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悪魔の憑いた巡礼者

作者: 別所 野不夫



 町から離れて森の中腹まで進むとベルノー修道院がある。

 四角い中庭を聖堂をはじめ、共同寝室、写本室、談話室などで取り囲み回廊を伝って行き来できるような大型の修道院である。中庭を囲っている棟とは別の離れた場所に鍛治棟、病棟、馬小屋がある。生きるのに必要なものを広い土地を使って備えていた。

 ベルノー修道院の特徴である傷跡のない白亜の石壁は清貧の生活を美しく懐に隠し込み、各棟を繋ぐ回廊のアーチ型の切り抜きからだけ修道士たちの忍ぶ様子が見え隠れする。

 修道院を訪れた者は固められた道に沿って広い庭を進み、固く閉じた小さな正面扉まで歩きながらベルノー修道院の静まった空気に隠匿の魂を感じるのだった。

 

 修道院の白亜の壁であっても天から降り注ぐ雨は素直に受け入れて灰色の染みを広げた。

 季節外れの急な雨に修道士たちは石を投げ入れられた池のように慌ただしく畑から戻り洗濯物を取り込みだした。風が温くなり、直ぐ後に雨は更に激しくなった。

 洗濯かごを抱えた見習い修道士のベルナールは規律で定められた静粛な歩きを逸脱しない範囲で急いで回廊を渡っていた。そのとき湿って生暖かい風が回廊に吹き込みベルナールの横顔を捉え、ベルナールは顔を伏せて立ち止まった。人とすれ違っただけのように風はすぐさま去り、ただ何となくベルナールは風が吹いてきた場所に顔を向けた。

 あ、と呟いてベルナールはさっきまでより急いで回廊を渡った。ベルナールの向いた先、修道院正面口から一人の人間が雨の中歩いてきていた。

 濡れた修道服が張り付いて踏み出す度に足の形を修道服が露わにする。黒いローブからは水が滴り、覆った頭を濡らしていた。それでもベルノー修道院を目指す男性は杖と共に雨の中でも一歩一歩を重くゆったりと踏み出し、急がない。体が冷えてもただ修道院を目指して歩いている。

 彼の名はアウグスティヌス。アウグスティヌスは悪魔憑きである。

 ベルノー修道院の正面扉は二段の小さな階段だけが備え付けられただけで、ひさしすらない。壁に開く機能をつけただけのように歓迎する意匠はなく、隠匿を是とする修道士にとって開く壁と変わらない。しかし、アウグスティヌスが杖で扉を叩くとすぐに扉は内側から開かれた。金髪で細身の若い修道士、ベルナールが扉の中の薄闇からろうそくの灯りを伴ってアウグスティヌスを歓迎した。

 「お入りください。兄弟ブラザー

 アウグスティヌスは扉を潜ってフードを脱いだ。雨雲で一層うす暗くなった修道院の中でゆれる灯りに照らされてアウグスティヌスの顔は痩せた頬に僅かな影を作った。しかし、堀の深い顔にまっすぐ釣り上がった眉、ろうそくの火を映す瞳の輝きは健全である。

「私はアウグスティヌス。主が賜った輝きを求めて旅をしている。兄弟。僅かな間、世話になりたい」

「歓迎します。巡礼をする兄弟。院長が院長室でお待ちになっています。まずはお着替えください」


 回廊が修道士たちの生活を繋いでいる。端々に延びた回廊もどれも一端は中庭を囲む回廊につながり、中庭を周り巡って目的地に辿り着く。回廊の天井は徹底してアーチ型に湾曲している。アーチを支える重厚な柱はさらに細い柱を表面に修飾され実体の重さを隠して軽快さを感じさせる。修飾の少ないベルノー修道院でも例外的に建築構造だけは神秘を感じさせるようこだわりぬかれていた。

 鏡映しのようにシンメトリーな中庭。回廊の中から眺められるのは十字に渡る石畳と芝生だけで飾られた正方形の中庭と反対側の回廊だけだ。柱の影から反対側の回廊をゆく自分が映ると錯覚してしまうほど特徴が亡くシンメトリーに作られている。

