2刻 精神同期
精神科医を目指す多くの人間の話だ。
最初はただ純粋に「知識で人を救える」と思う。
しかし現実は思い通りにはならず、どんなに正当な診断結果でもクレームが入り、悪い場合には暴れられたり脅迫状を送られたりする。
そして最終的には「今日の縄張り争いの勝者はどっちだ?」に本音が変化する。
多くの場合、それを精神科医たちは「自分自身が成長したのだ」と見なす。
実際にはちょっとした教祖みたいになったり、逆に不信心者になったりしているに過ぎないのだけど、本人たちはそんな事には気付かないものだ。
一方その点に関して、ツマクは病的に謙虚だ。
人は簡単には成長出来ない生き物だと達観している。本当は心の病なんてみんなが抱えていると悟っている。そして何より、それでもオトナだから責任を持つしかないという基本的な、しかし暗黙の内にある人間の義務を意識している。
だからたとえば、外科医が力不足で患者を救えなくても彼女だけはそうした医者の側にも立てる。もちろん、患者の遺族にも敬意を払える。
簡単にその事実を結果で説明すると、当医院で最も稼いでいるのが彼女なのだ。
◇◇◇
「ツマク先生。ご相談が……」
まだ診療時間外であるのを良いことに、絵に描いたような腰巾着である中年の三科医師がツマクを頼ってきた。
「医局だからって軽々しく話しかけないでください」
そっけない。なぜか俺以外の医師には、一科の者にさえ冷ややかなのがツマクの恐ろしいところだ。
なぜならそんな態度の風当たりは彼女自身ではなく、八つ当たりしやすい俺に向くに決まっているからである。
「おい、未来の夫。早く覚悟を決めて結婚しないから我々の業務にも支障が出てしまうじゃないか。本当に大切なことをこっちは聞いているのに、この始末だぞ?」
「はは、カンザ先生。未来も何もボクはまだ結婚なんて……」
俺も微妙に頭が悪いゆえに、完坐カイ医師に憶測を呼ぶような失言を返してしまった。
ツマクに話しかけて、今あしらわれたばかりの中年医師こそがそのカンザという男だ。
「本当に必要な質問なら、ちょっとの事で引き下がらないでくださる? それにそんなことより、また精神盤の整備不良で余計なトラブルを起こさないでいただきたい。どうせ、優先すべきはそれですよね、……あなたの場合」
ツマクは鬼のように無慈悲な口調で、言葉で刺殺せんとばかりにカンザに説教した。
だが彼女の言い分にも一理ある。カンザは三科によくいる、癖の強い人種なのだ。
具体的には、トラブルメーカー。
まだ若くてたまたま医局入りしたと言い訳出来る爽やかさがあればまだしも、確か今年で四十ちょうど。
だからむしろツマクの反応は当然ではあるのだが、天才によくある「凡人の気持ちが分からない発想」を前面に押し出す余りに一科からさえツマクの評判は、医師の間では低い部類に入る。
「ね、ねえ。本当にそろそろ、せめてガツンとキミからツマク先生に言ってくれないかな。これは圧力だ、横暴だ、独裁だ!」
散々と後輩からの突き上げや先輩からの扱きに耐えてきたカンザでさえ、こんなにキレてしまうのだから日頃の状況は推して知るべし、である。
「カン様……お気持ち、お察しします。私、数寄屋タツヒはあなた様を決して見捨てません」
スキヤ医師が余計なひと言を入れて来た。名前も風貌も中性的だが、れっきとしたおっさんだ。
しかし二科ゆえに中間管理職みたいな気苦労が多く、女医が中々いない精神科に咲く紅一点なのに性格に難があるツマクにも、紅一点ゆえに直接には強く出られない哀れな身の上だ。
ただ勉強だけは一科を凌ぐ努力をしており、実力で医長の座を勝ち取った強者でもある。
無駄に広々と取られた精神科の医局は、一科から三科までの医師をまるで小中学校みたいにランダムに配置した席順だ。
