第六章 犯した罪
駿、武志、奈那、あゆ美、それに巌、グレッグ、ミシェルの七人が曼珠堂の居間に集まったのは、その日の夕方であった。
「政府もまた、随分と苦しい言い訳をしたもんだな」
巌は、お茶の入った湯飲みを片手に、テレビに向かって呆れた声を出していた。
紗月高校での騒動は、マスコミにまで取り上げられていた。教師と全校生徒が一斉に倒れたのだから当然である。しかし、夕方のニュースでの見出しは『都立高校で集団熱中症』というタイトルになっていたのである。
「情報操作、ですか?」
巌にそう訊いてきたのは武志であった。武志の口調は、どことなく戸惑っているように聞こえた。高一で、しかもこの平和な日本で、そんな言葉を口に出して人に訊く事があろうとは、夢にも思っていなかったのだ。しかし、そう思わざる得ない報道ではある。今は、夏から冬への衣替えの季節。熱中症は、確かに苦しい言い訳だった。
「裏側世界の事は、決して表沙汰にしちゃいけねえ事だからな。日本どころか世界が混乱する。すでに政府は第一級報道官制を布いて、この事件をこれ以上追えないようにしているはずだ」
巌は、テレビに目をやったままそう答えると、「そんな事より――」と、振り向いて言葉を繋げた。
「――四人とも、体に異常は無かったか? いきなりあんな目に会ったんだ、精神的にもかなりの負担が掛かったろう」
「とりあえず、問題なし!」と、明るく答えたのは奈那であった。
武志やあゆ美も、笑顔で頷く。だが、駿だけは違った。あぐらを組んで腕組みし、先程からずっと祖父を睨み続けていたのであった。
「オマエ、まだ怒ってんのか…?」
「当たりめえだろ!」
呆れた顔で言ってきた祖父に、駿は自分の膝を、パン!、と勢い良く叩き、更に腹を立てた様子を見せた。
「神通力だの魔術だの結界だの、なんだよそれ! 今までずっとじーちゃんが馬鹿にしてきた事じゃねえか! 俺は今までずっとそれを追ってきたのに!」
「ヒーロー力か? そんなカッコイイもんじゃねえよ……」
「でもよ…!」
「ミスター巌の言う通りよ。河本駿」
止まらない駿を制するように口を開いたのは、ミシェルであった。ミシェルは、正座で駿を見据えている。目を見張るような美貌であったが、その瞳には、いつもと違う迫力があった。
「ヒーローなんてカッコイイものじゃない。裏側世界と呼ばれる世界は、血にまみれているの。その世界に生きる人間は明日をも知れない身。そんな世界で、私も最愛の父を亡くしたのよ」
「えっ…?」
「私の母は病弱で、私を産んですぐに亡くなったわ。そのせいか、父は私に少しでも強い体を持って欲しいと、私に気孔を教えたの。でも、私が父の生きる世界を知った時、父は死ぬ最後の瞬間まで私に気孔術を教えた事を後悔していたわ。世界の秩序を守る為、死んだ所で表に出る事は無く、その存在すら抹消される。自分だけじゃなく、そこに関わった者全て例外なくね。裏側世界で生きるという事は、そういう事なの。貴方にその覚悟があって?」
「それは……」
「私の言っている事を少しでも理解出来るのなら、これ以上、祖父を責めるのはやめなさい。貴方の祖父は、たった一人の家族である貴方を守る為に、ずっと隠し通してきたのだから」
もう返す言葉も無く、駿はうつむいた。それから、正座をして祖父に向き直り、一言――
「すまねえ……」
祖父は、暖かい眼差しと笑顔を駿に向けた。
「しかし、ここまで関わってしまった以上、このままにしておく訳にもいかない。その為にも、君達四人には、ここに集まってもらったのだからね」
そう口を開いたのは、グレッグであった。グレッグは巌に向き、「よろしいですね?」と尋ねる。巌が厳しい表情ながらも頷くと、グレッグは再び、駿、武志、奈那、あゆ美の四人に向かった。
「知識は武器なり――これは我々魔術師の言葉だ。物事に対して無知のままでは、武器も持たずに戦場に立つのと同じ事。だから私はこれから君達に、裏側世界と今起こっている事件の概要について教える。私も、あゆ美嬢には聞きたい事があるしね。しかし、我々魔術師の言葉には、沈黙は金なり――という言葉もある。決して他言無用という事だ。わかるね?」
