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髪の毛は耳にかかるくらいの長さで、ちぢれている。二重まぶた。褐色の瞳。年齢は、アデルちゃんと同じくらいだろうか。灰色の、上下がひと続きになった服を着ていて、右肩に楕円形の小さな葉っぱが一枚くっついている。
ほほ笑んでいる。浅黒い顔全体にほほ笑みをたたえて、わたしを見つめている。
男の人は、窓ガラスの一点を人差し指で指した。
どうすればいいか分からなくて、わたしはただ立ちつくす。
男の人は指差す動作をくり返す。窓の錠を指し示しているのだ、と遅まきながら気がついた。窓を開けてほしい、と言っているらしい。
錠はわたしの手に届く場所にある。短いでっぱりを押し上げると開いて、押し下げると閉まる。非力なわたしでも簡単に開け閉めできる。鳥かごぐらしをはじめる前にも、はじめてからも、何度か実行したことがあるのでそれはたしかだ。
今、でっぱりは一番下まで下りている。わたしがそれを上げさえすれば、人間の力であれば、なんなく窓を開けられるはずだ。
だけど、この人は誰? なにをしようとしているの? 家に用事があるのであれば、この部屋の窓ではなくて、玄関のドアをノックするべきなのに、そうしないのはなぜ? 入り口からどうどうと入れない理由でもあるの?
この男の人は、もしかして、悪い人なの?
急に怖くなって、大急ぎで寝床の中に身を隠した。毛布にくるまって身をちぢめて、息をひそめる。
直後、またノックの音がしたので、思わず肩が跳ねた。乱暴な音ではなかったけど、恐怖は消えない。それどころか、全身がかすかに震えはじめた。
出ちゃだめだ。絶対に出ちゃだめ。毛布を握る両手に力をこめて、息を殺す。
少し間があって、三回目のノックの音が聞こえた。
「開けてほしい」と言葉で願いでないのは、どうしてなのだろう。窓ガラス越しでも声が聞こえることくらい、妖精のわたしだって知っている。
もしかして、しゃべることができない人なの? 実際に会ったことはないけど、世の中にはそういう人間もいると、なにかの機会に聞いたことがある。今、窓の外に立っている男の人がそうなのだろうか?
それとも、お屋敷の人間に声を聞かれたくないのだろうか? お屋敷の人間に知られると、都合が悪いことをしようとしているから。
つまり、男の人は悪い人。
……怖い。
助けを呼びたいけど、わたしの小さな声では、アデルちゃんや旦那さまの耳には届かない。近くにいるなら話は別だけど、二人はわたしの部屋までめったに来ない。確実に来るのは、朝と夕方の二回、アデルちゃんがわたしの世話をしてくれるとき。だけど、今はどちらからも遠い時間帯だ。
それに、助けを呼べば、男の人を怒らせてしまうかもしれない。非力なわたしとは違って、人間の腕力は強い。その気になれば、窓ガラスを破ったり、鳥かごの扉をこじ開けたりできるはずだ。
そして、わたしの命の灯火を消すことも。
わたしは無力だ。自分の力では、男の人をどうすることもできない。できることはといえば、嵐が過ぎ去るのをただ祈ることくらい。
……ああ。
わたしはどうして、人間に生まれなかったのだろう。妖精に生まれたのだろう。わたしが人間だったなら、危機を打開するための手を打てたのに。
恐れている四度目のノックの音は、怯えるわたしをさらに怯えさせるかのように、いつまで経っても響かない。
やがて、地面が軽く踏みにじられるような音が聞こえた。それを合図に、靴音が遠ざかっていく。
寝床の出入口からおそるおそる外を覗う。
男の人の姿は消えていた。
こみ上げてきた安堵感に、思わずため息をついた。
けっきょく、あの男の人は何者なのだろう?
その問題について考えるよりも先に、ひとまず寝床から出ることにする。毛布にくるまっていたのと、緊張していたのとで、体が火照っていたのだ。
紙箱から出て体を伸ばし、また息を吐く。
その直後、庭のほうから音が聞こえてきた。木が揺れて、金属がこすれて、なにかが落ちる音。音楽にも似た、心地よい音の連続。まぎれもなく、今朝耳にしたのと同じ音だ。
窓の外にいた男の人は、お客さまだったのだ。
お客さまなのだから、悪い人ではない? それとも、アデルちゃんの前ではいい人のふりをしていたけど、心の中では悪いことを企んでいる?
お客さまは、庭でなにをしているの? どんな目的があって、部屋の窓を開けさせようとしたの?
