京都
平成八年五月。私たち夫婦は結婚して満六年目を迎えようとしていた。一男一女の子供に恵まれ、今は二人とも幼稚園に通っている。そして妻直美のお腹の中では三人目の子供が誕生の時をじっと待っていた。
もう予定日を一週間ほど過ぎているので、いつ生まれてもおかしくないと担当医は言っており、少しでも兆しがあるときにはすぐに病院に行くことになっていた。そして、何か変わったことがあったらすぐに職場に連絡が来ることになっていた。
その日は夜勤明けで、そろそろ職場を出ようかというところに母から電話があった。
「修。直美さんいよいよみたいよ。これから実家のお父さんの車で病院に行くから、修は真っ直ぐ病院に向かって」
「うん、わかった。子供たちは」
「大丈夫よ。今し方幼稚園バスに乗っていったから」
「そうか。じゃあこれから行くから、よろしく」
と、私は車で三十分ほどの所にある病院へ向かった。お医者さんは何時生まれてもおかしくないって言ってたなあ、パパが行くまでママのお腹の中にいるんだぞ。まだ見ぬ赤ちゃんに呼びかけながら急いだ。
産婦人科病棟という所は他の病棟と比べて、何て明るく和やかな所なのだろうといつも思う。ミルクの甘い匂いを嗅ぎながら妻のいる病室へ向かった。
病室のドアを小さく開けて覗いてみると、妻はベットに横たわっていて、入り口に立つ私の方を向いて、
「早かったね」
とにっこり微笑んだ。
「もう生まれたのかと思ったよ」
と言うと、妻は側に付いていた母と二人で、「まだ大丈夫よ」
と小さな声を出して笑った。
妻は、時折訪れる陣痛に耐えていたが、その周期が次第に短くなってくると、お医者さんから分娩室に行くように指示が出て、必要な荷物を持って分娩室に入った。
私は公衆電話で妻の実家の父母に分娩室に入ったことを伝えた。幼稚園に行っていた子供たちは妻の父が車で迎えに行って、そのまま実家に預かってもらっていた。赤ちゃんが生まれたらみんなで病院に来ることになっていた。
どの位待ったのだろう。そんなに長い時間ではなかったと思う。ただ一緒に待っていた母が何時になくそわそわしていて分娩室の前を行ったり来たりしていたことが思い出される。
午後三時三十分、私たち夫婦の第三子が生まれた。女の子である。ナースセンターのベビーベットに入れられた我が子とガラス越しに対面する。そのとき、妻の父母が子供たちを連れてやって来た。
「おじいちゃん、こっちこっち」
と、長男がお祖父ちゃんの手を引っ張っている。
「お兄ちゃん、待って」
と、その後に続いて長女がお祖母ちゃんの手を引っ張って近づいてきた。そして、その後ろにもう一人いた。あれえ……。
ナースセンターの前に大勢が顔を合わせた。妻の父母、私の母、長男長女、私。そして何故かそこにミエコ姉さんがいたのだった。
「修君、ここに来る前に子供たちの玩具を取りに家に寄ったんだ。そしたら、ちょうどこの方がタクシーから降りたところでね。話を聞いてみたら修君の従姉さんだと言うじゃないか。それで、事情を説明してここにお連れしたんだ」
と、義父が説明してくれた。ミエコ姉さんは、申し訳なさそうに、
「すみません、こんなときに」
と実家の父母に何度も頭を下げていた。
「それはそれはお父さんありがとうございました。まあ、ミエコさんの詳しい話は後で聞くことにして、ほら、皆さん赤ちゃんが待ってますよ」
と、母。
赤ちゃんの方を見たら、その前にはいつの間にか長男と長女が陣取っていて、ガラスに顔をぴったり付けて生まれたばかりの自分たちの妹を興味深げに見ているのだった。
「顔、赤いね」
「目、つぶってるね」
「手、小さいね」
「足も小さい」
子供たちは、観察に余念がない。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんたちは、
「赤ちゃん、こんにちは」
