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六月の沈みかけた夕陽が曲輪高校の校舎をオレンジ色に染め上げ、校庭に長い影を落としていた。三階建てのその建物は静けさに包まれていた。
だがチャイムが鳴ると、とたんに風景が一変した。建物の中に人があふれていた。高校の生徒たちだった。足音。笑い声。止まっていた時間が突然動き出したかのようにざわめきが広がっていく。チャイムは本日の授業が終わった合図だった。
授業が終わるのを待ち構えていた生徒たちはカバンに教科書を仕舞って部活へ、あるいは家路へと向かうために次々と教室を後にしていく。歩きながら口にする話題は様々で、しかし向かう先は同じだった。
教室から校舎の出入り口へと向かうその流れに逆らうようにして、久慈啓太は職員室へ向かっていた。授業の前に担任の教師に呼び出されていたからだった。担任は複雑な表情で「授業が終わったら職員室まで来るように」と啓太に囁いた。そのとき他の生徒からは隠れるようにしていた。有無を言わせぬ口調だった。啓太は黙って頷くしかなかった。
呼び出された理由はわかっている。プリントの提出期限が過ぎているのだ。それで何度も注意を受けていた。
啓太の母親は三年前に亡くなった。それからは父親と二人で暮らしている。父親の仕事は夜遅くまでかかることが多く、一緒に暮らしているのに顔を合わせることは少ない。だから、いまでは啓太が家事のほとんどをこなしていた。
プリントには保護者の同意のサインが必要で、父親とあまり話す機会のない啓太はサインを貰えないままになっていた。そのせいで提出することができなかったのだ。帰ったら手紙を添えて父親のデスクにプリントを置いておこう、と思った。「仕事で疲れていると思いますが、このプリントに目を通しておいてください」と。いままでにも何度かやっていたことだが。
職員室の一番窓際が担任の教師の席だった。啓太を見つけると担任は小さくうなずいた。不安そうな顔をした担任は視線をさまよわせながら、大事なプリントだから出してもらわないと困るということをまわりくどく話しはじめた。怒るわけでもなく、核心をつかずにだらだらと同じようなことを喋っている。要領を得ない話しぶりだった。時折見せる様子を窺うような表情から、啓太の家庭の事情に配慮しているのだろうと察せられた。
母親がいないのは事実だが、こうして過剰に反応されるのは不快だった。啓太が話を遮り、「もう一度父親にお願いしてみます」と言うと、担任はほっとした表情を浮かべた。
啓太の生活に探りを入れるような「変わったことはないのか? 困っていることはないのか?」という担任との世間話に付き合ってから職員室を出ると、もう校舎の中には人の気配がなくなっていた。ずいぶん時間が経っていたようだ。校庭のほうからは野球部の掛け声が聞こえている。
早く帰らないと、と思った。
啓太は部活には入っていない。入りたい部活もなかったし、食事の準備や洗濯、掃除などもやらなければならない。とはいえ特別早く帰らなければ家事が片付かないというわけでもなかった。今の啓太が気にしているのはテレビ番組だった。「絶体絶命刑事」という刑事ドラマがお気に入りで欠かさずに見ているのだ。今日はその放送日で、六時から番組が始まる。
近くの教室の時計を確認すると、五時半を少し過ぎたところだった。急いで帰っても番組の開始時間には間に合わないが、終盤の銃撃戦のシーンには間に合うかもしれない。自然と速足になった。
飛びこむようにして自分の教室に入ると男子生徒が一人残っていた。坊主頭で小柄なその生徒の名前は山本と言ったはずだ。啓太とはあまり親しくはない。
誰もいないと思っていたので驚いた拍子に足が止まり、視線が合ってしまった。山本の視線は職員室に呼び出された生徒に対する好奇の視線などではなく、啓太のことを警戒して威嚇するような鋭いものだった。なぜだか睨みつけられていた。道を歩いていて、突然獰猛な野犬に出くわした気分になった。
面白くないことでもあったのだろう。親しくないし、かかわりあう理由もない。今日は早く帰りたいし。啓太はそう考えて、目をそらすと自分の席に向かい、何事もなかったかのように教科書をカバンに詰め込み始めた。