5
どれくらいの時間が流れただろう。
とつぜん、靴音が聞こえてきた。庭からだ。飛び石を横断して、わたしがいる部屋へと向かってくる。
わたしはその場から一歩も動けなくなる。
お屋敷とレンガのフェンスに挟まれた狭い道を、靴音と人の気配が近づいてくる。
庭師さんは、今日もわたしに会いに来てくれたのだ。
聞こえてくる音が大きくなれば大きくなるほど、感じられる気配が強くなれば強くなるほど、心臓は強く鼓動を刻んだ。壊れてしまいそうな気がして、服の左胸をぎゅっと掴む。
窓の外に影が差して、靴音が途絶えた。
息を呑むわたしの視線の先で、あの人が佇んでいる。ほほ笑んでいる。
そのほほ笑みは、昨日、彼がわたしに向けたものそのもので。わたしの非礼の影響を受けた形跡なんてまったくなくて。
ガラスの向こうの世界から、庭師さんは右手の人差し指で窓の錠を指差した。窓を開けてほしい、という意思表示。昨日も見せた仕草。
だけど、今日のわたしの心は違う。
小さく頷いて、ためらいなく錠に両手を伸ばして、でっぱりを押し上げる。
かちり。
もうずいぶん長いあいだ聞かなかった音が小さく鳴って、窓が開錠された。
その事実を伝えるために、首を縦に振る。意味は伝わったらしく、庭師さんは右手を窓にかけた。二つの世界を隔てている障壁が、外側からゆっくりと開かれる。
部屋に舞いこんできた初夏の風に、わたしの白い髪はなびいた。何週間かぶりに味わった外の空気は、想像していたよりも暖かくて、緑の匂いがした。
緑の匂い――つまり植物の匂いは、右肩についた葉っぱから発せられている。最初はそう思ったけど、今日その場所にはなにもついていない。服の他の場所も同じだ。葉っぱの一枚も、花びらのひとひらも。
匂いはどうやら、服に染みついているらしい。一種類ではなくて、複数の匂いが混ざりあった匂い。決して強くはないけど、その複雑さが、匂いを実質以上に濃いものにさせているようだ。
ウィルバーフォース家の敷地内には、数えきれないくらいたくさんの植物が植わっている。だけど、アデルちゃんがたまに部屋の掃除をするときくらいしか窓は開けられないから、緑の匂いを嗅ぐ機会はめったにない。玄関のドアを開けたさいに中に侵入して、廊下を通ってこの部屋まで届くことも、ないわけではない。だけど、その機会は限りなく少ないし、かろうじて植物の匂いだと分かる濃度にすぎないから、感動は小さい。
そんな、わたしにとってはとても貴重な緑の匂いが、今、わたしの嗅覚に強く訴えかけている。
匂いの発生源では、庭師さんがほほ笑んでわたしを見つめている。
「こんにちは、妖精さん」
柔らかな声が、わたしに宛ててそっと放たれた。
こんなにも近くから男の人の声を聞く機会は、旦那さまと話をするときくらいしかない。旦那さまの声には、背筋を真っ直ぐにさせるような響きがあるけど、庭師さんの声には、全身から力が抜けていくような成分が含まれている。心と体に感じている緊張が大きいから、両方ともまだ硬いままだけど、それでも肩が少し楽になった。狭くて、ほこりっぽくて、薄暗い部屋の空気が、淡いバラ色を帯びたような、そんな錯覚さえ抱いた。
『こんにちは、妖精さん』
特別なことを言ったわけではなくて、ただあいさつをしただけなのに。たった一言、短い言葉を口にしただけなのに。
この人は、特別な人なのだ。
アデルちゃんや旦那さま以外の人と顔を合わせたのがとても久しぶりだから、そう感じたのか。ほんとうに、普通の人とは違うのか。それをたしかめるすべはないけど――。
あいさつをしてくれたのだから、わたしもあいさつをしないと。
思いとはうらはらに、声は出てこない。緊張しているせいだ。
でも、黙ったままでいるのは失礼だ。だから、かろうじて動く首を動かして、お辞儀をした。
「よかった。昨日知らないふりをされたから、今日も話をしてくれないのかと思ったよ」
あいさつをしたときよりもさらに口元を和らげて、あいさつをしたときと同じ声の調子で、庭師さんは言った。
知らないふりしたことを謝らないと。
「今日はいい天気だね。昨日と違って雲一つない青空だから、作業をしていると暑いくらいだけど、やっぱり晴れているほうが気持ちいいよ。個人的には、汗をかくのは嫌いじゃないしね」
「……えっと」
「ところで、君はもうお昼は食べた? 僕はさっき済ませたところなんだけど」
「あの……」
「……僕と話したくない?」
声のトーンがわずかに落ちた。世界からありとあらゆる音が消えてしまった気がした。このままだと、かけがえのない宝物を、永遠に手放さなければならなくなるかもしれない。わたしは慌てて首を横に振った。
庭師さんの機嫌を損ねてしまっただろうか?
おそるおそる見返した顔は、予想とは違って、相変わらず柔和なほほ笑みに包まれている。
それを見た瞬間、この人の前ではびくびくする必要はないのだ、と気がついた。
世界から音が消えてしまっただなんて、ただの気のせい。宝物を手放さなければならないときは、少なくとも今ではない。
そう自分に言い聞かせると、心は見違えるくらいに落ちついた。
もう大丈夫。庭師さんとちゃんとお話ができる。
「あの、わたし、お昼ごはんはないんです。朝ごはんと晩ごはんしか食べません」
「あ、そうなんだ。体が小さいから、あまり食べなくても平気なのかな。僕は肉体労働者だから、貧乏なのに食費がかかって困るよ」
清潔感のある白い歯を唇の隙間から覗かせて、窓枠に両肘をつく。
「君はいつもなにを食べているの? 野生の妖精は、果物や花の蜜が好物らしいけど」
「妖精用のドライフードをいつも食べています。甘くて、おいしくて、毎日食べても飽きないんです」
「なるほど、ドライフードね。もしかして、羽がないのもペットショップ生まれだから?」
わたしは一瞬、肩越しに自分の背中を振り返った。角度の問題で視界には映らなかったけど、わたしの背中、本来なら羽が生えている場所には、今にも消えてしまいそうに薄く傷跡が刻まれている。
「はい、そうです。どうして分かったんですか?」
「ペット用として売られている妖精は、逃げないように羽を切ることが多いと聞いたことがあったから。愛情を持って接すれば、そんな残酷な真似をする必要はないと思うんだけどね。……おっと、質問の順番がちぐはぐになってしまったかな。君の名前は?」
「リリィと言います」
「もしかして、髪の毛の色が白百合にそっくりだから、リリィ、なのかな」
「はい。わたしをペットショップで買った帰り道、わたしの髪の毛の色と同じ白い百合の花が咲いていたのを見て、そう命名したそうです。お花に詳しいんですか」
「うん。庭師をやっていると、植物のことには自然に詳しくなるよ。品種とか、育てかたとかね。有名なものなら花言葉だって分かるし」
そう、庭師だから。
答えが分かりきっている質問をしても、彼は誠実に答えてくれる。ほほ笑みを絶やさないでいてくれる。
彼はとても優しい人だ。話をしていて心地いいし、気持ちが落ちつく。
久しぶりにお話をしたウィルバーフォース家以外の人が、庭師さんでほんとうによかった。