「赤ちゃん、かわいいね」
と、目尻が下がりっぱなしである。ふと見ると、ミエコ姉さんもお祖父ちゃんたちと一緒になって、ガラスの向こうの赤ちゃんに愛想
を振りまいている。
赤ちゃんのことはどれだけ見ていても飽きることはなかった。だが、決められた時間もあるし、妻のことも心配だったので、子供たちを連れて病室に行ってみることにした。勿論ミエコ姉さんも一緒に。
妻は、大仕事を成し遂げた安堵の表情を見せていたが、子供たちの顔を見ると、ぱぁっと明るい顔になり嬉しそうに微笑んだ。そして、
「どうだった。赤ちゃん可愛かった」
「うん、可愛かった」
「手、小さかったよ」
と子供たちとの会話を楽しんだ後、ベットを囲んだ一人一人の顔を見て、
「みんな、ありがとう。ありがとう」
と繰り返した。勿論、ミエコ姉さんにも。
妻は子供たちともう少し一緒に居たかったようだったが、晩ご飯の時間にもなっていたので、後は実家のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんにお願いすることにして、私たち五人は家に帰ることにした。私の車に乗ると、母がすぐに口を開いた。
「ミエコさん、こんなときだから、何にもお構いできないけど、泊まっていってね」
ミエコ姉さんは、小さくなって、
「すみません」
というばかりだった。
その日の夕飯はあり合わせのもので済ませ、子供たちを風呂に入れて早々に就寝した。私は妻と赤ちゃんのためにもう一日休みを取っていたが、子供たちは明日幼稚園があるのだ。ミエコ姉さんは今回も母と枕を並べて寝ることになった。
その夜、ミエコ姉さんが、また母に何か困り事を相談することは分かり切ったことだった。また金策なのだろうか。二度あることは三度あるというではないか。と、私は子供たちを寝かせ付けた後、今度はどうなるのだろうと考え始めたのだが、当直開けの疲れた体は、そんなことには有無を言わせずに眠りに入っていくのだった。
次の日はいつもよりも少し遅く起きた。ミエコ姉さんは既に起きていて母の台所の手伝をしていた。私は二階に寝ていた子供たちを起こして来て用意された食卓に着いた。
ミエコ姉さんは初めての食卓でも慣れたものだ。
「幼稚園、楽しい」
「トトロ、見た」
「あら、まだ見てないの、お父さんにお願いしたら」
と、いつの間にか子供たちと仲良しになっている。
幼稚園バスに乗るときには互いにバイバイなんて手を振ったりして、子供の心を掴むのが上手いんだな、なんて、またもや絶妙なタイミングの悪さで現れたミエコ姉さんの知られざる一面を垣間見た気がした。
子供たちのバスが見えなくなるまで見送り二人っきりになったとき、ミエコ姉さんは私に、
「修君、ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかなあ」
と話しかけるのだった。
子供たちの幼稚園バスを送ったらすぐに妻と赤ちゃんに会いに行く予定だった。だから、本当はミエコ姉さんの相手は母に任せ自分は早々に病院に向かいたいところだったのだが、是非私にも聞いて欲しいというミエコ姉さんの申し出を簡単に断ることは出来なかった。
家に入ると母は朝食の後かたづけを終えたところだった。
「さあ、一休みしましょう」
と、母が二人にお茶を勧めた。
テーブルに座ったミエコ姉さんと改めて向き合ってみると、あの大晦日の夜に突然訪れたミエコ姉さんとは別人なのではないかと思えてくる。
あのぎらぎらとした脂ぎった情熱のようなものが感じられないのだ。肌に張り合いがなく瑞々しさが足りない。それだけ年を取ったと言えばそれまでだが、生きる事への執着とでも言えばいいのか、あの時の愛するご主人のために形振り構わず金策に訪れたしたたかさは微塵もなくなってしまったようだ。あの無造作に後ろにまとめていたセミロングの髪はショートヘアとなり目立たない栗色に染められていた。洗いざらしのジーパンに白いトレーナーは小ぎれいな印象を与え、体格も一回り小さくなったように感じられた。
