Dear My Lord
僕の主であり、新人の魔術学講師……もとい引き籠もり魔導師のアリス・シルヴィア・N'・クレヴァリーは、C棟の一階、小講堂とセットになったC13研究室に居た。中庭に面していて、よく陽のあたるその部屋には、必要と思われるいくつもの実験道具の他に、色々なものが運び込まれていた。
「暮らす気ですか」
「良いだろ別に」
積まれた箱の奥の気配に視線を送ると、聞き慣れた声が返ってくる。ひと月ほど互いに忙しくて会えてなかったが、元気そうだ。
「要らないものは全部ロフトに置くよ。下は整理する」
「せっかく敷地内に職員寮があるのに、何がしたいんですか? 早く自立してもらわないと困ります」
「……徹夜」
「いきなり何? 親みたいなこと言い出して」
「おかしいんですよ、最近。時々、不安定になると言うか。そう思うと、放っておけなくて」
「そう……。それで、なんの用事だっけ」
「学校長が会いたいと」
「いつ?」
「今です」
「……イマ?」
4回ノックされ、ドアが開く。
「私が好きにしていいと言ったのは講義内容のはずだったのだが」
彼も平常運転だ。口元は少し笑っているが目は……屋内なのだからサングラスくらい取ったらどうだろう。
「あ、あぁ…… すぐ片付けます!」
「いいよ。いや、片付けて欲しくはあるが。研究室と準備室は昨日校務にやってもらったが、教室は手の付けようが無くてね。専門の業者に頼んでおいたよ。昼に来るそうだ。鍵を預けておくから」
そう言って僕の手に鍵を乗せ、一言囁くと、足早に去っていった。
昼には研究室は、人を招けるような状態になった。さっきまで箱を山積みしていたソファで授業の計画を立てていると、ノックする音が3回あった。
立っていたのは青のツナギを着た二人組。学校で雇った業者らしい。教室を開けるとそこは、何というか、やり甲斐の塊みたいな空間だった。
○
次の日、僕とアリスはその半分を教室で過ごした。階段教室には十数列、長机が三つずつ置いてあり、彼女は最前列の窓側の机の、左端に座った。
「シャロン・サンドフォードって人の教室だったんだ、7年前まで」
「あの人は家族のいなかった私を、子供みたいに育ててくれた。職員寮に居候して、毎日楽しくて、幸せだった。けど、終わってしまった。当時の技術じゃ手がつけられなくて……」
「私は、あの人がやり遺したことを全部やる。それが、一番の恩返しだと思ってる」
顔は良く見えないけど、固い何かを感じた。アリスが何かを強く言い切ったのは、初めてかもしれない。
「あの、いい雰囲気のところすみません」
開けっ放しのドアに立っていたのは事務部の人だった。広報用の写真を数枚撮らせると、すぐに帰っていった。アリスは、今度は教壇の椅子に座って話を続けた。
「魔法についての研究が一番大きいと思う。陣や式の一般化とか、素式構成の明文化とか、色々と」
「その助けになればいいんだけど」
いつの間にか、学校長がいた。抱えていた箱には何冊もの本や紙束があった。
「シャロンの残した資料だ。まだ書庫に大量に残ってるけど。君が……シルヴィアが引き継ぐと言ったら渡してくれ、と頼まれていてね。それと、コレ」
封筒と懐中時計を取り出す。どちらも少し古いものだ。
「“サンドフォードの置き土産”なんて肩書が無くても、君は評価されるべき実力を持ってる。忘れるなよ」
「……聞いていたんですか」
「そのつもりはなかったが、聞いた以上、届けるべきだと思ってね。出かける前で良かったよ」
「?」
「違うのか。正装だったから」
結局外に出た。国の東側、港から沖へ数分ほどの群島は、霊園になっている。その中のひとつの前でとまり、花を供えた。白いものを一本だけ。それがこの地域での慣習だ。墓標には『サンドフォード』と、家名だけが刻まれている。
ほんの一瞬だけ、突風が西に走った。海からとは思えないほど濃い魔素の流れが、海面スレスレを駆け抜ける。墓標の前で目を閉じる彼女を呼んだ。微かな東風の中に、誰かの気配があった気がした。気がついた途端、また風が吹き荒れて……、それから先は憶えていない。
○○
おそらくは翌日、早朝。僕は元の姿のままアリスの隣に転がっていた。減った魔力を使って身体を造り、自分の足で立つ。
「足りる?」
「……なんとか」
「あの嵐で、身体を構成してた魔素ごと吹き飛ばされたんだろうね」
「所詮、モノですね」
「モノじゃない。例え身体が何でできていても、君は人間だよ」
