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 アデルちゃんは不機嫌なとき、床を蹴りつけるように歩くくせがある。だから靴音を聞けば、彼女の現在の機嫌がおおむね掴める。

 夕方、わたしのごはんを用意しに来たアデルちゃんの靴音は、不機嫌なときのそれだった。

 少し荒っぽくドアが開かれた。アデルちゃんは、どうあがいても拭えない苛立ちをうっとうしがっているみたいに、あからさまに顔をしかめている。いつもとは違って、ほうきとちりとりを手にしている。

 わたしと目が合うと、聞こえよがしにため息をついた。ため息。それも不機嫌なときのサインの一つだ。

 アデルちゃんは、いつもどおりの手順でわたしのごはんを準備すると、ほうきで床を掃きはじめた。

「掃除をすることに気乗りがしていませんよ」という、無言のメッセージを発信しているかのような、いかにも気怠そうな手の動かしかただ。糸くずや、かたまりになったほこりなど、目立つゴミだけがちりとりにおさめられていて、小さなゴミは無視されている。

 ほうきが床を撫でるたびに、風に吹かれた雪のようにほこりが舞う。白くぼやけるせいで、アデルちゃんの顔は不機嫌なだけではなくて、疲れているようにも見える。

 今日という一日も、残すところあと四分の一。だけど、アデルちゃんにはまだたくさんの仕事が残っている。体力的にも精神的にも、一日でいちばんつらい時間帯だと思う。だけど、仕事の疲れだけが原因なのだろうか?

 そして、気になることがもう一つ。

「アデルちゃんは、どうしてお掃除をしているの?」

 彼女がこの部屋を掃除する割合は、二か月に一回くらい。定期的な義務ではないらしくて、半年くらいほったらかしにされていたこともある。前回したのは、一か月とちょっと前だから、そろそろ掃除をする時期ではあるのだけど……。

「うるさいわねぇ。あんたのせいで余計な仕事をさせられてるのよ、あたしは」

 返ってきたのは、不機嫌だという情報を事前に把握していなければ、思わず体をちぢめていたかもしれない、とげとげしい声。眉間にしわを寄せてわたしをにらみつける。

「あんた、毎日お昼に庭師と話をしてるんでしょ。旦那さまが、庭師に見られてもはずかしくないような部屋にしておきなさい、だって」

 再びため息。表情は険しいままだ。

「旦那さまも細かいわよね。物置部屋なんだから、汚くて当たり前なのに。他の部屋みたいに掃除する必要は――って、文句を言っても仕方ないんだけど」

「ごめんね。わたしのせいで、お仕事を増やしちゃったみたいで」

 アデルちゃんの目つきが鋭くなった。右手が素早く動いて、ほうきの柄が鳥かごを強く叩いた。世界が揺らいで、わたしは首をすくめる。

「うるさいわね。自分のせいだと思うんだったら、あんたが掃除しなさいよ。あんた、掃除できるの? できないでしょ。気が散るから黙ってて」

 ごめんなさい、と言いかけて、慌てて口を押さえる。舌打ちが聞こえた。

「あんたのそういうところが嫌いなのよ。あたしに手間ばかりかけさせるくせに、すぐに偉そうに口を出して。はっきり言ってじゃまなのよ。あんたさえいなければ、あたしはどんなに楽か。あんたなんか、いなくなればいいのに」

 いなくなればいい。

 その一言は、鋭く、深く、わたしの心臓を突き刺した。傷口から悲しみが流れだして、またたく間に胸の内側を満たした。唇が震える。目頭が熱くなる。

 どうして? アデルちゃんはどうして、わたしに意地悪なことばかり言うの?