四人は同時に頷いた。
「それでは、順を追って説明していこう……」
『裏側世界』
超能力や魔術、呪術といったオカルトの類、それにミシェルが使うような飛び抜けた気孔術も含め、世間では迷信、インチキと言われているものが現実には存在しており、世界のあらゆる場所で暗躍している。これを総称して『裏側世界』と呼ぶ。現在、この事を知っているのは先進国の一部の首脳陣だけであるが、その事が国家レベルで話し合われる事などはなく、決して口に出される事も無い。つまり『存在しないもの』とされている。
グレッグの説明は、そういったものだった。
「……ともかく、君達に憶えておいてほしい事柄は二つだ。一つ目は、我々は万能ではない。我々が神のように万能であれば、現代科学はここまで発達してはいない。二つ目は、どんな能力においても力の源は皆同じという事だ。あゆ美嬢、この事に関しては、力が発現している君には良くわかるはずだ」
「はい」と、あゆ美は強い眼差しで頷き――
「力の源は強い思い、つまり『思念力』ですね?」
「その通りだ。思い念じる事で、それが形となり力として発現する。裏側世界には様々な能力が存在しているが、やっている事は全て同じなのだよ。未知なる部分に掛けられているリミッターを、それぞれのやり方で外しているだけなんだ。それは、人の悲しい性として、憎しみという思いが一番簡単に、なおかつ大きくリミッターを外す事が出来るんだ」
「それが、兄さんの力の源……」
あゆ美は、悲しげにそう呟く。
グレッグは、うつむくあゆ美に一枚の写真を見せた。それは、ミシェルが手に入れた空港の防犯カメラの映りこんだ日本人の少年の写真であった。
「この写真の少年は、君の言う兄で間違いないね?」
「はい。私が六歳の時に離ればなれになった双子の兄、東間一騎です……」
「ここからは俺が説明しよう。東間家に関わった裏側世界の人間として」
全員に向かいながら、巌がゆっくりと語り始めた。
「東間家は代々、感能力――つまりテレパスに秀でた一族でな、東間家は今も神通力なんて呼び方をしているが、確かにその潜在能力には神がかり的なものがあった。あゆ美嬢ちゃんにしろ一騎にしろ、二人の母である東間玲子にしろ、初対面の時は思わず後退りしちまった。なんと言うか……東間のテレパスは、普通じゃなかったんだ」
「まさか、イレギュラーサイズ…!」
「イレギュラーサイズ?」
驚いたように声を上げたグレッグに、武志が不可解な顔を向けた。
「平たく言ってしまえば、既存の能力に属さない未知なる能力、という事になるのだが……」
しかし、巌はグレッグに向かい、首を横に振った。
「……俺も、始めはそうかと思ったんだがな、東間の力は間違いなくテレパスなんだ。お前さんも知っての通り、俺もテレパス能力者だ。だから良く判るんだよ。ただ、力の強さ、使い方が、俺達の知っているそれとは多少異なっていたんだ。その力が、当時六歳だったあゆ美嬢ちゃんと一騎に発現してしまった。母親以上の力でな」
そして巌は、静かにあゆ美に向かい、言葉を続けた。
「君達兄妹の力を恐れた君達のお母さん――東間玲子は、その力を封印してしまおうと決心した。君達には、普通の人生を歩んでほしかったんだよ。しかし、自分一人の力では無理な事も判っていた。そこで玲子さんは、当時の内閣府に相談を持ちかけ、政府は俺を紹介したんだ」
「ないかくふぅっ!」と、駿がスットンキョンな声を上げた。
「昔の話だ。当時は、少しばっかり名が知られていたからな」と、返す巌。
するとグレッグが、いつもの紳士然とした笑みで巌に言った。
「少しとは……ミスター、謙遜のしすぎは逆に嫌味に聞こえますよ」
巌はグレッグに苦笑だけを返した。その二人の間で駿は、口を開けたまま閉じる事が出来なくなっていた。いくら祖父の隠していた力を目の当たりにした所で、それでも駿の知っている祖父は、老人会の寄り合いと古本だけが趣味の『じーちゃん』なのだから無理もない。