 ベルナールとアウグスティヌスは回廊を通って共同寝室に行き着替え、次いで院長室に向かった。

 ベルナールが扉を手の甲で叩いた。

「巡礼者の方をお連れしました」

 中から声が返ってきた。

「入りなさい」

 開けられた扉をアウグスティヌスは潜った。ベルナールが背後で扉を占めた音がした。

 ろうそくに照らされて室内の調度品には橙色の光が揺らめいている。正面の執務机から細身の老人が立ち上がった。

修道院長ファーザーのシュジェールです。ようこそベルノー修道院へ」

「クレールマレ修道院の修道士アウグスティヌス。訳があり巡礼の旅をしています」

「ふむ。父の元へ行く修道士の戒律を破ってまで旅をする理由は何なのでしょう?」

 アウグスティヌスは布袋から手紙を取り出した。

「私には悪魔が憑りついています。今もなお。この悪魔を払う奇跡を探しています」

 渡された手紙をシュジェールが開いた。片方だけ釣り上げられた眉がアウグスティヌスを疑っている。

 修道士達は手紙が語り終わるのを静かに待っている。そのときろうそくの灯りが大きく揺らめいた。院長室に隙間風はない。

 執務机のインク壺が倒れた。シュジェールは驚き倒れたインク壺を見つめ、アウグスティヌスは胸元の十字架を左手で握った。

 古い本を僅かに立てかけてある本棚に3人目の人影が生えた。シュジェールとアウグスティヌスの向かい合っている形を映す影の間に3人目の人影が居座っている。院長室にシュジェールとアウグスティヌス以外に人間はいない。

 人間のない人影は身長を天井にまで伸ばし、人間達を真上から見下ろした。影から男性の笑い声がした。

「愉快な場所だ。とても愉快だ。ここはいいところだぞアウグスト。旅とはいいものだな」

 アウグスティヌスが影に叫ぶ。

「黙れ悪魔。私の旅はお前の審判そのものだ。私の旅が続けばお前は必ず地獄に戻る」

 影が声高く笑った。本棚から本が落ちた。

 シュジェールは黙って3人目の影を睨んでいた。笑う影が自分を見つめる眼を見つめ返した。嗤う影はシュジェールの深淵へと目を合わせる。

 またもや影は笑った。椅子の脚が折れてシュジェールは背中から転げ落ちた。

「心地いいくらいだ。アウグスティヌス。私はここが気に入った。連れてきてくれたことに感謝する。ああ。愉快だ」

 アウグスティヌスが握った十字架を額に当て、祈った。十字架がより強く握りしめられる。

 影の笑い声に悲鳴が混じり、笑い声と悲鳴が小さくなっていく。影は消えた。ろうそくの火は穏やかに院長室を照らす。

 腰を打ったシュジェールを助け起こしてアウグスティヌスは言った。

「奴が私に憑りついた悪魔です。悪魔の言葉は聴かないでください」

「手紙の中身も悪魔の存在も信じてしまった。いや、聖書は信じているが、悪魔が現れたことを信じよう。そして君が我が修道院に旅した理由が分かった。『聖アントニウスの左手』なのだろう?」

「はい。悪魔を払うために私は奇跡を巡って巡礼をしています」

 聖アントニウスはベルノー修道院があるこの地方に布教に人生をかけて貢献した実績を認められ、私語聖人と認定された。と、アウグスティヌスは聞いている。歴史の浅いベルノー修道院の病気を治した奇跡の噂は遠くまで伝わっていた。噂を頼りにアウグスティヌスはベルノー修道院を訪れた。 

「左手が残されたのもこの時の為なのだろう。私達の出会いは神の思し召しだ。君は訪れたのではなく招かれたのだ」

 返された手紙をアウグスティヌスはしまった。

「悪魔は力があります。悪魔が人を傷つける前に奴を地獄に戻さなければなりません」

「手紙にも急ぎ、そして秘密裡にとあったよ。それでは明日の日が登り切る前に儀式を行う。みなが日課をしている最中に私を含めた口の固い者だけを集めて隠匿しよう。そすれば手紙の趣旨も守れるだろう」

