海の化石
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にて書き始めたものを仕上げました
海鳥は話します。
私どものご先祖様が向こうの空を飛んでいた頃の話でございます。
ここいらには今よりもずっと澄みきった深い碧色の海がどこまでも広がっていたのだそうです。
空の青よりも深く、朝日を浴びた露草よりも清らかで、波しぶきはエスメラルダやマルガリータの光粒を散らしておりました。
長い長い時間が経ち、やがて大地は隆起し剣竜の背骨のような山が生まれ、逃げ遅れた小さな海が大地に取り残されてしまったのでございます。
* *
小さな海は波のない水面を空に向け雲に尋ねます。
「どこへ行くんだい?」
「流れてゆくだけさ」
雲はそう答えると山の頂をいとも簡単に越えて行きました。
「どこへ行くんだい?」
海は再び通りかかった雲に語りかけます。
「流れてゆくだけさ」
次の雲も同じように答えると山の頂を避けて去って行きました。
次の雲も次の雲も皆山の向うへと行ってしまいます。
小さな海もついて行こうとしますが思うように進むことはできませんでした。大した事のないように見えた丘が行く手を阻んでいたのです。
小さな海が暫く雲を見送った後、もくもくと大きな白雲が近づいてきました。
「お前さん、こんなところで面白いものはあるのかね?」
「僕は旅の見送りをしているんだ」
「そうかいそうかい、小さいのに大したもんだ」
白雲が陽気に笑うとざあっと風が吹きました
「ずっとここでは暑かろう?」
「そうでもないさ」
小さな海は丘の前で雲や鳥たちが駆けていくのを穏やかに眺めておりました。
ある日いくつかの雷雲がやって来て小さな海に話しかけました。
「いつもそうしているのかい?」
「そうさ、僕はここで見送らなくてはならないからね」
「お前さん、こんなところにいるが本当は海なんじゃないのかね?」
「そうさ、僕はきちんと海ほどに青いだろう?」
今ではもう離れてしまった海の事は殆ど思い出せなくなっていましたが、空よりも深く美しいあの碧を忘れたことはありませんでした。
「そうさな、お前さんのがよっぽど青いだろうな」
どれ程の時間が過ぎ去ったのかわかりません。
幾千幾億もの夜と昼を駆け抜けて小さな海はずっとずっと小さくかたくなっておりました。
その碧は果ての見えない宙の闇や、遥かに広がる空の青や、光を浴びて輝く天の雫と同じようでありました。
微細な泡には星の光が閉じ込められていて、ふわふわと舞ってはきらりちらりと輝きを溢すのです。
小さな海はもう少しも動けなくなっていました。
あの海よりも青い己のからだに驚き、海ではなくなってしまったことへの戸惑いを隠しきれず、答えはわかりきっていましたが心細くなり雷雲に尋ねました。
「…どこへ行くんだい?」
「俺達はここまでさ」
「ようく見ていておくれ」
小さな海はいつもとは違う言葉に期待と不安が入り交じって心が波立つのを感じていました。
雷雲はぐつぐつと煮え立っているようでした。顔をまっくろにして弾ける光を押さえつけているのです。
互いにぶつかり合い、どうどうと激しい音を轟かせながらひとつの大きな雷雲になると
「そら行け!」
透明な粒が一斉に落とされ、放たれた光の糸が大地に幾本も突き刺さりました。
「どうだ!」
雷雲が誇らしそうに叫びます。
光の糸は大地を縫い、天粒は大地を潤わせ、その轟は大地を揺らしています。
初めて見る光景に小さな海は目を奪われ、はじまりこそぼうっと眺めているだけでしたが、時が経つにつれ喜色が浮かび律動に合わせて輝きを増してゆくのでした。
小さな海が赤く染まっていくのを見た雷雲は、身を震わせあらん限りの力を振り絞ります。
「これはどうだ!」
「こんなのって見たことないよ!」
「そうか!そうか!」
