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「あの……」
「どうしたの?」
「お名前、訊いてもよろしいですか」
「ああ、自己紹介が遅れちゃったね。僕の名前はハロルド。よろしくね、リリィ」
「こちらこそよろしくお願いします、ハロルドさん。それと、あの……。昨日は申しわけありませんでした」
わたしは大きく頭を下げた。言いだすタイミングが唐突だっただろうか? 顔が少し熱い。
「昨日は、ハロルドさんにせっかく来ていただいたのに、失礼な真似をしてしまって。ほんとうに、どう謝ればいいか……」
「ううん、謝らなくてもいいよ。僕はぜんぜん気にしてないから、気に病む必要はないからね。ほら、顔を上げて」
言われたとおりにすると、彼の顔には相変わらずほほ笑みが灯っている。わたしに気をつかって、無理をしてその表情を維持しているわけではない、と一目で分かった。
ハロルドさん。わたしは言葉をあまり知らないから、うまく表現できないけど、とてもいい人だ。悪い人だなんて、とんでもない。
「ところでリリィ、君は鳥かごからは出ないの?」
軽く上体を乗りだして、ハロルドさんは尋ねた。視線は鳥かごの扉へと注がれている。
失礼だと分かってはいたけど、苦笑いがにじみだすのを抑えられなかった。わたしがなぜ、鳥かごの中にいるのか。いちばん触れられたくない話題だ。
でも、なぜだろう。ためらいはほとんどなかった。
「はい、外には出ません。この中から出てはいけない決まりになっているので」
「扉の鍵は?」
「閉まっています。わたしの世話をする人が――アデルちゃんが鍵を持っていて、ごはんのときだけ開けるようになっています。そのときが、外に出る唯一のチャンスなんですけど、わたしはその意思はありませんから」
「じゃあ、君はずっと鳥かごの中で暮らしてきたんだ?」
「いいえ。お嬢さまがいたころは、お屋敷の中を自由に行き来していました。お嬢さまがわたしの面倒をよく見てくれたので」
「お嬢さまというのは、旦那さまの娘さん?」
「はい、そうです」
会話が途切れる。ハロルドさんはなにも言わないけど、もっと深く知りたい欲求が表情に見え隠れしている。抵抗感がないといえばうそになったけど、少しだけ話すことにする。
「お嬢さまがお屋敷を出ていってからは、旦那さまもアデルちゃんも仕事が忙しいし、鳥かごの中にいるほうが手間もかからないということで、ずっとここで暮らすことになったんです。外にいたときは、いろいろとやんちゃをしてみんなに迷惑をかけたから、自業自得なんですけどね」
知らず知らずのうちに、自虐的な話しかたになってしまったかもしれない。
ウィルバーフォース家のためにお仕事をしに来てくれた人に、わざわざわたしとお話をしにきてくれた人に、愚痴めいた話を聞かせるだなんて、なんて失礼な真似をしてしまったのだろう。
人間と話をするのに慣れていない自分をはずかしく思うとともに、ハロルドさんに対して申しわけない気持ちになった。しゃべっているあいだ、自己嫌悪で胸がいっぱいだった。
だけど彼は、最初から最後まで、迷惑そうな顔一つせずに話に耳を傾けてくれた。
「それじゃあ、退屈だし、寂しいね。一日中その中で過ごすわけだから」
話しおわっての第一声、ほんの少し眉をひそめての言葉に、わたしは首を横に振る。
「そんなことはないです。窓の外の景色を眺めたり、聞こえてくる音に耳を傾けたりするだけでも、じゅうぶんに気がまぎれるので。それに――」
いったん唇を閉じる。そのまま呑みこんでしまってもよかった言葉を、勇気を振り絞って口にする。
「ハロルドさんと話をしていると、とても楽しいですから。だから、退屈ではないし、寂しくもありません」
「ほんと? それはよかった!」
ハロルドさんは破顔一笑した。
「昨日のことがあったから、君に嫌われたんじゃないかと思って、不安だったんだ。話をしに来てよかったよ」
ああ、ほほ笑み。
ハロルドさんのほほ笑む顔を見ると、たとえようもなく幸せな気分になれる。胸の奥底に沈殿しているものが浄化されていく。
ハロルドさん。なんて魅力的な人なのだろう。
ハロルドさんと知りあうことができて、ほんとうによかった。
それからしばらくのあいだ、わたしたちはおしゃべりをした。知り合って間もないということで、一方が相手に質問して、もう一方がそれに答える、という形が多かった。わたしはハロルドさんほど積極的にしゃべることができなかったので、話している時間は彼のほうがずっと長かった。
お話をしている最中、ハロルドさんはとつぜん口をつぐんだ。そして、自分の首のあたりに右手を持っていった。一歩遅れて、服についているファスナーのでっぱりをつまんだのだ、と気がつく。