ミエコ姉さんは、お茶を一口啜るようにして飲むと、静かに話し始めた。
「伯母さん、修さん。あの時は本当にごめんなさい。大晦日の夜にお邪魔したりして。あの時は私、他の方法を考えることもできなくて」
「いいのよ、ミエコさん」
という母の言葉の後に、私も大きく頷いた。
ミエコ姉さんは私たちの反応を確認したのかどうか分からないくらい表情を変えずに淡々と話し続けた。
「あの時、主人は佐久間商事という小さな会社を経営していたんです。会社といっても従業員は主人と私だけ。扱っている商品も様々で、贈答品、日用品、電化製品など何でも扱っていたんです。何でも扱っていたと言えば聞こえはいいんだけど、客様からご依頼があった品物は何でも扱っていた、と言った方が正確かもしれません。主人は会社を興す前、卸売り会社に勤めていたんでそれなりに人脈があったんです。だから、お客様の要望に応えることが出来たんです。」
ミエコ姉さんは少し誇らしげに話した。そして話す言葉もいつの間にか「ですます調」になっていた。身を正して礼節をもって話そうとしていることがよく分かった。
「主人は本当に誠意のある仕事をしていました。お客様が石鹸が欲しいと言えば一箱からでも商売していましたから。大きな儲けはなかったけれど、私と二人して暮らしていけるだけの仕事はさせてもらっていたんです。ところが、あの人、欲が出たんですね。昔の仕事仲間からこれは売れるからという話があって、あの『ポータブル家庭用サウナ』を大量に仕入れたんです。確かにあの頃は温泉ブームの走りであちこちでサウナ付き温泉がオープンしていましたから、興味を示すお客さんも沢山いたんです。でも需要はそれほどなかったんですね。会社の倉庫には売れ残りのサウナが山積みになっていました。あの人、なんとか売りさばかなければと必死でした。そして、私も少しでも力にならなければと駆けづり廻っていたんです。」
「それが、あの時だったんですね」
と、私は事の真相を知り胸の支えが取れたように発したが、ミエコ姉さんは表情を変えなかった。ミエコ姉さんの話は更に続いた。まるで小説のように展開していく。
「結局、私たちに残ったのは借金だけでした。だから、赤ちゃんを流産したのは正解だったかもってあの時は思いました。夜逃げに子供を巻き込まなくてよかったんですから。私たち二人は知り合いのいない土地を求めて逃げました。東京までは何度も行ったことがありましたが、そこから向こうは未知の土地でした。東海道本線を乗り継いで西へ向かうと乗客の言葉が少しずつ関西弁になっていくのが面白くてあの人と二人でクスクス笑いました。何日も必要以外の会話をしていなかったのに、可笑しいですよね。そんな他愛ないことで二人して笑うなんて。そして、私たちが最後に電車を降りたのが、京都駅だったんです」
何故京都に降りたのか。それは私には分かりません。そのときの私は佐久間の後を着いて行くことしかできなかったのですから。名古屋から大阪に向かう電車の中で、佐久間が高校の修学旅行で京都に来た話をしたことがあったので、それがきっかけになったのかもしれません。佐久間はこんなことを話していました。
「俺は地元の工業高校に入ったけど、ろくに勉強もしない悪ガキだった。いろんな神社仏閣を見学したけれど、よく覚えていない。ただ一つ覚えているのが新京極なんだ。唯一の自由時間でね。友達数人と徒党を組んで歩いていたら、向こうから同じように学生服を着た連中がやってきた。どっちから仕掛けたのか、眼を飛ばしたとか、肩がぶつかったとかで、ケンカになったんだ。よくある話さ」
