3刻 小部屋
俺はムカイゾノの「自我」が形作っている空間にいる。
精神盤に込められた魔法回路が、精密に構成したアルバムと破滅らせんを、複雑な計算のもとで進入可能な形に再構成したのだ。
「さて。手がかりらしきモノは、と」
俺は慎重に捜索を開始した。まるで刑事のように、患者の精神という建築物を丹念に調べ上げていく。
それが精神同期してから第一に成すべきルーティーンだ。
「これなんて怪しいな」
無人の部屋で、俺はクマのぬいぐるみに目を付けた。
無造作に窓際に置かれ、いかにも調べてくださいと言わんばかりのオブジェクトである。
熊。
それ自体に隠された意味がある場合もあるけど、ぬいぐるみという親しみやすい形を取る場合には単純に、患者にとって思い出の品であることがほとんどだ。
「もしかしたら、奥さんからのプレゼントかもな」
単純に思い出深い一品だとしても、それなりの思い入れがないと空間に形成されることはない。
その点、三十二才という年齢の割には初老の人に多く見られる質素で手狭な部屋なのがムカイゾノの精神の特徴である。
◇◇◇
「つめたっ」
首筋にヒヤリとした感覚を覚え、ふと上を見上げた。すると雨漏りしているのか、水がポタリポタリと滴り落ちていた。
一般的には雨漏りは、精神世界においては貧しさや不便の象徴。
ということは、患者は日頃の生活において貧困を感じていたり、生活に支障を来す何か――多くの場合はトラブル――を感じていたようだ。
「貧困やトラブル。奥さんの死。それぞれが重なった心労が、極限状態の体に追い討ちを掛けたのだろうな」
病室のムカイゾノは、とても三十代には見えないほどに年老いていた。日によっては七十代とすら思え、シワなんてなくても精神的な老いは体に出るのだと彼を見れば誰にでも分かった。
それは極端に貧しい生活ゆえの衰弱に他ならず、順風満帆な人間には分からない境遇が彼をそう変えてしまったのだ。
おそらくこの部屋こそがムカイゾノと、その亡き妻との住まいに他ならない。
「静かだ」
雨漏りはあるが、外で降っているであろう雨はしとしととしており、他に音らしい音はない。
患者によっては止まない騒音や、近隣の過激集団などに心を病むケースもあるからその点で苦しむことだけは、ムカイゾノには無かったのだろう。
しかし逆に言えば、そうした理不尽や苦境に縁遠いにもかかわらず彼を老いさせしめた貧困はよほど重荷だったのだろう。
◇◇◇
しばらく捜査を進めたが、他に目ぼしいものはない。
住まいらしい部屋は簡素極まりなく、冷蔵庫すらないのは電気代を節約するためと思われた。
保存が効くバターロールなどがあり、後は栄養補給のためのサプリメント、そしてペットボトルに入った飲料水がどこかで調達した氷に浸けてある。
トイレや風呂すらない。アパート住まいだったはずなので、共用の設備が室外にあるのだろう。
しかしムカイゾノの閉鎖的な心理を象徴するかのように、部屋にはあるべき扉、つまり出入口はない。窓も開かず、外から差し込む薄明かりだけが頼りだ。
「こんな生活では、そりゃ奥さんも大変だったろうよ」
俺は治療に携わりながらも、どこかでムカイゾノには心からの同情は出来ないところがあった。
それは日頃のヒアリング――つまり患者のこれまでの生活習慣などの聞き取りの時間――において、彼の口からはカネ、カネのひと言ばかりが発せられていたからだ。
大体、カネしか言わない人間の多くは貧乏だ。本人たちは強すぎるカネへの執着こそが逆にカネから遠ざけていることに気付かない。
だけど、生まれついての守銭奴には正論など無意味だと多くの人は悟る。多かれ少なかれかかる時間に差はあれど、それが普通。
そう、普通の人間だからこそ諦めるべき愚者への理解なのだ。