巌は、再びあゆ美に目を向ける。
「そうして俺は、玲子さんと共に君達兄妹の力を封印しようとした。だが、そこで問題が起こった。君達二人の能力は、予想していた以上に強すぎたんだ。封印は中途半端なものになってしまった上、嬢ちゃんの方は後遺症として六歳までの記憶を失い、一騎の方は、四肢の自由が利かなくなった……」
巌は、やりきれない表情を作る。
そんな巌に、あゆ美は、ゆっくりと顔を起こし、とても静かな声で訊いた。
「その時、母も亡くなったのですね……」
「そうだ。玲子さんは力を使い果たし、命を落とした――少し、思い出してきたかい?」
「まだ、全部じゃありませんが……でも、私と兄と母との三人で、よく遊んでいたのは思い出しました。その時の母の言葉も……確か、凄く難しい言葉を使われて、東間の家は普通の家とは違うと。でも貴方達二人は普通の子として生きてね、と……」
「国家特別指定最重要機密事項、こんな言葉じゃなかったかい?」
「ああ…! そうです、その通りです」
「嬢ちゃんの家は、そういう家なんだよ。嬢ちゃんが屋敷から消えれば国が動く。武志君が倒したあの男達も本物の国のSPだ。屋敷の警護に当たっていた者達だろう」
「それほどの家とは……」
グレッグは、この上の無いほどに険しい顔を作る。
「お前さん達が知らないのも無理ないだろう。この事を知っている者は、ごくわずかだ。歴代の首相ですら、前任からの東間家に関する引継ぎは口伝のみだからな」
「東間家に伝わるテレパスとは、それほどのものなのですか…?」
「あゆ美嬢ちゃんの能力は、普通のテレパスと変わらない。だが、能力が及ぶ範囲――つまりフィールドの広さは、常人の非ではない」
「五歳になる頃には、紗月町の住人全ての会話が聞こえるようになっていました……」
あゆ美のその言葉に、駿、武志、奈那の三人は目を丸くした。グレッグとミシェルの二人すら、言葉も無く驚愕している。
「始めの頃は、とても気持ちが悪くて、でも、母にも相談出来ませんでした。普通の子を望んでいた母を裏切るような気がして……だから、兄に相談したのです。兄は、あの頃から能力を使いこなしていましたから。もっとも、兄の使う能力は、私とはまったく質の違うものでしたけど……」
「あれこそが、東間の真の力なんだ。一騎のフィールド能力は大したものじゃなかったが、あの力があった。とにかく俺が恐れたのは、いずれ中途半端な封印が解け、その力とあゆ美嬢ちゃんのフィールド能力が合わさる事だった。そこで俺は、事の後、あゆ美嬢ちゃんと一騎を離れて暮らさせることを提案したんだ」
「そうだったのですか。だから兄は……」
「一騎は、六歳にして憎悪の権化と化した。もう手がつけられなかったよ……俺は、生まれて初めてだった。六歳の子供に、殺してやる、という言葉を使われたのは――」
そこまで言うと、巌はあゆ美に向き直る。そして、正座をして両手を付き、額を畳に付けた。
「――あゆ美嬢ちゃん、あの時は申し訳なかった。今話した十年前の出来事は、全て俺のミスが招いた結果だ。君達兄妹の潜在能力を完全に見抜けていなかった。本当にすまなかった」
「いいえ、顔を上げてください、おじいさま――いえ、巌さま」
「いや、謝らしてくれ。俺は、玲子さんを死なせ、君の記憶を奪い、一騎をあんな風にしちまった張本人だ。いくらでも罵ってくれていい。本来であれば、殺されたって文句を言えるような立場じゃないんだ。今日だって、紗月高校で一騎と再会した時、あのまま殺されてやろうかとも思った。それでアイツの気が治まるのならと……でも、虫のいい話だと思うかもしれないが、俺の頭からは、そこに居た駿の事が離れなかった……」
「じーちゃん……」
あゆ美は、綺麗な微笑みを浮かべながら、巌の肩にそっと手を当てて顔を上げさした。
「私、おぼろげですけど憶えています。巌さまが、私や兄と一緒に遊んでくれたこと、『俺が必ず普通の子供に戻してやる』そう言って、私と兄に向けてくれたあの笑顔も」
