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 太陽が空に昇っているあいだは、とても退屈だ。朝ごはんを一粒残さず食べて、水で喉を潤してしまえば、もうなにもすることがない。夜はやがて訪れる眠気に身を委ねればいいけど、昼間はそれができない。

 だけど、楽しみがまったくないわけではない。

 音。気配。薄暗くて狭い部屋の中に閉じこめられていても、その二つの情報を頼りに、外の世界の様子を知ることができる。

 妖精は小さくて、もろくて、弱いから、鋭い牙や爪を持つ天敵から身を守るために、その二つの情報を感知する能力が発達した。いつの日か、旦那さまがそんなお話をしてくれたことがある。

 旦那さまは昔も今も、特別な用事がない限り、わたしと一対一でお話をすることはない。だからたぶん、わたしがシルヴィアお嬢さまといっしょにいるときに、お嬢さまに向かって話したのだと思う。

 お屋敷は自然に囲まれた場所にあるけど、どう猛な肉食動物は棲息していない。仮に棲息していたとしても、わたしはお屋敷の中にいる。部屋の中にいる。鳥かごに守られている。

 安全な場所から、音と気配に意識を傾ける。その事実だけを切りとれば、疑いようもなく幸せなことだ。

 生活にかかわる音や気配の、響きや、発信される順番は、だいたい毎日同じだ。変わらないことは安心に繋がるけど、退屈でもある。

 ただ、わたしが暮らす部屋は、お屋敷の玄関から比較的近い場所にある。

 お屋敷にお客さまがやって来て、応対に出たアデルちゃんと、そして旦那さまと、その場でお話をする。お客さまや旦那さまやアデルちゃんの声の様子から、あるいは会話の内容そのものから、お客さまの人柄を推し量る。旦那さまとお客さまの関係について想像を巡らせる。

 そんなひとときが、わたしは好きだ。潤いが極端に少ない単調な生活の中の、数少ない、というよりも、ほとんど唯一の楽しみといってもいいかもしれない。

 だけど、毎日のように何人ものお客さまがお屋敷を訪れるわけではない。割合でいえばむしろ、一人か二人来ただけでおしまい、という日のほうが多い。

 誰かが来た場合でも、毎日、もしくは定期的に届ける約束になっているものを、届けただけですぐに帰ってしまう、という場合も少なくない。

 あるいは、腰を落ちつけて話をするために、立ち話をそうそうに切り上げて、別室まで移動する。この部屋からは遠く離れた場所にある、話し声が聞こえないし、気配を感じとることもできない一室へと。

 そもそも、玄関で発生する話し声のほとんどは、話し手の声量が一定以上であれば、話の内容をかろうじて聞きとれる程度。どんなに耳を澄ましたとしても聞きとれない場合も、数えきれないくらいある。

 わたしのささやかな望みが叶う日は、悲しいくらいに少ない。

 今日もたんたんと一日が過ぎていくのだろうか。何事もなく夜を迎えるのだろうか。

 旦那さまとアデルちゃんに災難が降りかからなければ、それでかまわない。それでかまわないのだけど……。

 窓の外に目を移す。芝生の地面、レンガ造りのフェンス、横に細長く切りとられた空。

 いつ見ても同じ景色だ。天候によっては雨や雪が降りそそいで、冬以外の季節の日中にはちょうちょが横ぎることもある。起きる変化といえばそれくらいの、殺風景な景色。

 芝生や、レンガや、空の色は鮮やかだけど、寂しい、と見るたびに思う。今日に限った話ではない。窓の外を見るたびに、わたしの胸はその感情で満たされる。

 誰でもいい。誰だってかまわないから、窓の外に佇んで、外の世界に変化をもたらしてくれないだろうか。わたしの心を楽しませるようなことをしてほしい、なんてわがままを言うつもりはない。窓の外に佇んでくれさえすれば、それだけで、ただそれだけで、わたしの心の渇きは潤うのに。

 わたしのささやかな願いが叶えられたことは、今まで一度もない。

 期待をしても、いいことなんて一つもない。ため息をついて、窓から顔を背けた。

 直後、どこからか靴音が聞こえた。

 心と体を緊張させて、耳を澄ませる。

 だんだんお屋敷に近づいてきている。お屋敷に通じる一本道を通って、ウィルバーフォース家へと向かってきている。足どりは急いているわけでも、わざとゆっくり歩いているわけでもない。音色は澄んでいて、雑音が混じっていない。歩いているのは一人のようだ。

