大切な人
私の名前は小森 文乃、都内の女子校に通う中学2年生。
好きなものは読書。
苦手なことは人と仲良くすること。
ずっと前から、人と話すことが苦手だった。
きっと昔から本ばかり読んできたからかもしれない。
あまり人と関わってこなかったから、話し方がわからないんだと思う。
どうして本を読むようになったか、きっかけは父にある。
私の父は、私が生まれる前に亡くなってしまった。
生前は小説を書いていたらしい。
お父さんはすごい小説家だったのよ、と母はいつも言っていた。
家には父の使っていた書斎が残っている。本が棚一面に並んでいて、絵本から長編小説まで、たくさんの本があった。この書斎そのものが父の形見と言ってもいい。
私はその書斎が大好きだった。
唯一、亡き父を感じることの出来る場所だったからかもしれない。
読み書きを覚えてからは、父の書斎に行っては本を読んでいた。
そしてもう一人、私にとって大切な人がいる。
本を好きになる事と、好きで居続ける事は違う。
今日まで本を読むことを好きなままで居れたのは、
まぎれもない、”あの人”のおかげ
“あの人”について話すには、小学校時代にまで遡る必要がある。
人と話すのが苦手だった私は、小学校に入ってからもろくに友達を作ろうともせず、休み時間はいつも本ばかり読んでいた。
そして、小学校に入学してから2ヶ月が経とうとしていた頃。
忘れもしない、あれは5月23日。
雨の日のことだった。
いつもの帰り道、傘をさしながら本を片手に下校している途中、公園の前で数名の女の子に呼び止められた。
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「ねぇ、文乃ちゃん!」
文乃「…なに?」
私が呼ばれた方へ目を向けると、そこには同じクラスの矢野さんと2人の女の子が立っていた。
矢野さんはクラスの中心的存在で、性別問わず誰からも好かれている女の子だった。
矢野さんの横にいる女の子二人はいつも矢野さんと一緒にいる子で、特にこれといって印象はない。名前は…たしか佐藤さんと田中さん。
矢野「ねぇ、文乃ちゃんってどうしていつも本を読んでるの?」
文乃「どうしてって…本が好きだから読んでるだけだよ」
矢野「そうなの…?
ねぇ、友達作るのが苦手ならさ、私がなってあげるよ!」
佐藤「そうだよ!私達とあそぼ!」
田中「うんうん!絶対友達と遊んだ方が楽しいって!
この後、矢野ちゃん家で遊ぶから、一緒に行こ!」
文乃「……」
あぁ、まただ。
いつもそう。幼稚園の時も、小学校に上がった時も、みんな私のことを憐憫の目で見る。
幼稚園の先生「ねぇ、文乃ちゃん、お友達とは遊ばないの?」
小学校の先生「文乃ちゃん、いつも休み時間は本読んでるのね、友達とお話ししたりはしないの?」
私はただ本が好きで、本を読んでるだけなのに。
みんなが心配してくれてるのは分かってる。
でも、心配されるたびに、本を読むことを否定されている気がしてならなかった。
『ずっと本ばかり読んで、変な子ね』
『友達がいないから本を読んでるのかしら』
そんな心の声が、その人の”もうひとつの声”が聞こえてくる気がした。
人は誰しも、2つの声を持っている。
ひとつ目は、実際に発している声。これは時に、人との関係を崩さないようにしたり、相手を傷つけないようにするための建前だったりする
もうひとつは、本心からの声、本音だ。これは実際には口に出さないが、言葉遣いや行動などに出やすい。
幼い頃の私は、本音のことを”もうひとつの声”と呼んでいた。この呼び方は父の書いた小説からの受け売りだ。
そして人は遅かれ早かれ、相手の本音と建前を見抜く力を身につける。社会で生きていくためには必要な力だからだ。
私は昔からいろんな物語や小説を読んできたから、同学年の子に比べて、人の言葉や行動の裏にある本音を汲み取る力が高かったんだと思う。
「ねぇ、文乃ちゃんってどうしていつも本読んでるの?」
「そうなの…?