「だが、俺はそんな君達に嘘をついた……」
「そんな事はありません。多少の手違いはあったでしょうが、少なくとも私はこの十年間、普通の子供として生きる事が出来ました。感謝こそすれ、恨みなどあるはずがありません」
「……嬢ちゃんは優しいな。姿形だけじゃなく、心までお母さんそっくりだ」
「私が……」
巌の懐かしむような笑顔に、あゆ美は嬉しそうな笑顔を作った。
「それなら、兄もきっとわかってくれるはずです。だって、私達は同じ母に育った双子なんですから。話せばきっと」
だが、巌はやりきれない表情で首を横に振ったのだった。
「すまないが、それは多分無理だろう……」
「えっ…!」
「俺があゆ美嬢ちゃんと一騎に施した封印は、中途半端だったとは言え、十年やそこらで解けるようなものじゃない。それを一騎は破ったんだ。アイツの憎しみは、それほど強いという事なんだよ」
「でも、私だって…!」
「嬢ちゃんの封印が解けたのは一騎が関係しているんだ。双子、特に嬢ちゃんと一騎のような一卵性双生児の場合、魂が繋がっているからな。一騎が自分の封印を破った事により、嬢ちゃんの封印が緩んだ。そこに、今日起こったあの突発的な事件を切っ掛けとして、嬢ちゃんの封印は解けたんだよ」
「そんな……」
「俺も、一騎を憎しみから解放してやりたい。だからこそ俺は、一騎の住む場所としてロンドンを選んだんだ。ロンドンには東京より腕利きの裏側世界の人間はいくらでもいるし、古い仕事仲間も何人か居る。封印が解け、一騎が暴れだした時、俺がすぐに駆けつければ、現地の人間と一緒に対処が出来ると考えたんだ」
「記憶の封印、ですね?」
そう訊いたのはグレッグであった。
巌は小さく頷く。
「使いたくは無い手段ではあったが、アイツを憎しみから開放してやる最終的な方法は、もうそれしかないと考えていたんだ。もっとも、もう無理だがな……」
「無作為に暴れる事しか考えていなかった復讐鬼に、戦略を吹き込んだ人物が現れた」
「バーノン=カミング。まさか、生きてまたあの男のツラを拝むことになろうとはな……」
「それが、あの黒い車の後ろに座っていた外国人ですか?」
武志が訊き、グレッグが難しい顔をして答えた。
「そうだ。ここで詳細を話しておきたい所なんだが、正直言うと我々もあの男に関しては、よく判っていないんだ。ただ、天才的な戦略家であると同時に、人心掌握術の持ち主だということ。それ以外は、何の異能の持ち主なのか、目的は何なのか、雇い主は居るのか居ないのか、それすら判っていないんだよ」
「俺も、現役の頃に一度だけ関わった事があるが、結局判らず終いだった」
続けて口を開いた巌も、グレッグ同様難しい顔を作る。
と、そこにミシェルが口を開いた。
「いずれにしろ、東間一騎の前にバーノン=カミングが現れた事により引き起こされた結果が、これという事ですね?」
ミシェルは、歌舞伎町のカフェでグレッグに差し出したA4サイズの茶封筒の中から何枚かの写真を取り出し、テーブルの上に広げる。
昼夜の違いはあったが、全て同じ風景の写真であった。
「イギリスの議事堂、ウェストミンスター宮殿。ロンドンを代表する風景ですよね」と武志。本好きらしい博識ぶりである。
「わっ、この夜景の写真、キレイ!」と奈那。少女らしく、外国の風景に目を輝かせている。
「よく撮れてなぁ」と駿。一人、ノン気な声を出している。
しかし、そんな三人とは別に、巌は眉間に皺を寄せ、あゆ美などは目を背けていた。
「お二人には、判ったようですね」
ミシェルが言う。巌が、険しい面持ちのまま答えた。
「凄まじいな、これは……」
「えっ? なにが?」
駿が思わず疑問の声を出す。武志と奈那も同様に、わからない顔をしていた。
と、不意に巌は立ち上がり、三人の後ろに立つと、「そのまま……」と言いながら、まず武志の額に手を当てた。それから奈那、駿の順に額に手を当てていった。
その途端である。武志と奈那の二人は同時に、幽霊でも見たような顔を作ったのだった。
「なによこれ…!」