たくさんの謎を一度に突きつけられると、どれから手をつければいいかが分からなくなってしまう。一つ一つ手にとって、一つ一つ考えていけばいい。そう頭では分かっているけど、一度頭がこんがらがってしまうと、冷静に対処するのは難しくなる。
庭からの音は途絶えることを知らない。
音自体は快いものだけど、演奏している本人がわたしの目の前に来て、不審な行動をとるという体験をしたあとだけに、心地よさに身をゆだねるのは難しい。
音が聞こえつづけている限り、お客さまが窓の外に再び現れることはない。それは分かっていたけど、心は落ちつかない。
緊張を強いられる時間が長く続いた。これがあと一時間も続けば、我慢しつづけることに耐えきれなくなって、わたしの心はおかしくなってしまう。本気でそう思った。
空が暗くなりはじめたころ、急に音楽が途絶えた。
それに続いて聞こえてきたのは、不規則で、乱れた印象の音。
なんだろう、と耳を傾けているうちに、音はやんでしまった。
その直後、靴音が聞こえてきた。飛び石伝いに玄関とは逆方向に進んで、門をくぐって敷地の外に出る。立ち止まることなく屋敷から遠ざかっていって、やがて消えた。
戻ってくるかもしれないと考えて、耳を澄ませつづけたけど、いつまで経っても靴音は響かない。お客さまは帰ったのだ。
胸に手を当てて、ながながと息を吐く。心臓の音がだんだん落ちつきをとり戻していくのが、掌を介して伝わってくる。その変化を感じながら、わたしは思う。
わたしに足りないのは、心の強さなのかもしれない。
いつもの時間にアデルちゃんが部屋に来て、晩ごはんの用意をしてくれた。
表情や振る舞いを見た限り、朝から引きつづき、不機嫌ではないみたいだ。だから、思いきって疑問をぶつけてみた。
「今日の昼すぎくらいに、窓の外に知らない男の人が立っていたのだけど、もしかして、泥棒さんだったのでしょうか。朝、アデルちゃんとお話をしていたのと同じ人だと思うのだけど……」
袋の口をリボンで結びながら、アデルちゃんは小さく笑った。泥棒、という単語がおかしかったらしい。
「その男の人は、旦那さまが庭仕事を依頼した庭師の人よ」
庭師。
仕事ぶりを直接見たことはないけど、庭木の手入れをする職業の人のことをそう呼ぶ、という知識はある。庭から聞こえてきた物音の正体。服の肩に葉っぱがくっついていた理由。二つの謎が一気に解けた。
そして、残る一つ。
「では、その庭師のかたは、なんの用事があってこの部屋まで来たのでしょうか」
「知らないわよ。休憩時間に散歩をしていたら、たまたまあんたを見つけたんじゃない」
キャビネットの引き出しに袋がしまわれる。ノブを掴んでドアを回し開けて、部屋と廊下を空間的に繋げてから、アデルちゃんはつけ足した。
「そんなに気になるんだったら、明日、本人に直接訊いてみれば」
一人きりになったあとも、アデルちゃんが最後に口にした言葉が、くり返し頭の中で再生された。
『そんなに気になるんだったら、明日、本人に直接訊いてみれば』
彼女からしてみれば、何気なく口にした一言だったのかもしれない。だけど、わたしにとっては希望の光だ。
お屋敷の庭は広い。鳥かごに閉じこめられてずいぶんと時間が経ったから、植木や花壇の花の種類は変わったかもしれないけど、その事実に変わりはないはずだ。
そして、変わらないのは、庭にはたくさんの木が植わっていて、たくさんの花が咲き誇っていることも。
広い庭に植わった植物を残らず手入れをするとなると、一人の力ではとうてい、一日では片づけられないのだろう。何日かかるのかは分からない。だけど、少なくとも明日は必ず来る。アデルちゃんがそう言っていたのだから、きっとそうだ。アデルちゃんはときどきすごく意地悪になるけど、誰かを傷つける目的でうそをつく人ではない。
明日、わたしに会いに来てくれるかもしれない人がいる。
このことは、平和だけど、単調で孤独な毎日を過ごすわたしにとって、どんなに喜ばしいことだろう。
でも、彼はもう二度と、わたしのもとには来てくれないかもしれない。
だって、わたしが拒絶したから。誰だって、歓迎してくれない人のもとには行きたくないに決まっている。
アデルちゃんが言うとおり、わたしのもとを訪れた理由がたまたまなら、わたしが拒絶したことで、今後訪れる確率はゼロになってしまったかもしれない。そう考えると、後悔がこみ上げてくる。
だけど、その感情はそれほど強いわけではなくて。
なぜだろう。今のわたしはとても前向きだ。
心が弾んでいる。あの人と再会を果たせる瞬間が、楽しみで仕方ない。やり直せない過去を悔やむのではなくて、訪れるかもしれない未来を待ち望んでいるわたしがいる。
彼のことを考えているうちに、いつの間にか世界は夜になっていた。
窓越しに細く見える空では、いくつかの星が輝いている。弱くて、頼りない光かもしれないけど、輝きは輝きだ。
明日も庭師さんが来てくれますように。
心の中で祈りながらまぶたを閉じた。薄汚れた毛布のぬくもりが、いつもよりも優しかった。