その話を聞いて私も高校に行っていたら修学旅行で京都に行ったんだろうなと思いました。そして、ケンカしたことしか覚えていない佐久間のことが可笑しくて思わず吹き出してしまいました。佐久間は少し伸びた無精髭の顔を私に向けて、何が可笑しい、と私の額を人差し指で小突きました。
電車は京都が近づくにつれて混雑してきました。京都に観光に来た人たちなのでしょうね。大きな旅行鞄が車内を余計狭くしていました。息苦しくなるほどの混みようです。私たち二人は座席に並んで座っていましたが、上から覆い被さるような感覚に閉口していました。我慢出来なかったんでしょうね。大津を過ぎたあたりで佐久間が呟きました。
「京都で降りよう」
と。行くあてがないという事はこういう事なのです。目的がないから何時でも何処ででも行き先を決めることが出来るのです。ある意味では気楽な旅だと言えます。そのまま浮き草のように漂っていることができるのであれば。
京都に着いたのはお昼頃でした。夏の京都は暑いと聞いていましたが、電車を降りたときに、その暑さを体感することが出来ました。黙っていても汗が滴り落ちるてくるのです。 駅舎から出るとすぐにバスターミナルがありました。そこに並んだ人の列、人の波といったら普通のものではありませんでした。しかし、そこに並んでいる人たちは皆明確な目的をもっている人たちなのです。私たち二人はそこに並ぶことさえできないのです。
佐久間が呟きました。
「ミエコ、涼しくなるまで待とうか」
私たちは取りあえず市バスの時刻表を手に入れて冷房の効いた待合室に身を寄せることにしました。その暑さは日が落ちてからも続いていました。
しかし、私たちは意を決して京都の街に出ることにしました。バスターミナルには夕方になっても長蛇の列が続いていました。どの乗り場案内を見ても、京都の有名な地名や神社仏閣の名前が掲げられています。私たちはどのバスに乗ろうか迷いましたが、どうせ行くあてのない身です。
「ミエコ、これにしよう。祇園て書いてあるから」
と、佐久間が祇園・平安神宮と書いたバスに
乗ることに決めました。
道路は渋滞していましたが、バスは比較的すいすいと進んでいきました。碁盤の目のようになった道路の角を一つ右折してしばらく行くと、道の両側が昼間のように明るい一画を通りました。歩道を歩く人、人、人。信号待ちでバスが止まるとスクランブル交差点を人の群れが縦横斜めに行き交います。
「なんじゃこりゃ。東京と変わらないじゃないか」
「ほんとね」
「さすが観光地だな」
「そうね」
と、二人とも自分たちの身の上も暫し忘れて少し興奮気味に声を交わしました。そして、バスが少し進むと、
「ミエコ、降りるぞ」
と、急に佐久間が言い出しました。
「えっ、どうしたの、いきなり」
と私は驚いて言いましたが、佐久間が決めたのですから私は付いて行くしかないのです。
私たちが降りたところは、四条河原町でした。佐久間は車窓から「新京極」と書いた大きな看板を見つけたのです。それは修学旅行で唯一記憶に残っていた新京極商店街の入り口だったのです。
「わあ、懐かしいなあ」
「何年ぶり」
「そうだなあ。あれから二十数年はたっているかな」
「ずいぶん昔の事ねえ」
「ミエコ、腹減ったなあ。何か食べようか」
考えてみたら、私たちは朝名古屋駅の立ち食いそば屋で掛け蕎麦を食べた切りだったのです。
私たちは安い食堂を探しながら新京極商店街を歩きました。「大衆食堂扇屋」という看板を目にし、神様の思し召しと思いましたが、それは私たちの勘違いでした。その大衆食堂の最低ラインはワンコインを遙かに上まっていたのです。結局私たちは福島でも何度か食べたことがある牛丼屋さんで夕食を済ませました。