じじじ、という音がして、服の内側がみぞおちのあたりまで露わになった。肌着の清潔な白さ。ほのかな汗の匂い。鼓動が速くなる。
ハロルドさんは右手を服の内側に忍びこませて、すぐに外に出した。その手には、銀色の懐中時計が握られている。古いもののようで、ところどころにサビが浮いていて、銀色自体もあせているように見える。
文字盤を一目見て、ハロルドさんは少し眉をひそめた。その顔がこちらに向けられる。
「ごめん。もうそろそろ仕事に戻らないと」
仕事。その単語には、ぼんやりとしている頭をしゃっきりとさせるような響きがあった。
そう、仕事。
ハロルドさんは、ウィルバーフォース家の庭木をきれいにするためにお屋敷まで来た。今は休憩時間で、自由に使ってもいいから、わたしと話をしている。でも、その時間はもうすぐ終わる。仕事の続きをするために、庭に戻らなければいけない。
人間にとって、仕事はとても大切だ。世間知らずのわたしも、そのことはじゅうぶんに理解している。だから、ハロルドさんを引きとめようとは思わない。
でも、お別れする前に。
「あの、ハロルドさん」
彼の名前を口にした瞬間、頬がまた熱を帯びたのが分かった。
うそ偽りない自分の気持ちを口にするのは、はずかしい。生まれたときからそうだった気もするし、誰かと話をする機会がめったにないせいで、そう感じるようになった気もする。
それでも、言わなきゃ。
「また、お話できますか?」
「もちろん」
ハロルドさんは間を置かずに、今日の空模様のように爽やかに言ってのけた。
「明日も仕事に来るから、お昼が来たらまた話をしようね」
明日も来るから、また話をしよう。
その言葉が、わたしをどれだけ喜ばせたか。どれだけ舞い上がらせたか。どれだけ幸福にさせたか。きっと、ハロルドさんは知らない。
窓を閉めて、手をちょうちょのようにひらめかせて、ハロルドさんは部屋から遠ざかっていく。この部屋まで来たときとは違って、早足での移動だ。
わたしと話をする時間が苦痛で、早く別れたかったわけではないと、靴が奏でる音の優しさで分かった。そして、約束を交わしたことで手に入れた幸福感がある。今は、彼の存在を感じるだけで愛おしい。
しばらくすると、庭仕事の音が聞こえてきた。最初、刃物で木の枝を一本一本切っているようにしか聞こえなかったその音は、連続することで音楽になった。耳に心地よくて、気持ちを安らかにさせてくれる、そんな音楽に。
わたしはそれを聞きながら、さっきまでの会話の中でハロルドさんが口にした言葉や、浮かべた表情を思い返した。それらはどこを切りとっても、心を温かくさせて、口の端をだらしなくさせた。服に染みついた植物の香りや、ファスナーを開けたことで鼻まで届いた汗の匂いが、現実世界でも漂っているかのように甦った。
そうしている時間は、彼と言葉を交わしていたときと比べても、負けないくらいに幸せだった。
やがて音は途絶えて、ハロルドさんはウィルバーフォース家から去った。
だけど、胸の奥はずっと熱いままだった。
「あんた、どうしたの? にやついたりなんかして」
アデルちゃんはシリアルを器に入れおわって、鳥かごの扉の鍵を閉めたあとで、わたしにそう声をかけた。
鉄格子の向こうにある顔は、怪訝そうにわたしを見つめている。基本的にわたしには無関心なアデルちゃんが、こういう表情をするのは珍しい。
鳥かごの扉の鍵を開けたあと、けん制としてわたしを睨みつけたときに、異変に気がついたのだろうか。そんなにもはっきりと、顔に出ていたのだろうか。
にやけている自分。一人でいるときはぜんぜん気にならないけど、誰かに見られるのは、やっぱりはずかしい。
アデルちゃんはシリアルの袋の口を閉じながら、なおもわたしを見つめつている。わたしの口からなんらかの説明がされるのを待っている。
なにか尋ねられたら、素直に答える。昨日までのわたしはそうだった。小さな紙箱に入れられてウィルバーフォース家にやって来た日以来、ずっと。
でも、わたしは今日、特別な体験をした。
「ううん、なんでもないよ」
つとめてさり気なく、そう答えた。
思い出は渡さない。アデルちゃんにも、旦那さまにも、二人以外のどんな人間にも。今日、ハロルドさんとのあいだにあった全ては、わたしが独り占めにして、長い長い夜を乗りきるための友だちにする。
アデルちゃんは、なおも訝しげにわたしを見つめていたけど、小さな声で「あっそう」と言って、視線を切った。そして、手にしているものをキャビネットにしまって、部屋を去った。
アデルちゃんがわたしに無関心で、よかった。
鳥かごの中で暮らしはじめて初めて、そう思った。