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 待ちに待ったお昼が今日も訪れた。

 今日のお話のテーマは「花」。

 この世界に存在する花の名前、種類、色。性質、活用方法、育てかた。

 いろいろなことについて話す中で、ふと思いだしたように、ハロルドさんは質問をした。

「リリィは、自分の名前の由来になった花を見たことはある?」

 わたしは首を横に振った。

 わたしは白百合の花を一度も見たことがない。ペットショップからの帰り道に咲いていたその花が名前の由来だ、という話を聞いたことがあるだけだ。

 帰り道、今は寝床になっている紙箱の中にわたしは入れられて、シルヴィアお嬢さまの胸に抱かれていた。

 恐怖、不安、心細さ。

 期待がまったくなかったわけではないけど、暗い感情のほうが圧倒的に強くて、箱の隅で体をちぢめて、震えてばかりいた。箱の側面に一か所、小さな丸い穴が設けられていたけど、外の景色に注目するだけの心のゆとりはなかった。

 白百合に関してわたしが把握しているのは、名前が示すとおり、白い花ということだけ。形や匂いなどは想像もつかない。

 自分の名前の由来になった花のことも知らない、世間知らずの妖精。

 人間の世界では、おかしなことなのかもしれない。笑われても仕方がないことなのかもしれない。

 そう思ったけど、それは間違っている、とすぐに気がつく。

 だって、ハロルドさんが誰かを笑うはずがない。

「そっか。知らなかったんだね」

 ほほ笑んだまま、別の感情を顔にも声にもにじませずに、ハロルドさんは言う。

「そういうことなら、ぜひ見せてあげたいね。白百合の花」

「そんなにきれいなんですか?」

「うん。とってもきれいだよ」

 もちろん、とばかりにハロルドさんは答える。

 彼がほめ言葉を口にしたとたん、今までまったく意識してこなかったその花が、自分にとってとても大切なもののような気がしてきた。

 百合の花は、きれいな花だという。その花を同じ名前をつけてもらえたのは、身に余る光栄だ。

 そう思えたのも、ほめてくれたのがハロルドさんだからこそ、だろう。

「いつか絶対に、リリィに白百合の花を見せてあげるから。楽しみにしてて」

 部屋のドアがノックされたのは、わたしたちがほほ笑みを交わしあった直後のこと。

 音を吸いとられてしまったかのように、部屋の中は静まり返った。

 わたしは身じろぎ一つできない。ハロルドさんは緊張した顔をドアに向けている。

 いつの間にドアの前まで来たのだろう? 話に夢中だったから、まったく気がつかなかった。

 訪問したのは、誰? まさか、アデルちゃん? でも、晩ごはんの時間には早すぎる。

 かちゃり、と小さく音がして、ドアが開く。

 嗅いだことがある匂いが鼻に届いた。でも、そうひんぱんに嗅いでいるわけではない匂い。わたしは体ごと振り向いた。

「……なんだ、君か」

 ドアの隙間から顔を覗かせたのは、グレーの髪の毛を後頭部に撫でつけて、口ひげをたくわえた、中年の男性。少し疲れたような、どこかゆううつそうな顔をしている。

 旦那さまだ。

 旦那さまは仕事のため、一日の大半を書斎で過ごす。普段、用もないこの部屋を訪れることは、まずない。基本的にわたしに用事はないし、仮にあったとしても、アデルちゃんに言いつければ済むから。

 お嬢さまがお屋敷にいたときは、わたしは多くの時間、お嬢さまといっしょだった。だから、旦那さまと顔を合わせる機会はたくさんあった。だけど、お嬢さまが出ていって以来、その回数は怖いくらいに減ってしまった。

