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 鳥のさえずりが聞こえる。

 鳴いている鳥は、なんという名前なのだろう。寝起きのぼんやりとした意識の中、そんなことを考える。

 いつも同じことを考えている気がする。まったくと言っていいほど変化のない生活を送っているから、同じことしか考えられなくなってしまったのかもしれない。

 紙製の寝床から全身を出す。窓から射しこんだ朝日が鉄格子をすり抜けて、鳥かごの白い床を温めている。

 朝の太陽は優しい。ぬくもりの中でめいっぱい体を伸ばすと、眠気はたちまち消えてしまう。

 窓際に置かれた鳥かごの中からは、外の景色が見える。芝生のみずみずしい緑。そびえ立つレンガ造りのフェンス。顔を大きく持ち上げると、フェンスのてっぺんと窓枠のてっぺんに挟まれた、横に細長い、狭い空が見える。晴れわたっていて、雲はひとひらも漂っていない。

 この場所から空を見るたびに、フェンスと窓枠のあいだが空洞だったら、とわたしは考える。

 空洞の上下の幅は、鳥かごの鉄格子の間隔よりも広い。だから、わたしの小さな体ならくぐりぬけられる。外の世界に出られる。

 だけど、そもそもわたしは、鳥かごから出るすべを持たない。チャンスがまったくないわけではないけど、ほぼ不可能だ。

 それに、外の世界に出られたとして、どこへ行けばいいのだろう?

 シルヴィアお嬢さまが暮らしているところ。

 真っ先に思い浮かぶのはそこだけど、その場所がこの世界のどこにあるのかを、わたしは知らない。

 教えてもらったとしても、人間の掌にのるほど体が小さくて、羽が生えていなくて、世間知らずのわたしが、その場所にたどり着けるとは思えない。

 お屋敷を出ていって以来、シルヴィアお嬢さまは一度も帰ってきていない。だから、きっと、お嬢さまは遠い場所で暮らしているのだ。わたしにとってはもちろん、人間にとっても遠い場所に。

 陽だまりの中に腰を下ろす。空の青色を見ながら、鳥たちのさえずりを聞きながら、両手の指を使って髪の毛をすく。

 同じ動作を何回もくり返しているうちに、だんだん指がスムーズに行き来するようになる。だけど、どんなにたくさんくり返しても、抵抗感はゼロにはならない。つまり、この作業に終わりというものはない。ありあまる時間をつぶさなければならないわたしにとって、時間がひとりでに過ぎていくのは、とてもありがたいことだ。

 やがて、お屋敷の中の空気が動きだす。

 二階から下りてきた靴音は、新聞を回収するために外に出る。戻ってきて真っ直ぐに向かうのは、キッチン。戸棚が開け閉めされる音、包丁がまな板を叩く音、食器同士が触れあう音。朝食の準備をしているのだ。

 そうしているうちに、もう一つの靴音が聞こえてくる。旦那さまがダイニングまでやって来て、朝食をとるのだ。

 まずは旦那さまの番で、それが終わったらアデルちゃん。わたしの朝食の順番が回ってくるには、アデルちゃんが食器を洗いおわるまで待たなければならない。アデルちゃんはさっさと済ませるけど、旦那さまは新聞にじっくりと目を通しながら食事をとるので、朝食に費やされる時間は長い。

 あちらの世界とわたしがいる世界が繋がるには、まだもう少し時間がかかる。だからわたしは、引きつづき髪の毛の手入れを丹念に行いながら、そのときが来るのを待つ。

 ダイニングとキッチンを忙しなく往復していた靴音が、廊下に出た。

 髪の毛を触るのをやめて、音に注意を傾ける。靴音を奏でている人の正体も、目的も分かっているけど、自分がいるほうに向かってくる気配を感じとると、どうしても意識を奪われてしまう。

 床板を踏む音はだんだん大きくなる。わたしが暮らす部屋へと真っ直ぐに近づいてくる。今日は、どちらかといえば穏やかな歩調なので、鼓動を速めることなく待っていられる。

 靴音が部屋の前で止まる。窓から視線を切って、出入り口に向き直る。

 なんの合図もなくドアが開かれて、メイド服を着た若い女の人が部屋に入ってきた。

 アデルちゃんだ。

 顔は眠たそうではなくて、しゃっきりしている。肩までの長さのブロンドヘアのどこにも寝癖はない。やはり、今朝の彼女は不機嫌ではないみたいだ。

 仕事のじゃまにならないように、わたしは鳥かごの隅へと移動する。

 アデルちゃんはわたしをちらっと見て、アイボリーのキャビネットからごはんの袋をとり出す。鳥かごに歩み寄って、袋の口を縛っている水色のリボンをほどくと、果物の甘いにおいが広がった。透明な袋越しに、黄色、紫色、ピンク色、三色のドライフードが入っているのが見える。

 袋を小脇に抱えて、持参した鍵を鳥かごの錠の鍵穴に差しこんで、扉を開く。アデルちゃんは目でわたしをけん制しながら、もう一方の手に持った銀色のスプーンを袋の中に入れて、たっぷりとシリアルをすくう。