アリスは一人前の朝食をテーブルに並べて、そう呟く。ふんわりと焼かれたパンに具が乗せられ、一人分の食事音が狭いダイニングを満たした。
「今日は?」
「授業は3限だけです。何かすることありますか?」
「あおいお……」
「食べてからお願いします」
「青色のメモリが、机の上に」
「印刷すればいいんですね」
「あおんあ」
少し遠いA棟から教室に向かう。『A. S. N' Cleverley』と書かれた板が室番号の下でゆっくり揺れ、その下には知らない人がいた。
「……研究室に何か?」
「君が『 』か。変わらないね」
言葉を交わして初めて気がつく。ヒトじゃない、と。
「誰?」
「知ってるくせに」
人物はフードを深く被ったまま続ける。
「頼みたいことがある」
日時と場所を一方的に告げると、塵になって消えた。後には、何も残らなかった。
……………………
「さて、先ほどの“素式”についてですが」
授業が進んでいく。テーマは“基底魔術”だ。後ろの方では遠くて声が聞こえにくい。
「と、このように……も負荷も……し、……。例えば、……規模の……」
左手の上には、熱エネルギーを収束させた火球がある。ひとしきり話すと、アリスは右手を高く上げ、大きく叫んだ。
「お願いしま~す!」
「いきます!」
手を上げ返し、そのまま魔法陣を広げる。旧属性では雷。電磁気を扱う魔術だ。魔力からエネルギーを生成し、片手に集める。23人分の視線も集まった。
一方、彼女の左手の上では魔力場が不安定になり、縁のあった火球が揺らぎ始めた。状況を説明しながらアリスが人差し指で上を指す。出力を上げろとのことなので、少しずつ上げていく。雷球が少し大きくなるごとに、火球の揺らぎも増えていく。そして、ある瞬間で音を立てて割れた。このまま魔力場を傾けていても仕方がないので、直ぐに魔術を取りやめた。
しばらく語ると、アリスはまた左手に魔術を広げ、火球を出す。こちらを見て、高く手を上げ、何かを叫ぶ。え、またやるんですか?
……………………
「意思疎通くらいできると思うじゃん! 普通は!」
「そこまで深く繋げたつもりはありませんけど」
「じゃあ今まで目で会話してたのは?」
「6年も一緒にいれば何を考えてるかくらい解るでしょう、お互いに」
「大体、なんで神器なんてものに興味持ったんですか。契約しませんよ、普通は。世界征服くらいの願望があるなら別かもしれませんが」
「……知らなかった」
「知らないで契約したんですか? 神器と?」
「ごめん」
「習わなかったんですか。どうせ歴史は取らなかったか寝てたんでしょう」
「それよりも……何か隠してますよね」
コーヒーカップを取ろうとした手が一瞬止まる。
「何を考えているかくらい、か……」
コップ一杯のコーヒーを飲み干して、アリスはロフトへ上がった。取り出したのは何かの鍵。吊るすようにして見せた。
「これは?」
「昨日、霊園で、“セルマ”って名乗る人から」
セルマ……誰だろう。聞いたことがある気がするけど、思い出せない。多分、それだけ古い記憶だ。ならば、以前に会っていたとしても今はもう……。
目の前に揺れる銀色の鍵に触れようと手を伸ばして、すぐに引いた。
「どうしたの?」
「触れません。今の僕らでは、危険なだけです」
「どういうこと?」
「これは、聖遺物です。僕ら神器とは違って生きていませんが、創造物に近いです」
「でも」
「はい。普通、聖遺物は何らかの武器の形をしています。セグレスタやクラニスも。これは少し特異な例で、力を強固にする為のものです。僕が触れば、接続が深くなってしまうかもしれません」
深く精神を接続することのデメリットは小さくない。魔術の同質化も早く進むし、処理しきれなかった魔力や魔素が契約者側に逆流することもある。臓器の負担も増え、早死にすることは必至だろう。
「進化の鍵、とも呼ばれます。ペンダント型のものなら使われたことがありますが、なかなか気味の悪いものですよ」
「どうすれば……手放すわけにもいかないだろうし」
「下手に使えば死にます。というか死にました、全員。とりあえず隠しておきましょう」
○○○○
翌々日。今日は1限に授業がある日だ。普通、選択や選択必修は「午後構」と呼ばれる3~5限に当てられる。朝の9時に1限が始まり、昼休憩を挟んで夕方6時に終わる。選択と選択必修は他と都合するために、特に優先度の低い授業は3つほど枠を設けることがある。一週間が6日、うち1日が学則による休日。であれば、授業が2回ある日が存在するのは必然だ。
