1 異世界と現実と
幼い頃からやけに夢を見た。
何度も何度も同じ夢。
それでも飽きない、きれいな夢。
その夢の世界で、私は綺麗な蝶々になっていた。
***
目が覚める。
一瞬前までは綺麗な蝶々として花畑を舞っていた。
だから、決まってこのときは残念な思いが湧いてくる。
もう少しだけ、あの光景を見ていたかったな、と。
けれどこの夢を見るようになってはや10年。
この感覚にももう慣れたもの。
その気持ちを振り払って、布団から出た。
「ん……ふぁ〜……」
果たして本当の自分はどちらなのか。
人間なのか、蝶々なのか。
それを一度も考えたことがないとは言わない。
いやむしろ、何百回と考えた。
あれだけ鮮明な夢を何度も見せられたらどちらが現実か曖昧になってしまう。
けれど、もうそのことに関しては考えないようにしている。
だって、いくら考えても答えが出ないから。
いつものようなことを考えながら、既に仕事に行った母親が用意していた朝食を食べ、学校へ行く支度をする。
そして、いつものように家を出た。
けれど、扉を開いた先にあったのは非日常。
幻想的な、花畑の光景だった。
***
「え……」
言葉を失うとはまさにこのことだろうか。
家から出たら花畑が広がっていた。
その花畑があまりにも綺麗で、立ち尽くす。
そして次第に、既視感があることに気づく。
気づいたが、一体どこで見たのかがわからなくて少し考え込んだ。
「……あ」
すぐに気づいた。
ここは蝶々のときに見ていた光景だと。
なんとなく振り向けば、通ってきたはずの扉もなく、ただ花畑があるのみ。
帰れない。
そのことに気づくまで、少しかかった。
「確か、森の向こう側に街があった気が……」
蝶々としてここを飛んでいた時、何度かかなり高くまで飛んだことがある。
その時、この辺りの地形などは覚えている。
人間のときに使えるときが来るとは思っていなかったけれど、地形を覚えていれば便利だからだ。
今回はそれが役立った。
一旦私は街に向かうことを決めた。
辺りを見渡せば、右側に森がある。
ここ周辺の地理は蝶々だったときにだいたい覚えている。
だから迷わず森の方へと足を向けた。
でも、このとき私はまだ何も考えていなかった。
ここが一体、どういう場所なのかということを。
***
森にはすぐにたどり着いた。
十分ほどの距離だったから当然だ。
けれど、森に入ってからもうどれだけ経ったのかわからない。
森に入る前はまだ真上にすら来ていなかった太陽が、今はかなり傾いて沈もうとしているのはわかる。
「まだ……着かないの……?」
疲れからか、同じ道を何度も通っている可能性すら考えることができず、心はもう折れかかっていた。
先程から、狼の遠吠えなども聞こえている気がする。
命の危険すら感じる現状に、今更ながら危機感を抱く。
更に眠気すら襲ってくる。
昼以降何も食べていないからか、お腹も空いている。
その上昼前から歩き続けているのだ。
疲れも確実に溜まっていた。
もう、無理だ。
一瞬、思ってしまうと同時に足が崩れ落ちる。
そうなってしまえば後は早かった。
眠気が襲い、空腹もかなりのもの。
近くに寄ってくる足音に気を配ることもできず、その意識は闇の中へ落ちていった。
***
気づいたら、空中にいた。
喋ろうとしても、喋れない。
こういう経験は、ある。
蝶々の夢を見るときだ。
蝶々の時は人間のような口もないし、何も喋れない。
まぁ、いつもならそれで良かったし、いつもならそもそも喋ろうとなんてしなかった。
今日の光景は、いつものものとは違った。
日本の光景。
いつも生活している、田舎とも都市とも言えない、普通の街。
そこに、蝶々の自分はいた。
(どういうこと? なんで?)