ねぇ、友達作るのが苦手ならさ、私がなってあげるよ!」
この言葉も
『きっと友達がいないから本ばかり読んでるんだ…
だったら私が友達になってあげる!』
そんな“もうひとつの声”が聞こえてくる。聞きたくもないのに、無意識に感じ取ってしまう。
幼い私には、それがとても苦しかった。
私が好きなものを、否定しないでほしい。
私は好きなことをしているだけなんだから、哀れみの目で見ないでほしい。
そんな思いが先走って、私はついムキになってしまった。
文乃「いい、そんな同情いらない。
私は本が読みたいから読んでるの、勘違いしないで。
それじゃ。」
矢野「あ…文乃ちゃ…」
矢野さんが何かを言い終わる前に、私はその場から立ち去った。
雨脚は強くなるばかりだ。
どうして冷たく突き返してしまったんだろう。
そんな風に言うつもりじゃなかったのに。
人とあまり話さないから、どう話したらいいのかよく分からなくて、いつも返事が素っ気なくなってしまう。
でもきっとさっきのは、それだけじゃない。
私はあの子達から憐れまれている気がして、それがとても居た堪れなかったんだ。
文乃 (どうして…)
矢野さんの言葉がよみがえる
「どうしていつも本を読んでるの?」
文乃 (私は…本が好きだから…)
『『本当に?』』
文乃 (……)
『『今まで本を読んできたせいで、ロクに友達もできていないんじゃないの?』』
文乃 (そうかも…しれない…)
『『もういっそ、本なんて読むのやめてしまったら?
そうすれば、いつも一人で本を読んでいる”可哀想な”子なんて思われなくなるわよ。』』
文乃 (でも…)
雨はますます強くなる。
文乃 (私は…もう…どうしたらいいか分からない…)
文乃の瞳からも、静かに小雨が降り始めた。
文乃 (こんな惨めな思いをするくらいなら…もういっそ本なんて…)
「ねぇ君、大丈夫?」
気がつくと、私の前に誰か居る。
うつむいたまま歩いていたため気がつかなかった。
見ると私と同じくらいの年齢の男の子だった。
「あ、やっぱり泣いてる。なんかあったの?」
文乃「な…んでもない…」
「あはは、君、嘘が下手だね」
文乃「う、うるさい。ほっといて…」
「本、好きなの?」
その男の子が、私が片手に持っている本を指差して言う
文乃「……分からない。」
「あ、また嘘ついた。」
文乃「…どうして嘘って思うの」
「だって、その本、かなり昔の本でしょ。
なのに綺麗な状態で、大切に読まれてる感じするもん。
それだけ本を大事にする子が、本を嫌いなわけないよ。」
文乃「この本知ってるの?!」
文乃は驚いた様子で尋ねる。
「知ってるよ、その作家さんの本、俺結構好きだもん。でも、それ確か恋愛ものの本だよね。
大人びた趣味してるんだ。」
文乃「そう?あなたの話し方も、大人びていて変よ」
文乃はクスリと笑った。
文乃 (そっか…この本知ってるんだ…)
この本は文乃の父が書いた本だ。
そして作家である父のことを好きと言ってくれるこの少年に、文乃は興味が湧いた。
「ねぇ、よかったら本の話聞かせてよ。」
文乃の心の内を見透かしてかのように、少年が尋ねる。
文乃は返事をするのが照れくさくて、無言のままコクリとうなずいた。
近くにちょうど木の下にベンチが置いてある場所がある。
ふたりはそこで雨宿りすることにした。
「へ〜、星空の下でって言うんだ、その本。」
文乃「読んだことないの?」
「いやぁ…どうも恋愛ものはあんまり理解できなくて…」
文乃「それは…私もよく分からないけど…
この作家さんが書いた本は、全部読みたくて。」
「本当に好きなんだね。その作家さん。
小森 晋作 さんだっけ。」
文乃「うん…あなたは?この作家さんの作品で好きな本は何?」
「俺は断然、『空の向こう側』かな!」
文乃「あぁ、宇宙に行くお話よね。私、理科は苦手だから、あの本の内容はあまり理解できなかったわ。」
「そうなの?俺は理科と数学が大好きだ!」
文乃「小学生なのに、もう数学やってるの?