「1限はクラスAです。……また何か買ったんですか?」
「声が届かないなら、届かせればいいと思ってね」
「通信機……いくらですか?」
「安心して。経費で落とさせた。それより」
最後段に立つ。耳掛け型の「ヘッドセット」と称される小型のそれは、アリスの声を空気よりもハッキリと伝えた。
「テスト、テスト。It's fine today.」
「今日、どしゃ降りですけど」
「そういう問題じゃない」
……………………
クラスA、第2回。今回は、前回の“素魔術式”を結界によって保護する話だ。
『始めてください』
左手の上に、火球を出しながら言う。前回同様に手に魔力を集中させるが、結界の中の火の玉はゆらりともしなかった。
『強めてください』
周囲の魔素が収束していく。魔力場はどんどん傾いていき、火球の周囲に展開された保護結界が細かく振動し始めた。そして、ある一瞬で音を立てて割れる。強い魔力場に曝された火球は、それからすぐに揺らいで消えた。
次は手の上に魔法陣が重なって現れる。珍しくもない初等魔術だ。一つは魔法を発現させ、もう一つはそれを結界に閉じ込める。
『揺らしてください』
「揺らすって……どう?」
『魔力場に波を作れれば、それで。魔法でもいい』
こちら側に大きく触れて止まっている検素器が、今度は前後に揺れ始めた。魔術は魔素や魔力を吸い集めるが、崩壊しない限り放出しない。つまり、魔術を中心とした負の魔力場は作れない。どうしても「波を」というなら、確かに魔素や魔力に直接干渉できる“魔法”の出番だろう。
左手の手の上の丸い結界は、いくつも置かれた検素器に合わせてゆらりと揺れる。その度に高く震えるような音が教室に響いた。少しずつ大きくなり、音もなしに割れてしまった。
……………………
色々な場所に置いた検素器を一つずつ回収する。他20人が次の授業に向かう中、窓際の席に座っていた男女二人は2限の始鈴が鳴っても残っていた。ヘッドセットを外したせいで聞こえないが、何かについて話し込んでいるらしい。準備室へ片付けて戻ってきてもまだ続いていた。
1番古いC棟は平屋で、13の教室と研究室がある。教室には東側に上下に動く黒板があり、固定された長机が3つ×16列、階段状に並んでいる。中央は四人席。両隣を通路が伸びて、全体で160もの席がある。
通常、この棟の研究室の椅子には“権威”ある者が座れることになっている。『大魔導』とも称されたサンドフォード教授も例外ではない。13番目の椅子が7年も空席だったのは、大魔導とその功績に敬意を表してのことだろう。25歳の若造が座るなど、強引に割り当てられたとしてもありえない。“未だ”何の実績も実力も見せないアリスに、学校長は何を期待したのだろうか。
研究室のドアプレートを『在室』に差し替えて長椅子に座る。次は5限、クラスCの第一回の授業だ。人数は……7人だっただろうか。AやBと比べてずっと少ない。と言えどもすべきことが変わるわけではないが。
目の前にあるのは殺傷性の高い魔術の使用についての申請書と、始末書。昨日の昼、学内最強と名高いギルベルト准教授と「許可なく」第2闘技場にて一戦交えた末に「殺傷性レベル37」の魔術まで連発し、内壁を5,6ケ所ほど、「結界ごと」破壊したらしい。アホか。聖遺物である双剣、セグレスタとクラニスまで召喚したことは不問……というか秘匿されたらしいが、学府の外でやれば懲役じゃ済まなくなるだろう、確実に。
「何がしたいんですか?」
「……つい」
キレるというより、呆れる。長い間生きてきて、自分の持ち主を目の前へ正座させるなど初めてだ。今回ばかりは手元へ再召喚されなくて良かったかもしれない。
「さっさとコレ書いてください。他はやっておきます」
紙を渡して、ペンを握らせる。残った書類はどれもこれも助手が書くものではない。使い魔ならあるいは……いや、無いか。どちらかといえば、
「保護者……」
「相棒だろ?」
「道具ですよ」
「いや、……」
「解ってます、中身は人間と何も変わりません。けれど、そういう契約を結びました。腕となり、盾となり、魔法を与える。代わりに魔力を貰う。魔力なしに魔術は扱えませんが、魔力があっては魔法は行使できません。互いの利益の為の契約でしょう?」
僕は人のフリをするため、彼女は強大な力を手にするため。