「……なに睨んでんのよ」

 アデルちゃんの声が尖る。わたしは彼女から顔を背けた。アデルちゃんのことが嫌いになったわけではない。これ以上彼女を見つめていても、好ましくない感情が芽生えるだけだと思ったから。

 だけどアデルちゃんは、その反応が気に入らなかったらしい。

 なにかが床に叩きつけられる音がした。反射的に振り向いたわたしは、床に転がっているほうきと、頬を紅潮させてこちらに歩み寄ってくるアデルちゃんを目の当たりにした。鍵が錠を回し開けられて、扉が開かれる。

 鳥かごの中にアデルちゃんの手が侵入したのを見て、硬直がとけた。寝床に逃げこもうとしたのだけど、もう遅い。遅すぎる。

 アデルちゃんの右手がわたしを捕らえた。首から下をすっぽりと包む円周が、じわり、じわりと狭まっていく。呼吸が苦しい。

「生意気なのよ、下等動物のくせに!」

「痛い! やめて!」

 体が宙に浮いたと思った、次の瞬間、わたしは寝床の外壁に叩きつけられていた。紙製の箱が大きくへこんで、強く打った右肩に痛みが走った。

 右肩を手で押さえながら顔を上げると、冷ややかな光をたたえた眼差しとぶつかった。その瞬間、ほんの一瞬、わたしの呼吸は止まった。アデルちゃんの唇が動きだすまでの時間は、とても長く感じられた。

「今度生意気な口きいたら、ただじゃおかないからね」

 鳥かごの扉を荒っぽく閉めて、鍵をかけて、アデルちゃんは部屋から出ていった。

 靴音が聞こえなくなったとたん、目に溜まっていたものがこぼれ落ちた。心が傷ついたことよりも、右肩がまだ痛むことよりも、アデルちゃんが乱暴な真似をしたという事実、それが悲しかった。

 指で何回か拭っただけでは、涙は止まってくれそうにない。だから、放っておくことにしたのだけど、自分の意思で放置するのだと思った瞬間、たまらなく惨めな気持ちになった。どうやらその感情は、分泌される涙の勢いを増幅させる効果があるらしい。

 この調子では、いつまで経っても泣きやめない。

 再び指で涙を拭いはじめる。そうすることで、惨めさに囚われることからは逃れられたけど、悲しみはほんの少し強くなった。

 わたしは、どうして、自分がより悲しむ道を選んだのだろう。

 そう思うと、抑えこんだはずの惨めさが押し寄せて、悲しみが強くなって、足並みを揃えるように惨めさも強まって。涙はもう、永遠に止まらないのでは、という気さえした。

 それでも、二つの感情が膨らむのに歯止めをかけられたのは、ハロルドさんの顔が頭に浮かんだから。

 想像の中の彼は、ほほ笑んでいない。心配そうな顔でわたしを見つめている。

 わたしは、ハロルドさんのほほ笑んでいる顔が好きだ。

 泣いていると、ハロルドさんはその顔を見せてはくれない。そんなのは、嫌だ。泣きやまないと。

 ハロルドさんのことを想えば想うほど、心は穏やかになっていって、涙の量も少なくなっていった。そして、逆に、彼に会いたい気持ちが膨らんでいく。

 ハロルドさん。

 彼に会いたい。魅力的なほほ笑みを絶やすことなく、わたしの全てを受け止めてくれる人と。


 夕方から夜に変わったころ、涙は涸れた。

 涙は永遠に止まらないかもしれない。そんな思いとはうらはらの、呆気ない幕切れだった。

 こんなにも早く涙とお別れできたのは、ハロルドさんの存在が力になってくれたから。そうわたしは信じている。

 涙がおさまると、気持ちに区切りがついたような実感があった。

 遅い食事を済ませたあとは、することが特にないので、早めに寝ることにした。

 へこんだぶん、少し狭くなった寝床に、頭を低くしてもぐりこむ。へこみを両手で押すと、思っていたよりも簡単にもとの形に戻った。

 思わず笑みがこぼれた。

 横になって、毛布を首までかぶる。

 笑ったのは、なんだかずいぶん久しぶりな気がした。

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