「感謝します。院長ファーザー。」

「今日はもう休むといい。困った時は先ほどの若者に頼みなさい。優しい若者だ。力に添えるだろう。ベルナール。入ってきなさい」

 ベルナールが扉を開けた。

「この方を貴賓室に。この方が留まっている間君に任せましょう」

「はい院長。では兄弟。こちらに」

 院長室から出て中庭に沿う回廊をベルナールの後についていく。 

「ベルナールというんだね? 修道院と同じ名前でもある」

「私の名前とここの由来は同じです。私の生家が昔にこの修道院を建てたのです」

「一族の代表として入信したのかい?」

「弟が入っていたのですが、昨年病で亡くなりました。変わりに私が来ました」

「重要だが大変な決断だ」

「一族の誰かが祈りとここの財産管理しなくてはなりませんでしたから。それに私は嫌ではなかったのです」

 中庭を半周して脇道を進んだところに二人は到着した。

「ここで寝泊りしてください。」

 開けられた扉の中にはベッド一つに書き物机が一つだけの部屋。床に寝る修道院の中でベッドは好待遇だ。

 アウグストゥスはベッドに腰を落とした。そして院長室で握ってから握りっぱなしだった左手をゆっくり開いて行く。左指は赤く肉の色に爛れて焼けていた。

 ろうそくに火を移し終わったベルナールがアウグスティヌスの焼けた手を掴んだ。

「酷いやけどだ。薬を持ってきます」

「これは私が背負うものなのだ。治療はいい」

「私の良心が見過ごせないのです」

 ベルナールはねずみのように素早く姿を部屋を出ていった。

 アウグスティヌスは左手を開閉してみた。指の肉がひきつって痛んだ。

 4本の指はもう癒着して離れない。十字架を握る祈りの手として価値があるならそれでいい。悪魔を祈り鎮めると左手は焼ける。悪魔が傷つき、傷つく左手は悪魔と同化だと考え、アウグスティヌスは庇う理由を持っていないのだが、若き修道士の優しさは悪魔と旅するこの身には暖かい。

 ベルナールが戻ってきた。真剣に包帯をまくベルナールに身を任せているうちにアウグスティヌスは眠りに落ちた。


 ほどなくしてベルナールに起こされたアウグスティヌスは小雨が響く日暮れの回廊を渡って修道院室に案内された。夕食の為に静かに集まってくる修道士にまざって、部屋の一角にアウグスティヌスとベルナールは並んで座った。

 戒律を守って私語はない。労務修士がパンとスープを配って廻るとき院長が現れた。

「諸君。我がベルナール修道院に巡礼を課す兄弟が訪れている。レールマレ修道院の修道士アウグスティヌス。彼は奇跡を巡って旅をしている。聖なる左手がある我が修道院に訪れたのも神の思し召しだろう。歓迎してくれ」