私たちはまだ算数よ。」
「算数も数学も一緒だよ。どっちも面白い。
ゲームみたいなもんさ!問題がモンスターで、公式や定理が武器みたいな?」
文乃「ふふ、変わってるわね。」
「あはは、まあな。よく友達からも変な奴ってからかわれるよ。」
文乃「そう…」
文乃の頭に、あの言葉が浮かぶ。
『どうしていつも本を読んでるの?』
文乃 (……..)
文乃「ねぇ…」
「ん?」
文乃「どうして数学を勉強してるの。
そんな周りにからかわれてまで…」
私がそう言うと、その男の子は少し不思議そうな顔をしてから
とびっきりの笑顔でこう言った。
「どうしてって、そんなの
大好きだからに決まってるじゃんか!
他の事なんてどうでもよくなるくらい、大好きなんだ!
それ以外に理由なんて必要ないよ!」
私は、その言葉を聞いて
なぜだか泣いてしまった。
初めて言ってもらえた気がしたんだ
『あなたが好きなことに、一生懸命になっていいんだよ』
って。
「え…ごめん、俺なんか変なこと言っちゃった…?」
泣いている私をみて、男の子が心配そうに言う。
文乃「な、なんでもないってば…!」
「やっぱり、君は嘘をつくのが下手だね。」
そういって彼は笑った。
私は泣いてしまった事がただただ恥ずかしくて、余計なお世話よ、と言ってから、しばらく必死に涙を拭いていた。
そして、涙が落ち着いたところで、もう一度口を開く。
文乃「じゃあ…それが原因で、周りが見えなくなって、失敗してしまったら…?
そうしたら、どうすればいいの……」
私は、答えを探していた。
先ほど冷たく突き放してしまった子達とのことを。
男の子は迷いなく、こう言った。
「もう一回挑戦する!それしかないよ。
失敗しない人なんていないんだ。
どんなすごい数学者だって、物理学者だって、99%の失敗から、1%の成功を導いてきたんだよ。
失敗することは悪いことじゃない。
失敗を活かさないことが悪いことなんだ!
って…これは俺の父さんからの受け売りだけどね。」
あぁ、こんなに素敵な人がいるなんて。
この人からは、"もう1つの声"は聞こえてこない。
ただまっすぐに、自分の好きなものに目を輝かせているんだ。
彼に出会えてよかった。ただその思いで胸がいっぱいだった。
私はもう泣かなかった。
その代わりに、満面の笑みを浮かべてこう言ったんだ。
文乃「ねぇ、お友達になりましょうよ!」
いつからだろうか。
空を見上げると
もう雨は降っていなかった。
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忘れもしない、春の思い出だ。
"あの人"は今どこで何をしているんだろうか
きっと、数学が好きなままでいるんだろうな。
"あの人"とは、あの時以来会っていない。
私が友達になって欲しいと言ったら、快く了承してくれた。
そのあと、今日は早く帰ってくるように言われているからと、すぐに帰ってしまったが。
今思えば、"あの人”が初めての友達だった。
うっかり名前を聞くのを忘れてしまった。
矢野「文乃〜!!」
私を呼ぶ声がする。
友達の矢野さんだ。
私と矢野さんは中学受験をして、同じ中高一貫の女子校に通うことになった。
佐藤さんと田中さんはそのまま近所の公立中学校に進学したため別々になってしまったが
みんな私の小学校時代からの友人だ。
矢野「今日部活ないんだ!だから一緒に帰ろ!」
私は、本を読みながら帰れないことを少し残念に思いつつも、笑顔でこう返す。
文乃「そうね。」




