5刻 高すぎる理想
そこには、まだ若者らしい若者だった頃のムカイゾノ、そしてその妻らしい女性が仲睦まじげに手を繋ぎ、にこやかに笑っている姿が映っていた。
「こんなに幸せそうだったら、奥さんの死にはさぞかしショックだったと思う」
俺は見たままの感想ではあるがツマクに告げた。
「マコちゃが死んだら、私もああなっちゃうのかな」
ああなるというのは、今のムカイゾノの、まるで老人みたいな様をいうのだろう。
ただ、そうは言うけど、常軌を逸した精神的タフさを有するツマクに限って、絶対にそれはない。
だが俺は残念ながら人に痛烈なことを言えないお人好しなので、コイツには敢えて何も言わないでおいた。
それでも最愛の人を失うショックというのは誰にとっても、その人生を大きく変えてしまうのもまた事実だ。
ムカイゾノは普通の幸せな家庭を目指していた。散々な人生を送ってはきたけど、アイツはアイツなりに、まずはアルバイトからと自分なりの人生設計を持ち始めていたのは確かだ。
そりゃ、世間からすれば不器用すぎるその人生は嘲笑や反感の対象でしかない。
人生は一度きりだから、人並みの能力だと自覚出来た者たちは、それ以下の人間とは距離を取り、時に迫害し、いつ死んでも後腐れないように「常識的な範囲内での工作」という余計な仕事をしながら生きていくようになる。
あるいは、同じように底辺の人生だからって仲間と思ってくれない人間も多いという。
俺にはそこまでの人生は経験がないから分からないけど、地べたを這いつくばるような負け組はむしろ、それ以下の、社会からはみ出そうだったり完全に外に出てしまった者に対して敏感だ。
負け組の世界は地獄とは言うけど、更なる地獄を見るとその時だけは天国にいると思えるという屈折した正義。
しかしそれもまた、多数派ではないけど実在する感情だ。
◇◇◇
負け組からすれば、普通の生活自体が高すぎる理想。
それを知っていないと人間らしい道に進めないというのは少々酷だけど、間違えている人に間違えていると伝えられないようでは、そんなのは肩書きだけの社会人だ。
時には口頭で、もっとどうしようもなくて手遅れなら、社会からの追放。
そうしないと、まともな社会にいる資格がないのに「いてもいいんだ」と勘違いしてしまう。
「キミはひとりぼっちじゃない……」
「え? ふふ、ありがと」
「ん、いやいや、違うぞ。こっちの話だ」
昔、「キミはひとりぼっちじゃない。」という標語がどこぞの社会団体にはあったらしいけど、あれは一種の踏み絵だ。
思考停止や勘違いで、「ひとりぼっちじゃないんだ」と頼るようなら危険分子。皮肉混じりのブラックユーモア、つまり「ひとりぼっちじゃん」のニュアンスかもしれないと気づくことが出来れば、まだ健全という安上がりの「ふるい」。
まあ、そんな理不尽を舐め尽くすまでではなくても、俺も明日は分からない。
両親は俺を神童かのように見捨てないで甘やかしてくれたけど、俺は神童ではなかったし高望みが上手く軌道に乗ってしまっただけの平凡な落武者だ。
先日、俺くらいのポテンシャルの三科の医師が給料未払いを訴えたが聞き入れられずに辞職した。
年齢も俺と同じくらいの20代。
なんだか不憫ではあったが、俺には止められなかった。まあ、よほどのガッツがあれば今は転職には事欠かない時代だけど、一歩間違えればアイツみたいになるのは、次は俺だ。
なんとなく上司に気に入られなくて、なんて世間でも幾らだって耳にする。
なぜなら、みんなが自分の思い通りの社会を作りたいからだ。だから、上に立つ人を選ぶ余裕なんてないアイツや俺の人生は死ぬまで理不尽。それはもう、確定していると断言してしまえる。
「俺の人生って何なんだろう」
◇◇◇
無間地獄という言葉がある。
人にあるまじき大それた態度、それを一度でも取るのは、最下位にあるその最悪の地獄で死ぬよりツラい苦しみを味わうのだという。