苦労したのは宿泊先です。元々ホテルとか旅館に泊まるつもりはありませんでしたが、せめてお風呂に入って手足を伸ばして眠りたいと思っていました。私たちはこれまでと同じようにカプセルホテルを探しました。ところがないのです、京都にはカプセルホテルが。それでも二十四時間営業の健康ランドを見つけて無事そこに一泊することが出来ました。 一晩二晩だったら構わないのですが、次第に私たちの持ち金にも底が見えてきていたので、佐久間も内心気がきではなかったのでしょう。いつも風呂上がりに飲むロング缶を三五缶に換えたあたりから何だか元気がなくなっていったように思います。
私たちは次の日から仕事を探して歩きました。とは言っても住所不定の身。表玄関から堂々と仕事くださいとは言うことのできない身の上なのです。それでも私の勤め先は結構早く決まったんですよ。
それは千本今出川にある居酒屋でした。佐久間と二人で途方に暮れて歩いていると、ドドドドドーンと太鼓の音が聞こえてきたんです。空きっ腹に応える響きでした。それは「寄って屋」という店で景気付けに鳴らしている太鼓だったんです。ふわふわっと店を通り過ぎようとしたとき、張り紙が目に入ったのです。「パート・アルバイト求む。経験・年齢不問」。「年齢不問」という言葉が有り難いのです。なかなかないのです、この言葉が。 私は佐久間を外に待たせ店のドアを開きました。間口が狭いわりに店内には十分な奥行きがありました。後から聞いた話ですが、京都の町屋は間口が狭く奥深いのだそうです。この店も元々は町屋の体を為していて、何かの都合で家屋を店に提供している、とそんなところなのでしょう、きっと。
私が会ったのは店の店長で、オーナーが別にいるということで、オーナーの居る事務所に連れて行ってもらいました。オーナーは気さくな方で、事情を話すと、住むアパートまで心配してくれるのでした。捨てる神あれば拾う神ありです。仕事先とアパートが決まり私は意気揚々と佐久間の手を引いて歩いていました。
アパートは敷金礼金なしの六畳台所付で家賃二万円。お風呂は付いていなかったけど、なんとかやっていけそうな金額です。私たちは生活に必要な最低限度の日用品を準備しました。幸い夏だったんで薄い敷き布団一枚あれば平気でした。むしろその暑さには悩まされたほどです。初めのうちは団扇を使って凌いでいたんですが、深夜になっても続く暑さに耐えきることが出来ず、近くの量販店で扇風機を買いました。
佐久間は朝早くから職探しに出かけ、私は夕方になると仕事に出かけます。私の帰りは十二時を回るので、佐久間は大抵先に休んでいるのですが、あの日は部屋の電気が付いていて、私が帰るなり佐久間が子供みたいに駆け寄ってきて、嬉しそうに話すのでした。
「ミエコ、仕事見つかったよ」
満面の笑みで私に纏わり付いてきます。
「わあ、よかったね」
私は台所で顔を洗いながら訊いてみました。
「どんな仕事」
「建設現場」
「何の工事」
「わからない」
「場所は」
「わからない」
「なあにそれ、何にもわかんないの」
佐久間は、ふふんと鼻先で笑って、
「寄せ場に行けば毎日仕事があるんだ」
と言いました。
「寄せ場。何それ」
私はティーシャツとジーパンを脱ぎ捨てながら訊きました。
「そこへ行けば毎日仕事があるんだよ」
「へええ、そうなの」
私は佐久間が仕事を見つけてきたことを一緒に喜んであげたかったので、それ以上は訊きませんでした。佐久間もそれ以上何も言わず扇風機を独占して横になってしまったので、その話をするのは止めました。
翌朝、扇風機の音で目を覚ますと、佐久間はもう出かけていました。確かに私は「行ってくるよ」という佐久間の声を聞きましたが、深夜まで働いていた私は、「はい、行ってらっしゃい」と応えるのがやっとだったのです。 それから佐久間は毎日決まった時間に仕事に出かけました。そして帰ってくるのは私が店に出てから。でも、たまに仕事に行かない日もあって、そんな時は昼過ぎに開店する銭湯の一番風呂を目指して二人で行くこともありました。お風呂の後、佐久間は決まって通りの酒屋で缶ビール一本買って飲みました。三五缶です。