最初に奈那が声を上げた。気付いたのである。シェリルの見せた写真『ウェストミンスター宮殿』の写真には、徹底的な物が欠けていることを。
「無い…! ビックベン!」
イギリスの象徴、一五○年以上の永きに渡り時を刻み続けてきたロンドンの代表的建造物である大時計台『ビックベン』が、どの写真にも写っていなかったのである。
いつもは冷静な武志すら驚きの声を上げてしまうのは無理もなかったが、それ以上に驚くべき事が、その何枚もの写真にはあった。
「ねえ武志、なんでアタシ達、最初に気付かなかったの…?」
「そこだよ――訳がわからない……」
頭を抱える二人に説明したのはグレッグであった。
「その写真からは、人の記憶を消失させる力が発せられているんだ。つまり、君達の脳内からはビックベンの記憶が消失させられていた。それを今、ミスター巌が遮断したんだよ」
「写真ですら、この影響力だ。現地では何人が気付いている?」
巌は、更に険しい顔をグレッグに向ける。
「王家と、内閣の者達が数名、それに限られた魔術師とサイキックのみです。私が報告しなければ、王家も内閣も、永久に気づく事は無かったでしょう。私ですら、始めは違和感を感じただけだったのですから」
「オマエさん程の魔術師の目までくらますとはな……」
「そして、東間一騎の力は更に増しています――今から一ヶ月前、我々は一度、一騎の攻撃を受け、オフィスをビルごと消失させられたのですが、ビルの周りにもフィールドが展開されていて、寸前で脱出した私とミシェルにすら誰も気が付いていないという状況でした。ビックベンの時には見られなかった現象です。攻撃には、アブラメリンマジックを使う未確認の魔術師も加わっていましたが、あのフィールドは間違いなくサイキックによる物です」
「なるほどな――しかし、その未確認の魔術師というのも気になるな。今日、学校を襲った奴と同一人物か?」
「おそらくは……」
すると、巌はうんざりしたような顔で、
「やれやれ、この歳になって、それだけの奴らを相手にしなきゃならねぇとはな……」
と、溜め息交じりに呟き――
「ともかく、敵はバーノン=カミング、東間一騎、手だれの魔術師の三人だが、いずれにしろ、バーノンを押さえちまえばカタは付く――グレッグ、バーノンの行方は掴めないのか?」
「残念ながら……」
「オマエさん達のクライアントである王家の情報網を持ってしてもか?」
「お気づきでしたか……」
「ここまで話されりゃ、察しはつく。勅命か?」
「はい。女王陛下は、イギリスの象徴であるビックベンの消失を大変憂いでおられます。しかし、我らには、この消失のカラクリすら未だ掴めていません」
「東間の力の真髄〈神隠し〉と呼ばれる力だ。そして、一騎だけが受け継いだ力でもある。まあ確かに、初めて見る人間には、訳が分からないだろうがな……」
東間の力、その正体を知っているかのような巌の口ぶりにグレッグは、
「まさかミスターは、この物体消失のカラクリをご存知なのですか!」
と、思わず身を乗り出した。ミシェルも同様に、目を丸くしている。だが、巌の返した返事は、あまりにも突拍子も無いものだった。
「あれはな、手品なんだよ」
「はっ?」
グレッグとミシェルは、拍子抜けした顔で同時にそんな声を漏らした。しかし、巌は至極真面目な顔で語るのだった。
「よくあるだろう。見る者を自分の右手に集中させといて、左手で手品のタネを掴んでるってやつが。もっと解かりやすく言えば、頭に掛けたメガネを必死に探してるのと同じ事だ」
グレッグもミシェルも呆然とし、すでに驚きの声すら上げられない。しかし、更に語る巌の顔も崩れる事はなかった。
「すぐそばにあるのに、気付けない。よしんば俺達のように気付けたとしても、見る事が出来ない。触ろうとしたって、そこには何も無い。視線を完全に外され、まったく別の所を触らされる。東間の力が掛かった物体には、脳をそういう風に作用させる力が込もるんだ。だが、理屈がわかったところで、どうする事も出来ねえ。こっちが力を使う前に、そうさせられちまうんだ。力の仕組みは単純なのに破る事が出来ない、東間の力……一騎が受け継いだ力の本当に恐ろしいところはそこであり、それが〈神隠し〉と言われる所以だ」