……そのはずだった
「何で、人間になりたいの?」
「手段として必要なだけです。それ以上は言えません」
「『回収率』って何?」
咽た。
「それも……例の『セルマ』ですか? 一体どこまで」
「『器の記憶』『先代』『真理』『13番目』『カノープス改変』、それから……」
「話す! 話しますから!」
聖遺物は人が作ったもの。本来そこには、それ以上の性能はない。けれど、神器に宿る「魂」の一部が入り込むことにより、特別な力が宿ることがある。国一つ滅ぼすこともあれば、救うこともできる。要は使い方だ。同じ起源を持つ聖遺物は、近づきすぎると不安定になる。強め合ったり、弱めあったり……。
欠けたものは引き合う。引き合うものは出会う。出会えば埋まり、満たされる。以前は……カノープス改変で世界の真理が作り変えられる前は、聖遺物の場所を簡単に把握できた。それ以降も、他の神器達は自分の聖遺物をなんとか探し出している。けれど、僕のそれは、未だに一つも見つからない。
「つまり、聖遺物を回収する為に契約しているだけで、この姿を取るのは生活能力が皆無のあなたに死なれたら困るからです。尤も、僕もどれだけ耐えられるか判りませんが」
「自分のせいだろ」
「否定しません。それと、ドアはノックしてから開けるものですよ」
かつてグラムと名付けられた聖剣は、朱い髪の少女の姿で立っていた。「はーい」と生返事でドアを閉め、声のトーンを変えて言う。
「……ラナが死んだ。三日前に」
「ラナ……あのラナが?」
「やっぱり、末っ子から聞いてないのか。ここ数年で、神器が次々死んで……いや、消えた、のほうが良いか。とにかく、早く帰ろう。もう、多分、誰も残ってない」
「どういうことですか?」
「消されたんだよ、器の記憶が。これはもう、ただの『本』だ。意識も記憶も戻らない」
手には装飾された本があった。革張りで金細工の施された、高級そうな本。最後に見たのは数百年も昔だけれど、確かにそれは「ラナ」だった。
「あの……」
アリスが口を開く。「何?!」と聞き返す声が重なった。
「……どちら様?」
僕と彼女との間を目線が動く。そこで初めて、『聖剣』とアリスが初対面であることに気がついた。
「彼女も神器です。ええと……」
「契約者だろ。知ってる。――ちょっとコイツ借ります」
「場所を変えましょう。するべき話……というか、相談があります」
転移魔法を広げる。あっという間に僕らを光の輪に包んで、別な空間に飛ばした。
……………………
開いた場所は、文字通り何もない、新しい世界だった。床を造り、丸椅子を二つ出す。グラムは座りもせずに持論を述べた。
「私は、神は彼女だと思う」
「彼女って、アリス?」
「他にいないでしょう」
「まあ、確かに」
「あと、コレ」
魔導書を見せられる。3日前から残っている魔力の残滓を一つずつ照合すると、アリスのそれと一致した。
「なるほど」
「でしょ?」
「ですが、これだけではアリスの“肉体”がその場にあったということしか――」
「どういうことよ」
「先代の神は地上に対して全能でした。僕らが神の器を壊したあとでも、その力が失われていなければ、精神を抑え込んで乗っ取ることも容易にできるはず」
「自分のご主人サマがあのクソ野郎に操られてるって言いたいの?」
「妥当かと。自分を殺した相手に冷静な態度は取れないでしょう」
「じゃあ、彼女が、自分の意志でやった線は?」
「動機がありませんね。そもそも僕らが何か、を理解してなさそうですし」
「契約……はバレるか。やっぱり離れたところで操ってるのかなぁ」
グラムが腰を下ろした。ラナ、もとい魔導書はどこかに仕舞ったらしい。
「内側ですよ」
「精神ってこと?」
「魂ですね。他者の魂に入り込むことで、中から操るんです。僕の存在の不安定さが解消されたのも、元神によって魂が補強されたことからでしょう」
「なるほどね。それで?」
「要は、同じ身体に2つ魂が入っているということです。片方だけを消す方法があればいいのですが」
「契約を交わしているなら、お互いに傷つけることはできないんじゃない?」
「……なら、進化の鍵、ですか」
「持ってるの!?」
「はい。三日前、『セルマ』と名乗る人物から受け取った、と」
「……使おう。切り離すだけならできるはず」
……………………
元の世界に戻ると、もう昼になっていた。反省文は署名までされていて、他の書類も半分以上終わっている。
「言うほどポンコツじゃなくない?」