「二人揃ってそんな顔をしないでくれ。いつもは静かな場所から話し声が聞こえてくるようだから、怪訝に思って様子を見に来たまでだ」

 ふう、と旦那さまは息を吐いた。

「不届き者が盗みに入ったのかと思ったんだが、違ったようだね。安心したよ」

「あの……。彼女と話すのはまずかったでしょうか?」

 おずおずと、といった調子でハロルドさんが尋ねる。直立不動の姿勢で、緊張した面持ちだ。

 旦那さまの視線がハロルドさん注がれる。表情からは感情が読みとれないけど、少なくとも、ハロルドさんを拒む気配は感じられない。

「いや、問題はないよ」

 その一言を聞いた瞬間、体を締めつけているものがふっと緩んだような感覚を覚えた。

「仕事さえきちんとしてくれるなら、それ以外の時間は好きに使ってくれてかまわない。いつ休憩をとろうが、家の者となにをしようが、君の自由だ」

 安心したのはハロルドさんも同じだったらしく、顔の強張りが少し和らいだ。旦那さまはわたしと目を合わせる。

「リリィ。窓の鍵は君が開けるのかい?」

「はい、そうです」

「そして、窓を開けるのは庭師の彼。君の腕力では無理だから、開けてもらう。そうだね?」

「そのとおりです、旦那さま」

「それでは、話しおわったあとは、必ず鍵を閉めるようにしなさい。彼と話すのは自由だけど、不用心だから、それだけは厳守するように。分かったかい?」

「分かりました、旦那さま。必ずそうします」

 旦那さまは小さく頷く。それに続いてハロルドさんを見つめたのは、窓を閉めないと鍵を閉められないから、忘れないように頼むよ、という無言のメッセージを送るためだろう。ハロルドさんは眼差しの意味を理解したらしく、ふかぶかと頭を下げた。

 旦那さまは部屋から出ていくのではなくて、難しい顔をして室内を見回しはじめた。

 いったいどうしたのだろう? 動機は見当もつかなくて、わたしはただ見守ることしかできない。ハロルドさんの横顔は少し不安そうだ。

 旦那さまは首を動かすのをやめると、声を出さずにため息をついた。そして、静かな足どりで部屋から去った。

 わたしたちは顔を見合わせた。ハロルドさんと目が合った瞬間、頬が緩んで、ぴたりと閉じていた上下の唇が隙間を作ったのが分かった。彼は表情を大きく和らげた。

「いやあ、ほっとしたよ。もしかしたら旦那さまに、君と話すことを禁じられるかもしれないと思ったから。リリィは不安じゃなかった?」

「いいえ、まったく。だって、旦那さまはとても優しいかたですから。きちんと説明すれば、絶対に許してくれると思っていました」

 とても晴れやかな気分だった。旦那さまの許しを得たことで、ハロルドさんとのあいだを隔てていたものはなくなった気がしたから。


 幸せは長くは続かない。

 体が小さいわたしにとって、たいていの幸せは大きすぎるし、重すぎる。抱きしめる腕が疲れてしまって、これ以上持っていられなくなって、とり落としてしまう。

 幸せはちょうちょの形と性質を持っている。手放してしまったら、とり戻すのは難しい。慌てて手を伸ばしても、すり抜けて、逃げていく。まるで、後ろの景色までよく見える目がついているみたいに。

 動き自体はそこまで素早くない。何回か挑戦すれば、捕まえられる可能性もじゅうぶんにあるだろう。

 だけど、わたしは鳥かごの中。一回手をすり抜けて、二回すり抜けたときにはもう、ちょうちょは外の世界にいる。

 鉄格子に体を押しつけて、めいっぱい手を伸ばせば、もう一回くらいチャンスはあるかもしれない。だけど、たぶん、指先にかすることもあっても、掴むことはできない。

 こうして、わたしは幸せを逃してしまう。

 気まぐれなちょうちょが、次に鳥かごの中までやって来るのがいつになるのかは、わたしには分からない。

 というよりも、たぶん、誰にも。

 たしかなのは、それはずっと先の未来の話だ、ということ。

 訪れない可能性だってある、ということ。

 ……幸せが続くと思っていた。

 ハロルドさんと出会って。

 ハロルドさんとお話することを、旦那さまが許してくれて。

 じゃまをするものは、もうなにもないと思っていた。

 でも、それは思い違いだった。幸せを手に入れて浮かれていたせいで、当たり前のことが見えていないだけだった。

 久しぶりの幸せだった。

 ハロルドさんは家族になったわけではない。いっしょにいられる時間は、半日にも満たない。シルヴィアお嬢さまがいつもそばにいたときと比べると、ささやかな幸せかもしれないけど、あのころよりももっと大事にしようと思った。小さいものは、もろくて、はかなくて、弱くて、壊れやすいから。……わたし自身がそうであるように。

 でも、幸せは長くは続かない。

 世間知らずのわたしは、こう解釈する。

 それがこの世界の仕組みなのだ、と。

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