「そんな……馬鹿な……」
「ああ、そうだ。グレッグ、お前さんの言う通り「そんな馬鹿な」だ。俺も東間玲子にこの話を聞かされた時、同じセリフを吐いたよ」
「それでは、力の解除は……」
「ああ、無理だ。一騎本人以外には、力の解除は出来ない」
巌の言葉にグレッグは腕を組み、溜め息を吐いた。裏側世界のあらゆる能力を網羅しているグレッグですら、そんな能力は聞いた事がなかったのである。さすがのグレッグも手の打ちようがなかった。
「あゆ美嬢は……」
何か手立てはないものかと、グレッグは助けを求めるようにあゆ美に向いた。
しかし、先にあゆ美に質問をしていたのは駿であった。
ただし、全く関係の無い質問、ではあったが……
「なあ、あゆ美ちゃん。ビックベンってなに?」
「えっ? 駿さま、ご存知ないのですか!」
「いやぁ、外国の事は、どうも弱くって……」
そういう問題ではない。一般常識である。
「ミスター巌、お孫さんは力の影響を受けすぎているのでは……」
思わずグレッグは心配な顔を巌に向けたが、巌は申し訳無さそうな顔で答えるのだった。
「いや、気にしなくていい。俺がちょいと育て方を間違えただけだ」
「君ってヤツは、本当にバカだなぁ……」
武志は、その童顔が崩れるほどの呆れた顔を作り、頭を抱えた。
「なんだよなんだよ! 人のことをバカだの、育て方を間違えただの!」
不満をたっぷり含ませた顔で声を上げる駿。だが、奈那が即座に怒鳴り返した。
「本当にバカなんだから、しょうがないじゃない!」
奈那は、ウェストミンスター宮殿の写真を駿に突きつけた。
「いい、駿! 本当であればここに大きな時計台があるの! ビックベン! 中学の英語の教科書にだって載ってる写真でしょーが!」
「あっ! ああっ!」
バカがやっと気付いたようである。
「そうだそうだ、時計がねえや! わっ、すげえなこの写真! 合成とかじゃないんだよな!」
奈那は、グレッグとミシェルに向かい、深く頭を下げた。
「駿がバカですみません……」
「そこっ、あやまるな!」
グレッグの笑顔は引きつり、ミシェルなどはこの有様に下を向いて必死に笑いを堪えていた。
「だいたい、俺がバカだろうが何だろうが、俺の中のヒーロー力が変わるわけじゃねーんだ」
「アンタ、まだそんなこと言ってんの……」
「これに関してだけは、もうバカにはさせねーぞ。なんてったって、俺はこんなスゲエじーちゃんの孫なんだからな。俺の中にだってあるはずなんだ。なっ、じーちゃん」
「河本駿、私はさっき言ったはずよ。裏側世界は……」
思わず口を挟むミシェル。しかし、そんなシェリルに巌は手をかざし、言葉を遮る。
不可解な顔を見せるミシェルを横目に、駿は祖父に言った。
「じーちゃんの言いたい事は判るよ。確かにミシェルさんの言う通り、裏側世界はおっかねえ。正直ビビッてる。でも俺は、じーちゃんやあゆ美ちゃんを助けたい。力があるのに誰も助けられないなんて、俺は絶対にイヤだ!」
だが、巌は、厳しい顔でも笑顔でもなく、なぜか困った顔をするのだった。
「あー、その事なんだかな、駿。やる気になっている所に、水をさすようで悪いんだが……」
「な、なんだよ? ハッキリ言えよ」
「オマエに異能の才能は一切無い」
「はい…?」
「もう一度言おう。駿、オマエは俺の才能を一切受け継いじゃいない」
駿にとっては、まさに衝撃の事実である。思わず半立ちになって声を上げた。
「ちょちょちょちょ、ちょっと待てよ! ここは、親や祖父から受け継いだ力は未だ眠っていて、って言うのがお約束だろ!」
「確かに、あゆ美嬢ちゃんにも見られる通り、能力というのは遺伝する。でもな、息子の祐介、オマエの父親も俺の才能を引き継いじゃいなかった」
「だからって、やってみなけりゃ……」
言葉の途中で巌は溜め息を吐き、立ち上がる。
と、台所からスプーンを一本持ってきた。