「ああ、それね。聞いたことくらいはあるわ。その地獄を知ってから焦熱地獄に来ると雪国みたいに涼しいと思えるってヤツでしょ?」
事もなげに、何の抵抗もなくツマクはそう答えた。
精神医療だとしても、医療を志す者は何度も地獄に落ちる夢を見るという。
なぜなら向き合い方を間違えれば、人を殺めてしまったり毒してしまったりするのが医療だからだ。
「そんな顔で言えるなんて……もうお前はいつでも死神になれるな」
「えっ、何それぇ~。マコちゃだからってヒドすぎだし」
それゆえに医療従事者だからこそ、地獄の話になると体が震えたり、目を恐怖でぎょっとさせるのが正常。
そうならないツマクは狂人である。
地獄から来た天才、――ツマクは同僚たちからはそう評されている。
だから、一科とは言え配属されてたった1年で医長にならないかと声を掛けられている。
まだほんの20歳なのにその待遇は異例だ。
並々ならぬ頭の回転の速さで、多少の不利なら圧倒的優位に錬金出来る魔法使い。
例えていうならツマクには、そんな評価すべき優秀さはある。
「そこまで分かってるなら、早く結婚してよね!」
小悪魔のようなイタズラな笑みで、ツマクは俺を時々こうして困らせる。
背水の陣だ。普通なら嬉しいのかもしれないが、辞めさせられた同僚が実在する以上、誤解を受けかねないこの人間関係もまた医療並みに地獄である。
◇◇◇
「あれ、ムカイゾノ……さん?」
いないと思ったら、最初に来た小さな部屋の中に、いつの間にかポツンといた。
「見られちゃったか、その写真。どう、俺、昔は結構いけてただろ?」
言われてみれば、一流のモデルなどには及ばないが一般人にしてはそれなりに格好の良く、若々しい好青年だ。
「消えていたい。そう思っていたら本当に消えてしまっていたんですよね。ムカイゾノさん?」
冷たい口調でツマクは言い放った。
「写真の裏側、ここに書いてあります。覚えてますね?」
そこには油性のペンで「どっちかが死んだら消えたくなるほど、好きでいようね」と几帳面そうな文字で書かれていた。
「どちらがコレを書いたのかは分からない。でも、あなたの記憶にあるモノが心の世界を形作る。クマのぬいぐるみ……その首筋に切れ目があって、そこに隠してあった写真ですよ」
よく見ると、写真はくしゃっと筒状に丸めた形跡がある。細い筒のようにして、ぬいぐるみに仕舞いこんだのだろう。
「よく見つけましたね……。そのクマは俺の思い出の品でもあり、思い出を封印するためのモノでもありました」
写真の言葉はムカイゾノが自分で書いたらしい。そして、精神に限界をきたした時に限ってその言葉を思い出してしまった、というわけだ。
◇◇◇
患者の心の在りかたで、精神世界は変化する。患者自身の存在さえ、心の持ち方で変わる。
そしてムカイゾノの場合は実は理由がシンプルで、写真に書かれた自らの言葉に影響されてしまった。
「俺は……俺はどうしたら良いんですか。人は1人では生きていけない。だけど親に合わせる顔のない俺は1人だ……」
ムカイゾノの嘆きは空しく部屋の壁に、申し訳程度に吸収されていくばかりだ。
なぜならその問いには、特効薬はない。
これから彼が頑張って生きていけるかは、「本人の気持ちが最優先」と、もちろん俺たちは信じる側だ。
でも、世の中は底辺に簡単に救いの手なんて差しのべていられない。
どんな会社でも、最低限の信用は必要だ。
だけど人は特殊な過去であるほどに、どうしても信用の欲しがり方が分からない。
俺ですら三科という「はぐれ部署」で、何が普通の社会なのかを模索し続ける地獄にいる。
アウトローじみたところがあるムカイゾノは、むしろどこまで自立して生活していけるか。
その辺りを見届けられさえすれば、それこそが現実的な俺たちの仕事が成せた結果と言えるのだろう。