「いつでもコレなら言うことなしですけどね」
豪雨の音に紛れるように、ドアがゆっくりと開く。アリスだった。突然、彼女は――いや、もう、ソレと言うべきかもしれない――左手でグラムの胸ぐらを掴んで持ち上げた。足が浮く。それから、唸るように低い声で、
「聖剣など、創らなければ……」
と。ソレは右手に黒い球体を形成する。それが、とても「良くない」ものなのは判る。近づくな、逃げろ。全身がそう警告しても、身体は動かなかった。ずっと頭の中で、助ける方法を考えている。
「そこまで」
ソレの真後ろに立ったのは一昨日、研究室の前に立っていた人物だった。フードを深く被ったまま続ける。
「それが実の子に言う言葉かよ、父さん」
振り向くより速く、人差し指を背中に付き立てる。途端に“ソレ”の動きは封じられる。
「『手を離せ』、誰の姉だと思ってる」
抗いながらも左手は緩み、グラムが開放された。今だ、と、カギ型の『進化の鍵』をソレに向かって投げつける。
――真理と鍵の契約に従い、内なる力に覚醒を!
神器と、その契約者の間の契約が強化される数秒間、他者の侵入が絶対的に不可能な亜空間が展開される。即ち、アリスに張り付いたソレは否応なしに引き剥がされることになる。鍵から放たれた光が僕らを包み、繋げる。アリスの目が覚めないまま手順が終わった。その間にソレの魂は弟が捕獲したらしく、小瓶を揺らしながら近くの闘技場を聞いてきた。
闘技場。この学校には、そう呼ばれる施設が二つある。大きい方では今日も新入生の運動部の勧誘イベントが行われ、人が集まっている。逆に小さい方には誰もいないだろう。つい最近の爪痕も修復済みのハズだ。
「じゃあソッチ。兄さん達はすぐ向かって。追いつく」
右、右、左。真っ直ぐ行って左。2番区を目一杯使った敷地の端の端、第2闘技場まで走った。案の定、人の影はどこにもない。本当は事前に申請するべきだけど、火急だから仕方ない。ゲートをすり抜けて楕円形の闘技場へ滑り込んだ。魔力を流して結界を起動させると、半透明の壁がドーム状に広がって閉じていく。
灯りが点いた。フィールド全体が晴れた夏のように照らされ、逆に客席は暗く沈み込んでいく。篭った雨音や雷鳴も遮断され、乾いた空気と人工光が土の上を満たした。
「それで、文字通り閉じ込めた訳だけど、どうするの?」
ソレの入った小瓶を、投げ上げながらグラムが言う。
「必要があれば殺すだけです」
「そっか……」
「まさか情でも」
「いいや、“全能”の一部でも喰えたらなぁ、と」
「貪欲……気にかけて損しました」
「うっさい」
小瓶が高く投げ上げられる。ちょうど最高点に達した瞬間、弾けるように小瓶が爆ぜた。黒い霧は逃げ惑うように結界の壁を這い回る。出口がないことを悟ったのか、或いはこの結界の主が僕であることを読み取ったのか、霧は僕らの周りを2、3周して、眼の前に渦巻いた。
獣だった。大きく、真っ黒な狼のような姿でソレは実体化を始めた。今にも噛み付きそうな目で二人を睨む。鼻先から尾へ向かって、微粒子が可触な存在へと変換されていく。
昔は神獣と呼ばれていた。言わば即席の生命で、恒常的なヒトや神器とは違い、不安定で強力な、神の使いだ。だが、所詮作り物の身体に偽物の生命。どれだけ精巧に作っても一日のうちに消えてしまう。追放された元“神”が作ったのなら、尚更早く……。
神獣が息を吐いた。風が僕らを通り抜ける。無論、生暖かくなどない、ただの風だ。
「神獣……、いや、神獣崩れか。そんなので私らに勝てるとでも――」
「勝てますよ、神獣なら。ですが中に神崩れがいる以上、この神獣崩れが神格を持つのは必然。負けることはありません」
「『理論上は』?」
左手の人差し指で空を指した。
「いいから、さっさと片付けましょう」
神獣の口へ黒いパーティクルが集まり始める。先程の球体が出来上がる。一人なら対処はできない。けれど、二人なら。
至近距離で放たれたソレを、片手で受け止め、飲み込む。不味い。魔法を分解して魔素を練り、再構成する。
「打ててもあと一発ですね。かなり高密度な――」
「いいから。行くよ」
繋いだ手を解き、左右へ回る。空いた右手を空に掲げ、魔法を編み上げる。即時発動できない僕は無視して、グラムに対応しているようだ。機動力のある彼女も対神用の魔法を持つ以上、応じないわけにはいかないだろう。足止めしているうちに、できるだけ強く、精緻な魔法を……!