「俺が力を貸してやるから、こいつを曲げてみな。いわゆるスプーン曲げだ。テレパス能力とは違うが、才能があれば念動力者じゃなくても、それくらいの事は出来る」
「よーし!」と、腕まくりをして意気込む駿。
巌は、駿の後ろに回り、駿の額に手を当てる。
「いいか駿。曲がれと念じるんじゃない。このスプーンは粘土だと思い込むんだぞ」
駿は頷くと、スプーンに指を添え、集中を始めた。
一分……二分……三分……
だが……
「ぷはー、今日は調子が悪いみたいだ。でも練習を続ければきっと……」
愛想笑いを浮かべる駿の言葉の途中で巌は、何の変化も起きなかったスプーンを駿の手から取り上げ、それを奈那に手渡した。
「えっ? アタシ? ムリムリ! 絶対ムリ!」
「まあ、騙されたと思ってやってみな」
巌は奈那に笑顔を向けると、後ろに回り、奈那の額に手を当てる。
「やり方は、さっき駿に説明した通りだ」
「うん……」と、奈那は不安な面持ちのまま答え、スプーンに人差し指を添える。
……と、その瞬間、スプーンはまさに粘土のように曲がったのだった。
「うそっ! マジで! うっそぉ!」
驚きのあまり、すっとんきょんな声を上げる奈那を、グレッグとシェリルは感心するように見詰め、武志とあゆ美は驚き、駿は腰を抜かした。
「思念の力って言うのは、何も異能ばかりに働く力じゃない。一流のスポーツ選手なんかにもよく見られるんだ。要するに〈自分が成功する姿をイメージする〉それが明確であれば明確であるほど潜在能力は引き出され、一流になってゆく。奈那ちゃんの場合は、一流のスポーツ選手だったお母さんの才能を強く受け継いでいるみたいだから、思念する力も強いんだよ」
「そう言えば、お母さんも言ってた。本当に上を目指したければ、ただ闇雲に練習するだけじゃダメだって。常に自分が勝つ姿を頭に焼き付けなよって」
「そういうことだ」
それから巌は、駿に向いた。
「しかしだ、駿。奈那ちゃんは別に能力者というわけじゃない。こんな事は、コツさえ掴んじまえば誰でも出来る事なんだ。しかしオマエは出来なかった。これがどういう事か判るな?」
駿は、頭をうな垂れて答えた。
「俺は、じーちゃんの才能を受け継ぐ事も無く、平均点以下ってことか……」
「そういう事だ。あきらめろ」
子供の頃から『ヒーロー力』と名付けた力を追い求めてきた駿にとって、それは死刑宣告にも等しい言葉であった。
「結局、俺は誰も助ける事は出来ないのか……」
「そんな事はありません!」
珍しくあゆ美が、興奮した様子で立ち上がり声を上げた。駿を含めた全員が思わず驚きの顔を作る中、あゆ美は更に声を上げる。
「初めて出会った時、屋敷に連れ戻されそうになった時、今日学校で襲われた時、常に私は駿さまに助けていただきました! 駿さまが居なければ、今私はこの場に居ません!」
「あゆ美ちゃん……」と、駿は助けられたような笑顔を浮かべた。
が、そこにグレッグが口を挟んだ。
「……しかし、現実として力無き正義は無意味だ」
「グレッグさま…!」と、あゆ美が怒った。あゆ美が怒るなど、もしかしたら生まれ始めての事かもしれない。
「まあ、あゆ美嬢、落ち着きたまえ。私は、そんな彼に力を与えてあげようと言っているのだから」
「えっ?」と、あゆ美と駿は同時に驚いた。
グレッグは、着こなしたダンヒルのスーツの内ポケットから、手の平ほどの紫色の袋を取り出し、それを駿に手渡した。
「その袋の中には、テトラグラマトンが刻まれたタリズマンが入っている。言ってみれば御守りだが、その辺の三流魔術師や呪術師が作った物とは訳が違う。私の魔力が込められているのだからな。君がそのタリズマンの力を信じる限り、四大天使とエレメンツの精霊達は、必ず君を邪悪から守ってくれる。信じられるかい?」
「グレッグさんの力は目の前で見てるからな――信じられるよ」
笑顔を作る駿に、グレッグも紳士然とした笑みを向ける。それから、「君達にも渡しておこう」と言って、同じ物を武志と奈那にも手渡した。