 そんな目をしなくても、わたしはどこにも行かないよ。

 アデルちゃんの青い瞳を見つめながら、心の声でそんなメッセージを送ったけど、言葉は返ってこない。

 アデルちゃんが部屋にいるとき、わたしは心のどこかで、彼女の一挙一動に怯えている。何事もないまま帰ってくれると、ほっとする。

 だけど、こちらが投げかけたものを受け止めてくれないのは、寂しいことだ。意味もなく叱りつけるのでもかまわないから、なにか言葉をかけてほしい。そう願ってしまうくらいに、寂しいことだ。

 ドライフードが鳥かごの中まで入ってきて、果物のにおいが強くなる。スプーンが傾いて、白いお皿は三色で満たされる。

 ごはんを装いおわると、アデルちゃんは鳥かごの扉を閉めて、ごはんの袋をキャビネットにしまう。水道から新しい水をガラスの器に注ぐ。トイレの底に敷かれた汚れた新聞紙を袋に入れて、口を縛ってゴミ箱に捨てる。ごはんが入っていたのと同じキャビネットの、ごはんが入っていた段の一つ下の引き出しから、新しい新聞紙をとり出してトイレに敷く。

 毎日している作業だから、アデルちゃんの手際はとてもいい。仕事はいつもあっという間に終わる。

 アデルちゃんは水道の栓を再び開けて、さっと手を洗う。ポケットから、オレンジ色のバラが刺しゅうされたハンカチをとり出して、洗ったときよりもずっとていねいに手を拭く。ポケットにきちんと収めるために、角を揃えてハンカチを畳む。青い瞳は、わたしではなくドアを見ている。

 部屋に入ってからまだ五分も経っていないのに、帰ってしまうのだ。わたしの世話は終わったから。この部屋にもう用はないから。

 アデルちゃんは、この家で働くたった一人のメイドさんだ。だから、朝から忙しい。朝のうちに片づけてしまわなければならない仕事を片づけるまで、休みなしに働かなければならない。そんな彼女を、ちゃんとした理由もないのに引き留める権限は、わたしにはない。

 だけど。

 それでも、アデルちゃんとお話がしたい。少しだけでいいから。たった一言か二言、短い会話だとしてもかまわないから。

 今朝のアデルちゃんの機嫌は悪くはないみたいだ。だから、話しかけても大丈夫なはず。

 いつだって、第一声がいちばん難しい。だけど、もたもたしていると、アデルちゃんは部屋から出ていってしまう。

「あの、アデルちゃん」

 ドアノブに手をかけたアデルちゃんが振り向く。わたしは上目づかいに視線を合わせる。

「今日も、いい天気だね」

 アデルちゃんは言葉の裏側を探るように、わたしの顔を見つめ返した。そして、口の片端を吊り上げた。

「外に出ないあんたには関係ないけどね」

 小さな音を立ててドアが閉まって、繋がっていた空間は分断される。靴音が遠ざかっていく。

 やがてその音が消えて、恐ろしい静けさの中にわたしはとり残される。

 わたしはその場から一歩も動けない。お皿にたっぷりと入った、カラフルなドライフードが絶え間なく発散する甘い匂いが、ひどくよそよそしかった。


 人生は先へ進めば進むほど、明るくて温かい光に包まれる。ときには暗くて冷たい影が射すこともあるけど、確実によりよいものになっていく。

 わたしがまだ幼かったころ、紙箱に入れられてウィルバーフォース家にやって来て間もない日に、この家の誰かがそんな意味のことを言っていた。

 朝目覚めても、シルヴィアお嬢さまが隣にいない生活がはじまったときは、とてもつらかった。寂しくて、悲しくて、切なかった。心が壊れそうになるたびに、あのときの誰かの言葉を思いだして、自分をなぐさめてきた。

 お嬢さまはわたしにとって、わたし自身よりも大切な人。だから、お嬢さまが幸せになってくれると、わたしも嬉しい。

 お嬢さまは「今」よりも幸せになるために、お屋敷を出ることを選んだ。

 だから、受け入れよう。寂しくても、悲しくても、切なくても、お嬢さまがいない暮らしを受け入れよう。今はつらいけど、わたしにだって、いつかきっと光に包まれるときが来るはずだから。

 くり返し、くり返し、そう自分に言い聞かせた。そうすることで、わたしはなぐさめられたし、勇気づけられたし、前向きな気持ちになれた。

 誰かのその言葉は、わたしにとって光だった。

 シルヴィアお嬢さまがお屋敷を出ていってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。

 わたしのちいさな体は、まだ光に包まれていない。窓から射しこむ日射しの中にいても、心までは明るくならないし、温かくならない。

 あのときの誰かの言葉を思いだして、自分の心を励ます習慣は、いつの間にかなくなっていた。

 振り返っても、途切れた日がいつだったかは思いだせないだろうし、思いだしたくもない。

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