 アウグスティヌスは立ち上がって一礼した。

 夕食の準備が整い、院長が代表して祈りの言葉を唱える。ろうそくが大きく揺らめいた瞬間をアウグスティヌスは見逃さなかった。

 院長のゴブレットが倒れて水がテーブルの下に垂れる。院長が祈りを止めた。

 冷たい風が吹き込んできた。ろうそくが消えいくつかのゴブレットが倒れた。

 パンと頭と服が濡れていく。なんと雨が室内に降ってきた。

 修道士たちは天井を見上げた。贅沢に設えられていた高さのある天球型の天井からどこからか小雨が振ってきていた。天井に水の染みはない。空中から雨水が降ってきている。

 アウグスティヌスは十字架を握り悪魔を鎮めるために祈った。しかし、十字架は熱くならない。雨もやまない。悪魔がアウグスティヌの中で笑った。

 修道士たちが慌て始めた中、院長は立ち上がった。

「恐れることはない。私達はただ主を信じて祈ればいいのだ」

 院長が十字を切って祈り始めた。他の修道士たちも追随する。

 ベルナールも祈る始めた。

 そのときアウグスティヌスにはベルナールから悪魔と反対のものを感じた。小さいけれど聖人と出会ったときに感じた光と同じものだ。

「天にまします われらの父よ

 願わくは御名みなをあがめさせたまえ

 御国みくにをきたらせたまえ

 願わくば御心を向け悪魔を祓いたまえ」

  雨が止んでいく。風も止まった。 

「私達の祈りが通じたようです。私達に悪魔が誘惑しようとも祈りと聖アントニウスの加護の前には帰るしかないと示された」

 修道士たちに弛緩した空気が流れ、夕食が再開された。アウグスティヌだけはベルナールの祈りを感じ取っていた。雨を止めたのはベルナールの祈りだ。

 修道院室からの戻りに先導さているときにアウグスティヌスはベルナールに話してみた。

「さっきの雨を止めたのは君の祈りだった。君から微かに聖人と同じ光輪を感じた」

「兄弟よ。感謝します。しかし偶然でしょう。まだまだ道の途中の私にそんな力はありません。聖アントニウスの加護でしょう」

「君から感じた祈りは本物だった。雨が止んだのは君が祈ってからだ」

「ならば弟かもしれません。弟は清き魂を持っていましたから。旅だった弟が御国に迎え入れられ聖人の力を貸してくれたのでしょう」

「君の弟の名前は?」

「ハルインといいます」

「ハルインに感謝を。直接伝えたいのだが」

「それでは明日ハルインの眠る場所に行きましょう。巡礼者の訪問ともあれば弟も喜ぶするでしょう」


 修道士たちは未明から始まる朝の祈りで朝日を迎える。

 湿って重い冷気が絨毯のように敷き詰められた聖堂で修道士たちは膝をついて組んだ手に聖句をささやく。アウグスティヌスも混ざって聖母子像に祈っていた。

 悪魔は昨夜から大人しい。さすがの悪魔も清貧と祈りと神聖とそして奇跡の同居する場所では大人しくなるのだろうか。アウグスティヌスの胸は久しぶりに涼やかな祈りで満たされた。

 つつがなく祈りは続き、修道士たちは聖堂の窓から差し込む朝日に包まれた。



 墓参りに来たアウグスティヌスとベルナールは地面に立っている十字架の前で祈った。ベルナールの弟ハルインは五つ並ぶ墓標の端っこで眠っている。ベルノー修道院で埋葬された5人目だ。墓地は隅っこを使われただけでまだまだ残っている平地がこれから眠る修道士を待っていた。ベルノー修道院の若さが如実に感じられる。

「弟は生まれる前から修道院にはいることが決まっていました。けれど弟は優しく信仰も厚く育ち、修道士に適格な性格だったのです。弟自身も入会を楽しみにしていました。シュジェール院長も歓待してくれ、弟は全てに祝われていたのです」

 半歩後ろに立つベルナールがアウグスティヌスに語る。

「昨年の夏こと。突然弟の逝去が手紙で知らされました。弟は朝、目を覚まさずにそのまま逝ってしまいました。弟から貰った最後の手紙も元気を伝えるものでした。まだ14歳だったというのにあまりにも早すぎる旅立ちです」

「前途を望まれた優秀な若者の早い旅立ちはどこでも話を聞く。慕われている者ほど突然に早く迎えられてしまうものだ。優秀がゆえに早く父のもとへ呼ばれてしまうのだろう」

 アウグスティヌスは十字架を額に当てて再び祈った。父のおります御国ににてこの愛された若き魂が救済され給わんことを。

 朝日が墓地と二人を照らす。雲間から差し込む斜光が森の中で膨らんで幹や叢の景色をそよ風とともにアウグスティヌスに運んだ。

 森に囲まれて修道院からも隠された墓地は故人を護るゆりかごのように生者の喧騒から切り離されている。ただ修道院の鐘のある尖塔だけが木々の囲いを乗り越えて墓地からでも見えた。