その様子を見ながら、巌は驚いた顔を作っていた。
「まったく、底が知れないな、オマエさんは――一枚の護符に四大元素の力を全て込めるとは」
「ええ、通常であれば反発しあって無理なのですが、このタリズマンは私の家に伝わる秘伝の物でしてね。本来は門外不出ですが、今はそうも言ってられないので用意させてもらいました」
「やはり、家柄からただ者じゃなかったか」
「いやいや、ただの没落貴族ですよ、私は……」
笑顔を浮かべるグレッグの横顔に、奈那は憧れの眼差しを向けていた。
「貴族だなんて、やっぱり本物の王子様だったんだ……」
目の中にハートマークが浮かんでそうである。
「それでは、我々はそろそろ行くとしましょう。欲しかった情報も手に入りましたしね」
そう言ってグレッグは、ミシェルと共に立ち上がる。
「バーノンと一騎の行方は、俺の方でも追ってみよう」
言いながら、巌も立ち上がった。
その横では、あゆ美が疲れを隠せない様子で駿に口を開いていた。
「駿さま、すみませんが、私も今日はもうお部屋の方で休ませていただきます」
「うん、そうした方がいいよ。今日は色々ありすぎたから――晩メシは後で部屋の方に持って行くよ」
「ありがとうございます」
と、あゆ美は深々と駿に頭を下げた。
「じゃあアタシ、晩ごはん作っていってあげるよ」
奈那は、いつもの家庭パワー全開で台所に入って行く。その後ろを武志が、「僕も何か手伝うよ」とついて行く。
あゆ美は静かに二階への階段を登っていった。
と、そのあゆ美の背中に駿が声を掛けた。
「あのさ、あゆ美ちゃん」
「はい」と、あゆ美が振り返ると、駿は決意した顔で言うのだった。
「なんだか俺の中には、自分が思っていたような大それた力は無いみたいだけど――それでも俺、あゆ美ちゃんのこと守るから。俺がやってきた事が、あゆ美ちゃんの助けになっていたのなら、俺は変わらずあゆ美ちゃんを守る。それが俺のヒーロー力だから」
「それでは、私も変わらず駿さまのヒーロー力を信じます」
そう答えてあゆ美は、女神のような微笑みを浮かべたのだった。
一方、巌はグレッグとシェリルを玄関先まで見送りに出ていた。
「もし何か掴んだ時は、ここに連絡をお願いします」
グレッグは懐から名刺を出し、巌に渡す。それから、シェリルと共に踵を返した。
が、不意にグレッグは振り返り、言うのだった。
「ときにミスター、お孫さん、本当にあれで良かったのですか…?」
その言葉には、どこか躊躇があった。
「どういう意味だ…?」
答える巌の顔に、表情は無い。
グレッグは、しばらく巌を見詰めたが、顔を伏せ、首を振った。
「……いや、私とした事が差し出がましいことを言いました。忘れてください」
巌は何も答えず、そのまま曼珠堂の中へと戻って行った。
「グレッグ様、やはりあの少年は……」
「ミシェル、それを口に出していいのはミスター巌だけだ」
「はい……」
ミシェルは、何かやりきれない表情で顔を伏せた。
今日も何事も無かったかのように、紗月町の夜は静かな虫の声だけが響いていた。
大地に落ちた星屑のように、夜景は色とりどりに煌いていた。
新宿――東京都庁展望室。
「この街は美しい。全てを壊してしまいたいくらいに……」
人気の無くなった真っ暗な展望室で、少年は憎しみをたたえた瞳でうっすらと笑顔を浮かべる。東間一騎――
「もうすぐだ。準備は全て整った」
四十代半ば、帽子にスーツ姿の外国人男性が、物静かな口調で一騎に言った。バーノン=カミング――
「ありがとう、バーノン。僕のワガママに付き合ってもらって」
「気にするな。老人方には、いいデモンストレーションになる」
「僕はね、許せないんですよ。少年時代という貴重な時間を地獄で暮らしてきた僕に対し、この国は僕を『存在しなかった者』として扱った。許しはしない……」
「判ってるさ、一騎。思う存分、復讐してやるといい」
不意に、足音も無く二人の後ろに人影が立った。
髪の長い、少女の影――
「待っていたよ」
一騎が振り向く。
その姿は、紛れもなく東間あゆ美であった。