 靴音はお屋敷の門の前で止まって、少し間を置いてから門をくぐった。玄関のドアの前で音がやんで、ノックの音。それに続いて、聞き覚えのない男性の声が聞こえた。リビングにいたアデルちゃんが慌ただしく玄関へ向かう。

 少し間があって、二種類の声が聞こえてきた。一つはアデルちゃんで、もう一つはお客さまのもの。お客さまの声はあまり大きくなくて、しゃべりかたは穏やかだ。会話の内容は聞きとれない。

「よろしくお願いします」とアデルちゃんが言ったのを最後に、話し声は途絶えた。靴音の一つは屋内へ、もう一つは門のほうへ。前者がアデルちゃんで、後者がお客さまだ。

 お客さまは、そのままお屋敷を去るのではなくて、玄関と門を結ぶ飛び石から逸れた。あれっ、と思った。庭の隅、敷地を囲う生垣の近くで足が止まり、なにか重たいものが地面に落ちた音。持っていた荷物を置いたのだろうか。

 しばらくすると、物音が聞こえてきた。木の枝や葉がざわめいたかと思うと、金属がこすれるような音がして、なにかが地面に落下する。ときどき音がやんだり、お客さまが場所を少し移動したりして、空白が生まれるけど、基本的にはその音がくり返される。

 お客さまはなにをしているのだろう?

 根気づよく音に向きあっているうちに、庭木に道具で細工をしているらしい、と分かった。

 でも、それだけ。それ以上のことはまったく分からない。

 お客さまはアデルちゃんと穏やかに、和やかに会話を交わしていた。悪い人ではないと信じたいけど……。

 木が揺らいで、金属がこすれて、なにかが地面に落ちる。いつまで経ってもそのくり返しで、変化は起こらない。だから、お客さまが何者で、なにをしているのかは、いつまで経っても見えてこない。

 最初は気持ちが落ちつかなかったけど、聞きつづけるうちに警戒心は薄れていく。

 お客さまは、もしかすると悪い人なのかもしれない。だけど、少なくとも、今すぐに旦那さまやアデルちゃんに嫌な思いをさせる人ではない。

 そう確信したとたん、警戒心が薄れる速度は加速した。

 一定以上薄れると、物音の連続は音楽へと変化した。規則性があるような、ないような。その掴みどころのなさがなんともいえず魅力的で、なおかつ、穏やかな気持ちで耳を傾けていられる。そんな音楽に。

 音楽を聴く機会は久しぶりだと、不意に気がつく。

 シルヴィアお嬢さまがお屋敷にいたころは、音楽が身近にあった。お嬢さまは拙いながらもピアノを演奏した。「ぜんぜん上達しないから」と言って、途中でやめてしまったけど、一時期はチェロも学んでいた。

 お嬢さまが奏でる音楽を聴いている時間は、心が安らいだ。演奏をはじめる前に起きた出来事。終わったあとに待ち受けている出来事。どちらにも囚われることなく、心地よさに身を委ねていられた。

 それと同じ心地よさを、今、わたしは感じている。

 たぶん、お客さまは悪い人ではない。

 あくまでも世間知らずの範囲内だけど、音楽を演奏する悪い人を、わたしは知らない。

 窓から射しこむ温もりと、庭からの調べに誘われて、わたしはやがて眠りに落ちた。


 窓ガラスがノックされる音で目が覚めた。

 毛布が敷かれた寝床の中ではなくて、硬くて冷たい床の上にわたしの体は横たわっていた。ゆっくりと上体を起こすと、背中がほんの少し痛んだ。

 寝起きのぼんやりとした意識の中、響きつづけるノックの音を聞く。急かすのではなくて、手招くようなリズムだ。視線の先にはドアがある。音はそれとは正反対、窓のほうから聞こえてくる。

 誰が窓をノックしているのだろう。なにが目的でノックしているのだろう。

 わたしを呼んでいる? そんなはずはない。わたしに用がある人なんて、この世界には存在しない。寝ぼけているせいで、聞こえるはずのない音が聞こえているのかもしれない。それとも、寂しさのあまり、「わたしを訪ねてきてくれた誰か」を、心が勝手に作りだしたのだろうか?

 ただ音に耳を傾けるだけでは、気配に神経を尖らせるだけでは、世界の実体はじゅうぶんには掴めない。掴みたいのなら、この目でたしかめないと。

 立ち上がって、体ごと窓のほうを向く。

 たちまち眠気が吹き飛んだ。

 窓ガラスの向こうに、見知らぬ男の人が立っているのだ。

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