また愚かにも繰り返されようとしている。
皆聞いてくれ、そしてどうか、この悲劇を止めてくれ。
「うわ、寝取られ民だって」
「まずいよ。目、合わせたら寝取られ菌がうつっちゃうよ」
「えんがっちょ」
「寝取られとか気持ち悪いからやめてほしいよね」
「なんかあの天使、前髪薄くない?」
ハゲは関係ないやろ!
「ハ、ハゲは個性やろが! お前ら調子ぶっこいてるとなあ、熊さんけしかけたるからなあ! 二匹の熊さんにがぶがぶしてもらうからなあ!」
最悪や。天界は本当は地獄やったんや。差別がまかり通る、この世の地獄やったんや。
「もうこないなところにいてられるか、ワイは抜けさせてもらう」
あいつら、後悔しても遅いからな。あとでワイの才能に気付いて戻ってきてくれっちゅーて土下座しても絶対に戻ってなんてやらへんからな。絶対そのうち神様が鬱勃起の良さに気付いて、そうなってから手のひら返ししても、もう遅いんやからな。
キューピッドは今、力強く堕天を決意した。
今日からワイは堕天使、ハゲンティや。
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