混乱する。
さっきから異常事態ばかり。
これまでの経験が欠片も生きない。
とりあえず、自分の家に向かってみることにした。
羽根が疲れたら休憩し、疲れが癒えたらまた飛んで。
それを繰り返して、家についた頃には夕方になっていた。
夕方には母親も帰ってくる。
あまり愛されているとは思えない生活だった。
朝ごはんは作ってくれる。
けれど、それだけ。
昼食は食堂で買わせて、夕食は自分で作らせる。
ご飯を食べる時間もバラバラで、会話なんて最近は一週間以上会話していない。
だから、もしかしたら母親は、私がいなくなったからと言って何も変わらない生活をするんじゃないかって思ってしまった。
だから勇気が出なくて、それでも意を決して、まだ空いている自室の窓から入ろうとした。
そして、猛烈に後悔した。
今さっき、愛されていないと思ってしまったことを。
「愛梨は……まだ、見つからないんですか?」
「そんな……。じゃあ、一体どこへ行ったって言うんですか!?」
「愛梨はそんな子じゃありません! あの子は突然居なくなったりなんかしない!」
電話越しに誰かと話していた。
あの、物静かな母親が、厳格な母親が、こうも取り乱して。
突然居なくなった。
そんな自覚はなかった。
そんなこと考えもしなかった。
いや、気づきすら、しなかった。
嬉しかった。
自分にこれほどの愛情を向けてくれていることがわかって。
苦しかった。
こんな風に、その愛情を確認してしまうなんて。
たった一日だけ。
それでもこんなに取り乱している。
とてももどかしかった。
自分はここにいる!
そう言いたかった。
そう伝えたかった。
けれど今の姿は蝶々。
人と喋ることは不可能。
辛い、悲しい。
そんな思いが溢れてくる。
どうしようもない現状に涙すら出そうになる。
けれど、今の私は蝶々だ。
声も、表情すら一切変わらない。
反応なんて、できやしない。
その辛さに耐えきれず、私はいつの間にか、家から飛び立っていた。
ただひたすらに、がむしゃらに。
***
目が覚めた。
辛くて家から飛び立ったのは覚えている。
けれど、そのあといつの間にか意識が飛んでいた。
気づけば、森に舞い戻って来ていた。
「ん? お、気がついたかい?」
誰かが話しかけてきた。
あまりの悲しみと辛さで周りが見えていなくて、話しかけられるまで気づかなかったみたいだった。
「だ、誰ですか?」
「アタシはリューツ。ただの冒険者だよ」
返答を返してくれた、気が強そうな女性。
……冒険者?
知らない単語が唐突に出てきて、混乱する。
とりあえず私はこの人に救われた、ということでいいんだろうか。
「嬢ちゃんが倒れるところを偶然見かけてね。アタシの野営地も近かったし、助けてあげたんだよ」
「それは……。ありがとうございます、助かりました」
やっぱり、そういうことで良さそうだ。
「寝てる間も随分とお腹が鳴ってたよ。お腹も空いてるんじゃないかい?」
「あ……。はい。昼から何も食べてなくて」
「丸々一日食べてなかったのかい……。それなら食べな。アタシはもう食べたから気にしないで良いよ」
「本当ですか!?」
思わず、飛び付くほどに反応してしまう。
なにせお腹はもうペコペコ。
胃が痛くなるほどなのだから。
「良いよ。はい、これだ」
なんの躊躇いもなく、すぐに私へ食事を渡してくれる。
それはスープだった。
肉の出汁を使った、野菜入りのスープ。
ちょっと不格好に切られた野菜とかもあったけれど、とても美味しくてすぐに私の中へ入っていく。
数分もあれば食べ切るには十分だった。
「ごちそうさまです。とても美味しくてすぐ飲み切ちゃいました」
「そりゃ嬉しい。作った側としてもありがたいね」
そして、リューツさんは私に聞いてくる。
一体私に何があったのかを。
「……で、嬢ちゃんはなんであんなところで倒れてたんだい?」
「それは……」
蝶々云々は話さなかった。
けれど、気づいたら花畑に居て、街に向かうために森を取り抜けようとしていた、と伝えた。
異世界から来た、ということも勿論。
「気づいたら花畑に……ねぇ……。まぁ。嬢ちゃんが言うならそうなんだろうね」
「はい……」
きっと信用はされてない。
半信半疑、いやきっと一切信じていないだろう。
けれどここで何も聞いてこないところは彼女なりの優しさか。
「……ま、考えてもわかりそうにないし、とりあえず名前だけでも聞いておくよ。嬢ちゃん、あんたの名前は?」
その問いに、なんでもない問いに。
私は何か、特別なものを感じた。
「愛梨です」
少し前まではっきり言えなかった私の名前は、今だけははっきり言えるようになっていた。