 そのとき悪魔が嗤った。

 墓地から見える鐘が大きく揺れて響き鳴った。鐘が往復してならす音が墓地の二人にも届いた。

「普段鳴らすことはないです」

「私達を呼んでいるのかもしれない。戻ろうか」

 しかし、鐘は鳴りやまない。往復を続けて青銅の響きが止まらない。アウグスティヌスは左手で十字架を握った。

 墓地を囲む森が音をたてて騒めいた。風もないのに木は枝を振り回して音をたてる。鳴り響く鐘と同じように往復して枝が揺れる。

 悪魔の嗤い声が響いた。高笑いが鐘と木の枝の音に混ざって墓地を覆う。

 ベルナールが笑い声の出所を探して首を振る横で、アウグスティヌスは十字架を額に当てて祈った。十字架が手の中で熱を持つ。

「急ぐばかりは風情がないぞアウグスト。たまにはお前も騒ぎを楽しんでみないか?」

 悪魔の嗤い声は徐々に小さくなって消えた。しかし、鐘と森は静かにならない。十字架は冷えてアウグスティヌスに応えない。

 ベルナールが十字を切って祈りだした。組んだ手を額に当ててベルナールは瞳を閉じて聖句を呟く。

 そして鐘の音も森の騒めきも治まった。

 静かさを取り戻した墓地で冷静なままベルナールは聞くのだった。

「笑い声の主があなたの巡礼の理由ですか?」

 ベルナールはもう悟っている。悟い受け入れる程の聡さがベルナールの心を乱さない。

「そうだ。だが昨日のように君の魂の前では悪魔も大人しくなるようだ」 

「僕なんかに立派な力はありませんよ。祈りが届いたのでしょう」

 鐘が一度だけなった。

「今度こそ私達が呼ばれたようだ。悪魔をいるべき場所に帰そうではないか」

 アウグスティヌスの心中に希望が湧いていた。悪魔を祓える達成感。苦しみから解放される期待。

 しかし、悪魔はなおもアウグストティヌスの魂の中で嗤っている。


 聖堂には院長シュジェールと院長より年老いた修道士一人が待っていた。

「彼はフーゴ。修道院の設立よりいる修道士で私より長くいる。彼にだけ手伝ってもらうことにした」

「ベルナールにも立ち会わさせてもらいたい。彼の祈りはなぜか悪魔の動きを鎮めるようです」

「悪魔と出会ったのかい?」

「墓地で悪魔の声を聞きました」

「ならばよかろう。ベルナール聖書を用意してきなさい」

 ベルナールが一礼して急いで聖堂を出ていった。

 聖母子像の前にシルクをかけられた台座が設置され木箱が台座の隣においてある。フーゴが木箱の蓋をどけた。院長が木箱から聖遺物を取り出し台座に寝かした。

 黄金の籠手に包まれた左腕が白いシルクに半ば埋もれている。腕の内側まで覆う籠手の隙間からは茶色い腕の骨が見え、手首から先は甲と指の背にだけ黄金の籠手が覆っている。掌と指の腹は干からびた皮の手がむき出しだ。

 『聖アントニウスの左手』。アウグスティヌスは聖遺物を見るのは初めてだった。聖書や聖杯のように神聖を漂わせる雰囲気とは異なる、人間の存在を直接ぶつけてくる威容がある。

 

 ベルナールが戻ってくるを待って儀式が始められた。

 聖母子像の前に聖遺物の左腕、さらにその前にアウグスティヌスが跪く。 シュジェールとフーゴが聖書と聖水を持ち、アウグスティヌスの両脇に立つ。ベルナールは少し下がって聖書を開いて立っていた。

 「 聖アントニウスの加護をもってアウグスティヌスに憑りつく邪悪なる悪魔を祓う。祈りと大いなる父の心はここに」

 聖書を持つ三人が聖書を読み上げる。シュジェールが聖水をアウグスティヌスの頭に垂らした。

 アウグスティヌスはつま先に冷気を感じた。冬の深夜ような突き刺す寒さが聖堂に垂れこめてくる。アウグスティヌスの息が白くなった。

 時刻は朝日が登って透明な光をふりまく午前の刻。だが、さっきほどまで外の光りで輝いていた窓は雨雲のような灰色に染まった。しかし、聖堂の内の明るさは変わらない。

 異常が起きていても聖書の読み上げは止まらない。が、読み手の息継ぎが多くなってきた。アウグスティヌスは左手に握った十字架を額に当てて祈っている。十字架は熱くならない。