「ミエコも飲むか」
と言われて、私も必ず一口飲みました。そして、佐久間は道々話すのです。今日は梅田に行ってきたとか、吹田に行ってきたとか、ちょっと自慢げに話すのです。
「へええ、梅田ってどういう所」
「ビルだらけさ。東京と変わらないよ」
「へええ、行ってみたいなあ」
「その内な」
いつもこんな感じなのです。でも佐久間の少ない言葉からでも、日雇いであちこちの工事現場に行っていることはわかりました。一度お店の人に、
「寄せ場ってなんですか」
と訊いたことがあります。
「ああ、それって日雇いの人が集まる所でしょ。そこに行けば車が迎えに来てあちこちの工事現場に連れて行ってもらえるのよ。でも、どうして」
それは、私が想像していたとおりの場所でした。「あの人ったら、プライド高いんだから」と、佐久間商事社長の肩書きを捨てきれないでいる佐久間のことを可哀想に思うのでした。
京都の酷暑はまだまだ続きそうです。比較的観光客の少ないこの時期でも、八月十六日は五山送り火をめあてに沢山の観光客が京都を訪れます。私の勤めるお店もこの夜は大忙しです。お盆で仕事のない佐久間をアパートに一人置いて私はお店の中を走り回るようにして働きました。お客さんが入るたびに入り口の和太鼓がドドドーンと鳴ります。もともと客商売が好きな私ですので、威勢よく「いらっしゃいませ」と言ったり、「ご注文は何にいたしましょうか」などとマニュアル通りに言うのは簡単なことでした。
「はい。大変お待たせいたしました。生ビールとウーロン茶でございます」
白い開襟シャツのお爺ちゃんがおしぼりで禿げた頭を拭いています。向かいには連れ合いのお婆ちゃんがちょこんと座っています。二人とも声には出しませんが「どうもありがとう」と少し頭を動かしました。そして、私がテーブルから離れようとしたとき、お婆ちゃんの声が聞こえました。
「いやあ、今日はたくさん歩いたわねえ。ああ、こわい、こわい」
私は、はっとしました。「この人たち福島だわ」間違いありません。「こわい」は福島弁で「疲れた」ということなのです。私は次の料理を運ぶために厨房に向かいましたが、胸が懐かしさでいっぱいになっていました。だから、
「はい。大変お待たせいたしました。焼き鳥の盛り合わせと揚げ出し豆腐でございます」
と料理を差し出した後に、「福島からですか」と出かかったのですが思い留まりました。自分が福島県人であることが知られ、もしも取り立て屋に通報されたら……、と思うのは心配しすぎだったでしょうか。
それでも、私は懐かしい故郷の言葉に触れることができて、少しの間幸せな気持ちになっていました。だから、老夫婦が店を出て行くとき、私はいつにも増して大きく「ありがとうございました」と声を出していました。
次の日、私はお休みをもらいました。佐久間が二三日は仕事がない、と言っていたこともあったし、店長が「お盆の忙しさも過ぎたから、少しゆっくりしたら」、と声をかけてくれたからです。
その日は、いつもよりゆっくり目を覚ましました。勿論、朝からの猛暑で寝ていられないという事情もありましたが。佐久間と朝食を一緒に摂るのは久し振りのことです。
「ミエコ、飯喰ったら一寸散歩にでも行ってくるか」
丸いちゃぶ台に向かい合っている私に、佐久間が言いました。散歩だなんて、随分久し振りのことです。考えてみると私たちが京都に来てからかれこれ一ヶ月が過ぎようとしているのです。佐久間にはまだ定職が見つかっていないとはいえ、なんとか二人して暮らすことができるだけで幸せです。