豪快に笑う雷雲でしたが、だんだんと縮んでいくように見えました。
「どうかしたのかい?」
「どうもしないさ」
ばりばりと空を引き裂いた閃光は徐々に落ち着き、藍鉄に大きくそびえていた雷雲は白く小さくなっていました。
「旅は終わるものだからね」
そう言い残すと雷雲はゆらゆらとほぐれて消えてしまったのです。
雷雲が消えたあと、小さくなった海はひび割れ、流され、大地に埋まり、そのほとんどは地上からは見えなくなってしまいました。
小さくなった海と海の欠片たちは、空一杯に走る光や、からだ中に響く雷鳴の余韻を噛み締めながら暗い砂の下で眠りについたのです。
ある夜星の光を見ていた旅人は、夜明けの大地に星が光るのを見つけました。
辺りを見回しながら星の光る方角へと駆けると、夜明けの空や朝日を映したような欠片が光っています。旅人はおそるおそる手に取ると、大事そうに抱えてキャラバンへと戻って行きました。
久しぶりに感じた風のにおいに目を覚ました小さな海の欠片は、柔らかなものに包まれて旅人の胸ポケットにおりました。
旅人に連れられ山を越えると目の前には見たことのない光景が広がっているではありませんか。
朝にあっても夕闇色の花は夜には星の下で溢れる瞬きを受け止め、青く燃える草木は色とりどりに飾られています。
いそいそと駆け足で動く人間は大きな箱に吸い込まれては吐き出され、休むことなく動いています。
初めて見る街の様子に驚いた小さな海の欠片でしたが、一日の終わりには見慣れた太陽が空を赤く燃やすのを懐かしく眺めておりました。
幾つもの街を過ぎて、小さな海の欠片には青い地平線が見えていました。
珊瑚が敷き詰められた砂浜は白銀の粒が太陽を写しとってその輝きを増していきます。
「あぁ…久しぶりだなぁ…」
小さな海の欠片は砂浜の上でうんと小さく呟き、その声は誰に届く間もなく海風にさらわれてゆきました。
キャラバンが船に荷を積み込む間、旅人は砂浜で小さな海の欠片を見つめていました。
『何てきれいな星だろう』
じっと見つめる海色の瞳に小さな海の欠片は問いかけました。
「どこへ行くんだい?」
旅人は声に驚きながらも答えます。
「僕らは旅をしながら商いをしているんだ、これから海の向こうの国へ」
小さな海の欠片は長い長い時間をかけてやっと海に追い付くことができました。
追いかけられなくて再会を諦めていた碧い海は、すぐそばで空の青に泡を溶かしては揺らしています。
置いて行ってくれるだろうか。
頼んでみようか。
そう考えているところに誰かが話しかけてきました。
「やあ、もしかして青いのじゃないか?久しぶりだな」
声の主は昔見送った雲のひとつであるようでした。
「こんなところで会うとは、お前さん何してるんだい?」
見送った雲のこと、雷雲のこと、旅人のこと、街のこと、己を知る存在に小さな海の欠片は堰を切ったように話し出しました。
雲は驚いたり、笑ったり、感心したりしながら小さな海の欠片の話を聞いておりました。
話が終わるころには月は白金に輝き、小さな海の欠片は心が凪いでいくのを感じていました。
出発の汽笛に旅人は砂浜を急ぎます。
「どこかへ行くのかい?」
雲の問いに胸ポケットの中で小さな海の欠片はくすと笑い答えます。
「流れてゆくだけさ」
* *
小さな海の欠片は遠い海の向こうへと旅立ったのでございます。
私の祖母の祖母のそのまた祖母が旅人と小さな海の欠片から聞いた話と聞かされております。
その小さな海の欠片の旅がどのようであったかは私には知る由もありません。ですが、きっと今も何処かで空を映していることでしょう。
何故…ですか?
そうですね…私もまた欠片と共に旅しているのでございます。
そう言う海鳥は花弁の舞い散る小さな空色の欠片を嘴でつまんでおりました。
モチーフはオパールです。
エスメラルダ→エメラルド
マルガリータ→真珠