 シュジェールが聖遺物の前に立った。聖書と聖水を置いて聖遺物の台座をしたから持ち上げアウグスティヌスの前まで持ってきた。シュジェールの息遣いが激しい。

 悪魔の笑い声がした。一瞬シュジェールの抱える台座が光った。

 次の瞬間シュジェールはうめき声を上げて自分の首を抑えた。台座が床に落ちる。シュジェールの足が床を離れた。シュジェールの体が宙に浮いている。

「悪魔め!いい加減にしろ」

 アウグスティヌスは十字架に強く祈った。今まで悪魔を罰してきたように。左手が灰塵になってもよいつもりで。

 十字架は熱くならない。つまり悪魔は今悪意を働いていない。

「どういうことだ」

「私はなにもしていないぞ」

 悪魔は嗤う。

 ベルナールが十字を切った。シュジェールは首を抑えて呻いたままだ。フーゴが聖水をシュジェールにぶつけた。老いて小さいシュジェールの顔がトマトのように赤い。

 フーゴが台座に収まったままの聖遺物に触れて聖句を唱えた。しかし、聖遺物が先ほど見せたような光は起きない。

 3者は祈ることしか術を持たない。祈りは通じずシュジェールは床に落ちた。苦悶の表情のまま動かない。

 外は明るさを取り戻し、聖堂内に正午前の暖かさが漂ってきた。聖書の読み上げも祈りも止まった。儀式は院長シュジェールの絶命を持って終わったのだ。

「どういうことだ」

 アウグスティヌスが空に問いかけた。

 悪魔は答えた。

「私は恨みに包まれた修道院にきてから仕事をしていないということだ。悪魔らしくないのだから褒めてほしいくらいだ。椅子の足を折ったのも。室内に雨を降らしたのも私ではない。先人の横取りをしては悪魔の礼儀に反するというものだ。全ては院長に可愛がられ死んだ墓にいる弟が院長を呪い殺したのだ」

「呪いであるなら祈りが通じるはずだ」

「ならば悪ではなかったのだろう。兄のいうことは聞いていたみたいだが、恨みには勝てないようだな」

 老人の修道士は院長の死体を見つめている。ベルナールはこぶしを固く握ってうつむいている。悪魔が嗤う。

「愉快な場所だった。とても愉快だ。楽しませてくれて感謝するぞアウグスト」

「黙れ悪魔」

  悪魔が笑いながら消えていく。悪魔が消えても凄惨な結果は消えない。

 ベルナールがフーゴに聞く。悪魔の言葉は真実なのかと。老人は答える。そうだと。

 フーゴがアウグスティヌスに聖水をかけた。

「今すぐ出て征けば悪魔であることを黙っていよう」

 アウグスティヌスは黙って一礼をした。そのまま外に歩き出した。

 ベルナールがアウグスティヌスの腕を掴んだ。

「待ってください。彼に罪はありません。罪があるのは悪魔です。聖アントニウスの加護で悪魔を祓いましょう」

 フーゴはシュジェールの瞼を閉じた。

「無理なのだ。聖アントニウスにそこまでの力はない。もしかしたらと私も思っていたがやはり叶わぬ願いだった」

 アウグスティヌスはベルナールの腕を優しく解いた。逆光の中一人で歩いていく。

 アウグスティヌスは聖堂を輝かす高い窓の下をくぐって外に出た。

 傷跡のない白亜の石壁は清貧と隠匿を乱すものを拒む。部外者になった今、聖堂入口から敷地の外までの長い庭を歩く間、背中に修道院の拒絶の視線が突き刺さる。

 正面入口でベルナールが追いかけてきた。さっきまでの落胆のすでに影はない。豊かさを増した冷静さでベルナールは現実を受け入れ生きるべき道を覚悟していた。

 アウグスティヌスはベルナールに言った。 

「もしここをでるならクレールマレ修道院を目指すといい。私のことを伝えれば受け入れてくれるだろう」

 ベルナールは首を振った。

「一族の土地がある以上私はここをでることは出来ません。なにより弟には更なる祈りと眠りが必要です。私はここで祈り続けます。弟とあなたのために」



 アウグスティヌスはベルナール修道院を出て森を歩く。

 悪魔の影が太い木の幹に映った。

「いいことを教えてやろう。金に飾られた左手は本物だ。ただ風邪を治すくらいしかできない。例え呪われ死んだたあの老人と金髪の若者が頑張ったところで奇跡はなにも起きなかった。むしろ墓の弟殿が生きていたなら私をどうにかできただろう」

 アウグスティヌスは影と向き合わずに歩みを進める。

「いいことを聞いた 。お前を祓う方法は存在するのだな」

 アウグスティヌスの木漏れ日を映す瞳の輝きはいまだ健全である。




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