私たちは朝の千本通り商店街を北へ向かって歩きました。狭い歩道をお盆明けの勤め人たちがスタスタと急ぎます。広いツバの帽子を被った観光客は通りの街並みを眺めながらゆっくりと進みます。そんないつもの風景を横目に商店街の人たちがシャッターを開け、開店準備を始めたところです。 と、歩道の向こう側を青年僧侶たちが念仏を唱えながら足早に下っていきました。浄福寺の修行僧のようです。若い張りのある声が街に響いています。
千本今出川の交差点を渡り更に北へ歩きました。この辺り一帯が西陣であると店の人から聞いたことがあります。
「ねえ、どこまで行くの」
随分歩きましたが、通りを走る自動車の音が途切れません。
「ちょっと、入ってみるか」
佐久間はそう言って左の小路に入っていきました。そこには通りとは別世界の静寂がありました。町家が並びいかにも京都といった風情です。中には町家をそのまま利用した和小物店などもあり、格子の向こうにある色鮮やかな小物類に私の胸はときめきました。でも佐久間は、
「ここ、行ってみよ」
とその店の角を右に曲がって更に小さな小路に入って行くのでした。そこには更に違った世界が広がっていました。二人並んで歩くのがやっと。軒先と軒先が接近したまま路地が続いています。そして、聞こえてくるのです。機織りの音が。私たちは西陣のど真ん中にいるのだと実感しました。そして、西陣の迷路に迷い込んだということも。
「どっちに行ったらいいんだ」
佐久間も困った様子を見せましたが、私が、
「こっち」
と言うと、素直に付いてきます。私はすぐそこに見える大きな瓦屋根を目指して歩いて行きました。佐久間は後を付いてきます。路地は私の冒険心をくすぐりましたが、その迷路は容易く抜け出すことができました。と、そこに大きなお寺がありました。
境内で町内会らしき人たちがテントの後かたづけをしています。きっと昨夜は町内のお祭りだったのでしょう。本堂の廊下では、拝観者たちがガイドさんの説明を聞いているようです。
本堂の脇に膨よかな女性の座像がありました。「おかめ像」というのだそうです。
「義空上人が大報恩寺の本堂を建立するにあたり、当時名大工として名声を馳せていた長井飛騨守高次を総棟梁として選ぶ。高次は数百という大工の頭として采配を揮うが、ある日のこと何を勘違いしたのか、本堂を支える親柱の四本の内の一本を短く切り落としてしまう。途方に暮れる高次の妻阿亀は『もはや切ってしまったことは仕方がないじゃあないの、柱を短く揃え桝組を入れて高さを合わせればどうでしょう』と進言したのだった。そのアイディアもあって今に見る端正な本堂は完成するが、阿亀は『女の知恵を借りて完成させたと云われては主人の恥となる』と自害して果てる。この話は大工たちに受け継がれ、江戸時代の半ばには三条の大工池永勘兵衛が本堂の脇に『おかめ供養塔』を建立する。この頃から京都では棟上げに際して『おかめ御幣』を飾り祀ることが生まれ、今でもたまに見ることが出来るようだ。このことから建築、造園関係の信仰も厚く、そして阿亀は湯殿を建てて大工たちに入浴を勧めたと云う話もあり、銭湯関係者のお参りも多い」
おかめ像の横に立つ立て札の説明を読み終えると、佐久間は私の顔をまじまじと見つめていうのです。
「ミエコ、お前とそっくりだ」
「えっ、それどういう意味。私の頬ってこんなに膨れてる」
「いいや、顔も少しは似ているけど、それだけじゃないよ」
佐久間が言いたいことがわかりました。でも佐久間は照れくさかったのでしょう。すぐに踵を返して本堂の方に行ってしまいました。 私はあの人に何の進言もできなかったのに、おかめとそっくりだなんて、あの人本当にそんなふうに思っているのかしら、でも、私のことを少しでも頼りにしていてくれているのなら、それはとても嬉しいことです。普段は口数の少ない佐久間が、ぽろりと口にした言葉を私は今も忘れられません。でも、私は佐久間を守るために阿亀のようにこの命を絶つことはできなかったのです。大報恩寺、またの名を千本釈迦堂。佐久間が初めて私のことを誉めてくれた所です。