俺だってそうで、まことしやかな励ましを言うたびに胸ぐらを掴まれ、俺はムカイゾノの担当医になったことに落胆していた。
◇◇◇
フリーター。
それがムカイゾノの職業欄に書かれる肩書きだ。
高校卒業と同時に夢を追いギタリストを目指し、悪い女に騙されて多額の借金を抱え、田舎に帰り両親から手切れ金だけ渡され、幼なじみの女性と結婚して借金を隠しながらの生活をしていたというムカイゾノ。
「でも、俺も崖っぷちだけどな」
今は医院のメンツのためと、先輩や同僚からの「融資」があるから実際の稼ぎ以上に良いマンションに住めている俺。
だけど本当は、根っこの部分はムカイゾノと同じだ。カネ、カネ、カネ。カネさえ稼げるなら、何も苦学して精神科医なんて目指さなかったと俺は思う。
つまり、同族嫌悪だ。
俺は実は似た者同士の彼に対し、危機感に似た本能的な警戒心を働かせていたのだろう。
神は全ての人間を救うわけではない。
世の中には無視とか裏切りとかが実在する以上、本当に安定した人生を送る人間なんて誰もいないとすら言われている。
だから俺がムカイゾノみたいな人生を歩んでいたとしたら、こうはならなかった、もっと救われていたなんてコトは言えやしない。
俺はたまたま守銭奴にならなかっただけで、きっとムカイゾノとの人としての違いなんてそんなにないのだ。
「ちっ、本当に何もないな」
精神盤での分かりやすい概心観――患者の精神を視覚化する処理――に反して、手がかりは余りに何もない。
これは第一印象よりもずっと困難な謎解きになりそうだ。
◇◇◇
現代における精神科医は、患者に潜む心の謎を解き、そして癒すことを基本的な職務としている。
これは、「精神の病理には原則として、解き明かすべき困難が伴う」という現代精神医学の第一人者であるアーレ・ナンダッスが定めた、精神を定義した一文が原則として働いていることを表している。
ナンダッス医師は実は、訳あって俺の師匠だ。だからその辺りについては本人から誰より詳細に聞いている。
「キソウ。キミは本当に素晴らしい才能の持ち主だ。中々そこまで他者に共感出来る心なんて人は持てない」
過大評価だなと思う。何かにつけて過剰で、俺は師匠ではあってもナンダッス氏をそこまで信用してはいない。
何かにつけて過剰に言うことで、1つでも真実なら感謝される。
どうも彼の信念はそんな、当てにならない三流の占い師みたいなところがあるのだ。
ただ、氏には信者みたいなのが多数付いていて事実上の支持母体となっており、その界隈の中でサイド・ビジネスを展開してしこたま儲けていると知って俺は彼を師と仰いだのだ。
俺も結局はカネの亡者。
人生は無限に続くわけじゃないから、やはりカネのなる木は気になる。
だからただナンダッス氏に師事するためだけに俺は猛勉強し、大学院での留学先を氏のいるメリプル大学に決定する権利を勝ち得たのだ。
◇◇◇
俺はたった一部屋のムカイゾノの心をそれから何度か隈無く探したつもりだが、全くすっかり手応えがないのは変わらない。
「応援を呼ぶか……?」
余り良い顔はされないが、他の医師にヘルプを求めることは出来る。
しかし、精神世界に怪物や猛獣が現れたわけでもないのに、そんな奥の手を使うのは憚られた。
ちなみに怪物や猛獣が出る時も残念ながらある。今回はいないだけで、患者やその関係者がいることもある。
そういう意味では、ムカイゾノの亡き妻がいないのは不自然に思えた。
アイツにしては「最愛の妻だ」としばしば力説してくるので、俺はそこだけは密かに評価していたのだ。
「はあ、俺って無能だな」
他の医師なら何かしらのノウハウで、これしきは大抵は乗り越えている。俺が何もなさすぎるのだ。
ちょうど、まさにこの部屋のよう。
最低限にこだわりすぎて、厳しい時代を生きていくための何をも俺は持ち合わせていないのだ。