腕を前に倒す。呼応して、頭上に組まれた陣が僕と神獣崩れの間に割り込んだ。ゆっくりと回転するそれに、魔力と魔素を流して安全装置を解除する。2つ、3つ、4つ……。
おおよそ半数の魔法陣に魔力が流れた頃、神獣崩れは突然に姿を霧へと変えた。不可触粒子になられては、当たる剣も当たらない。当たらない……聖遺物ならどうだろう? アリスの持つ双剣なら、鍵を使った今であれば再召喚できるかもしれない。
急いで左手に召喚術を組み立てる。……呼応する感覚はあるから、多分繋がっている。塞がっている両手の代わりに魔術を使って抜身の剣を飛ばした。
「グラム!!」
「……やっと、揃った!」
――引き合うものは出会う。出会って、揃えば、――全力。
彼女は二本の分身を大きく振り上げ、斬り下ろした。霧状の魔獣が両断される。悲鳴を上げる間もなく切り刻まれる。切られた粒子は跡形もなく光へ消えてしまう。
「あ、逃げるな!」
優勢も一瞬。斬るスピードが落ちた瞬間、魔獣は間合いから抜け出して、上へ逃げてしまった。誰だって殺されかかれば逃げるだろうに。
「撃て! 兄さん!」
出入り口にはフード男、もとい現“神”が立っていた。言われるがまま、右の掌を頭上へ向け、回る陣を固定していく。残り4つ、3つ、2つ……。
魔法陣が淡く光る。魔力と魔素が、先端の陣の中央に収束していく。絶対に倒せるだけのエネルギーを溜め込んで、放った。
光の筋が霧を包み、溶かしていく。あれだけかけて構築した魔法は、あっという間に崩れて消えた。僕らもまた、膝から崩れ落ちた。
「さて、次の仕事の話をしよう」
余韻も味わわせずに神は告げる。
「グラム。アロン。二人には聖遺物の回収をお願いしたい。これは弟としてじゃなく、上司として。あれは人間には過ぎたる力だ」
「あれらをどうするか、はこれから考える。一連の騒動で神器が降りられる器がほとんど消えてしまってね。他に回収を任せられるような者がいないんだよ」
「器だけ? 中身は?」
「無事だよ。直前にこっちへ移せた。ああでもしないと、姉さんは本気出さないから」
「アロン?」
「ええ、全部。アイツが器まで壊すのは予想外でしたけど」
「詳細はラナを通して伝える。帰るよ、姉さん。兄さんにはまだすることがあるから」
「……コレ。預けとく」
グラムが差し出したのは双剣だった。セグレスタと、クラニス。創られてすぐ、神によって分割された、彼女の魂の一部。
「あんたが選んだなら、信じる」
魔素粒子が二人を中心に回りだす。転移とは別の魔法で、二人の姿はどこかへ消えた。後には荒れた地面と、真新しい補修跡の目立つ内壁が残った。
僕の主であり、新人の魔術学講師、アリス・シルヴィア・N'・クレヴァリーは、C棟の一階、小講堂とセットになったC13研究室に居た。湿気を払うように陽が差し出した午後の中、片付いた机の上にコーヒーマグを載せて、僕を待っていた。
「ねぇ、フィリップ。君は……誰?」
と、外を見ながら呟くように問う。
「僕は聖杖・アロン。今は君の、かつては『大魔導』と謳われたシャロン・シルヴィア・サンドフォードの、相棒」
――4日前、学校長が僕に伝えたのは、シャロンからの言伝てだった。それは僕宛で、アリスにも、他の誰にも伝えるべきことじゃなかった。だから、隠しておくことにする。