これは一見、雑な所業にしか思えないが院長の言い分がある。
「同じ科の職員なんだから顔を覚えたいでしょ。かと言って年功序列然としたら若手が反発するでしょ。何事も中庸に徹した結果なのであり、雑なんてマスコミにリークしてみ。どうなっても知らない……からね」
説明責任をきっちり果たすスンジュ院長のそんな言葉は、ほぼ同じ内容の書面となって医師たちに配布もされている。
つまり周知徹底原理はしっかりしていて、人脈作りに懸ける院長のプライドが、分かる者にはそんな所から分かってしまう。
◇◇◇
俺はそんな医師たちを尻目に回診に向かった。
医者なので、多少のフライングはなんとでも言い訳出来る。
「おはよう。ミサネちゃん」
俺が廊下で挨拶したのは小学生の入院患者、鳩海ミサネだ。確かまだ9歳、つまり学年にすると四年生かそこらのはず。
「……」
無言。いつものことだ。
彼女は事件に巻き込まれたショックで言葉を忘れてしまった。
昔で言う失語症。今は灰心病のタイプ7・パターンGだ。
俺はいつも、そんなミサネに対して微笑み、挨拶を返してくれるのを十秒ほど待ち、そして観念して通り過ぎていく。
いつも、というのは大抵、部屋を嫌う彼女は廊下にいるのだ。
「……だれがたる」
俺は通り過ぎようとした足を止めた。
ミサネが言葉を発したからだ。
◇◇◇
しばらくの後、俺はとある病室にいた。
3階の303号室。
一般的には同じ数字が2つあり覚えやすいとされるその部屋の患者の1人、向園ハルヤが意識不明となっており、【概心観】を検討しなければならない段階にあった。
(だれがたる。……いや、今はそんなのは後回しだ)
俺は呼吸を見て、聴診器を患者の胸に当て、瞳孔を確認した。
診断が困難な、本来なら精密検査が必要な僅かな徐脈。俺は覚悟を決めて精神盤を取り出した。
「少し悪夢を見ますが、我慢してください」
意識のない患者に事務的にそう告げ、俺は精神盤を起動した。
スンスン、とクリアな電子音が響く。これの動力は電気と魔法のハイブリッドなのだ。
幾つか起動に伴う情報が表示され、全てOKとなるまでに数秒程度を要したが、いわゆる、パソコンなどで言うホーム画面が表示された。
「バイタル・チェックはしない。すぐ【概心観】してくれ」
音声入力に対応しているAIが指示を理解し、やがて精神盤は患者であるムカイゾノの意識構造を再現し始めた。
カチカチリ、カチカチリ、と計算する音が止むと、そこに表示されたのは単純な様相だ。
「いや、これは……単純過ぎる」
最愛の妻を亡くした彼の絶望が精神盤のモニター部分に、アルバムの形となって具現化した。
それに加えて再起したいという思いと、もう誰も助けてくれないという思いが交錯している。
そのらせん構造が、絶望を表す精神模型と全く同じ「純破綻思考」を表す形となってアルバムを取り巻いている。
しかし不幸中の幸いなのは、精神盤でなら原因がはっきり分かるレベルの心理であることだ。
魔法を使えば、十分に回復が可能。ムカイゾノの容態はどうやらそれくらいの認識で良いと俺は診断した。
「タイプ1・パターンC。これより患者と【精神同期】する」
俺はムカイゾノの腕と俺自身の腕に、導線を貼り付けた。一昔前は注射みたいに刺さないとならなかったらしいから、これでもマシなプロセスだ。
そして俺は精神盤が、それぞれの肉体との接続を確認するのを待ってから「シンクロする」と告げた。
そのひと言は精神盤に認識、受理され、俺の意識とムカイゾノの意識は精神盤に転送されていった。
「う……む。どうやら上手く入れたみたいだ」
ムカイゾノの意識は治療のために最低限の最適化を施されていたが、それでも綻びや腐敗臭が気になるレベルだ。
今、俺の意識は俺の体そのものの形を取り、一方で患者の意識は暗くて狭い部屋の形を取っていたのだ。